名句の花束

名句の花束ーフランス文学の庭から(45)

« Mon Nara » No 275, 2016年5-6月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(45)

 三野博司(会長)

 

Quand finira la comédie ?  (2)

いつ終わるんですか、この芝居は?

(マリヴォー『愛と偶然の戯れ』 1730年)

 

前号でシルビアの台詞を紹介しました。「Quand finira la comédie ? いつ終わるんですか、この芝居は?」ところが、父親は簡単に終わらせようとはしません。彼にはこの芝居が最後には良い結果をもたらすという確信があるようです。双方が変装して化かし合っているわけですが、このゲームでは耐えきれなくなって先に正体を明かしたほうが負けなのです。父親はそのことも十分にわきまえていて、娘にじっと我慢させて、相手が降参するのを待たせるのです。

この変装をいっそう複雑にしているのが、マリヴォー風文体marivaudageと呼ばれる陰影に富む微妙な台詞です。召使いに変装したシルヴィアは召使として語っているのか、あるいは自分の本心を漏らしてしまっているのかあいまいです。そこへ傍白が加わって、台詞が示す心理の層はさらに複雑になります。モリエールの芝居のような古典主義的な簡明さをもたないために、登場人物の解釈も多義的でニュアンスとふくらみをもつものとなります。

マリヴォーの有名なことばがあります。「私は恋心が身をひそめていそうな穴を注意深く見張った。私の喜劇の一つ一つは,そういう穴から恋を引き出して見せることにある」。このような微細な心理の綾を分析することにかけて、彼は卓越した技量を見せました。しかし18世紀は哲学思想の時代でもあるので、たとえばヴォルテールのように批判する人もあらわれました。「私はむしろ彼にさまざまの感情をあまりにも細かく分析し、時には人心の大道からそれて、いささか曲がりくねった小道を取ったことを咎める」。果たして人心の大道からそれているのか、このような微細こそが人心ではないか、という気もします。

『愛と偶然の戯れ』は、冒頭で、男女双方において主人と召使が変装して入れ替わるという手法を用いていますが、その5年前、1725年にマリヴォーは同じような身分転倒の芝居『奴隷の島』を書いています。島というのは孤立した小宇宙であり、独自の文化・文明をもっていることがあります。そこへ外界からヨーロッパ人がやってきて、奇想天外な体験をするという「島もの」は、当時流行したようです。『奴隷の島』には主人と召使の身分が逆転するという規則があり、そこへ漂着した2組の主人と召使の喜劇が繰り広げられます。ただし、身分が入れ替わっても、最後にもとに戻るところは『愛と偶然の戯れ』と同じです。この半世紀後に勃発するフランス革命のように、実際に階級転覆が起こるわけではありません。

『奴隷の島』はコメディー・フランセーズではなく、ずいぶん昔にモンパルナスの小劇場で見たことがあります。劇場の入り口で料金を払うとき、こんなやりとりをしたのを覚えています。「学生ですか?―いいえ」、「失業者ですか?―いいえ」、「大家族ですか?―いいえ」、「じゃあ正規料金で、40フランです」。ユーロではなく、まだフランの時代でした。いまでは学生と間違われることはないのでこんな質問は受けませんが、かといって窓口で「失業者ですか」とたずねられたのはこのときだけです。「大家族ですか」と質問されたことも、他には一度もありません。フランスの鉄道SNCFでは、3人以上の子どもを連れて乗車するときは大家族 famille nombreuse 割引になるようですが、私が劇場に行ったときはひとりでした。この劇場のウェブサイトを見ると、学割、失業者割引は現在もあるようですが、大家族割引料金はありません。いつまであったのでしょうか。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(44)

« Mon Nara » No 274, 2016年3-4月号 掲載

名句の花束—フランス文学の庭から(44)

三野博司(会長)

 

Quand finira la comédie ? (1)

いつ終わるんですか、この芝居は?

(マリヴォー『愛と偶然の戯れ』 1730年)

 

『タルチュフ』は偽善者に翻弄される父親によって引き起こされた一家の危難を描いていました。この父親の名前はオルゴンでした。愚昧でありながら、家父長としての権力を振りかざし、愛娘をタルチュフに嫁がせようとし、息子に向かっては勘当するぞと脅します。およそ尊敬されるべき父親像とはほど遠いです。

同じオルゴンという名でありながら、マリヴォー『愛と偶然の戯れ』に登場する父親は、ずっと思慮深くて、明察の持ち主です。この名前の一致は偶然ではなく、作者はモリエールの傑作を十分に意識して命名したのだと言われています。『タルチュフ』から66年後、1730年に上演されました。ルイ14世の絶対王政の時代が過ぎて、18世紀に入り、家族のありかたが変化しているように思われますが、実際はそうでもなく、この物分かりの良い父親像はこの時代でも例外的だったようです。

マリヴォー  Marivaux はl688年、裕福な貴族の息子としてパリに生れました。パリの法学部で学びますが、法律の勉強をなおざりにして、文筆家の道を選びます。1720年に発表した喜劇『恋にみがかれたアルルカン』により名声を得て、以後30数篇の喜劇を書きます。なかでも恋愛喜劇が有名であり、恋の発生およびその後の恋に対する主人公の揺れ動く心理を描くのを得意としました。

3幕散文喜劇の『愛と偶然の戯れ』は彼の代表作です。『タルチュフ』については、かつてNHK-BSで放映されたコメディー・フランセーズによる上演を授業で紹介したと書きましたが、同じ時期にやはりBSで放映された『愛と偶然の戯れ』も楽しい舞台なので、毎年のように授業で見せていました。18世紀の裕福な市民の館が再現されて、いかにもロココ趣味の芝居に仕上がっています。他方で4年前パリに滞在したときに見たコメディー・フランセーズの舞台は、ずっとシンプルで様式化された装置が設えられ、現代的な演出でした。父親がやや滑稽に描かれて、変装した娘のゲームを楽しんでいる風だったり、それぞれの人物の演技が過剰で性格付けが強調されていたり、マリヴォー劇に対する新しい解釈がそこに反映しているのでしょうか。色で言うと、やや原色が目立つという感じです。ただ授業で見せたいと思うのは、単に自分の感覚が古いだけなのかも知れませんが、やはりかつての優美なパステルカラー色の演出です。

物語は、オルゴンの娘と、このオルゴン家にやってきた田舎に住む青年の恋ですが、2人はたがいに相手の人物を見きわめようと、召使いと役割を取り変えます。ここでは、変装 déguisementが重要な主題となります。登場人物6人のうち4人が第1幕冒頭で変装して、そのまま芝居が進行します。これにより人物それぞれの性格が二重になり、人間関係も複雑化します。コミュニケーションは不透明になり、幾重ものヴェールで覆い隠されて、どこに真実があるのかわからず、人物たちはついには自分のアイデンティティまでも疑い始めます。他人を演じることは、結局自分自身の正体について自問することになるのです。ここには、変装のもつ二重性があざやかに示されています。変装することによって自分自身を隠し、自由にふるまうことができる。しかし、その自由は結局もう一つ別の檻に入ることであり、今度はそこから抜け出すことが困難になります。

引用句は、第2幕第11場、父親に頼み込んで変装ゲーム始めたシルヴィアが、とうとう耐えきれなくなって父に問う場面です。「Quand finira la comédie ?  いつ終わるんですか、この芝居は?」(以下次号)

名句の花束ーフランス文学の庭から(43)

« Mon Nara » No 273, 2016年1-2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(43)

 三野博司(会長)

 

C’est à vous d’en sortir.  出ていくのはおまえだ。(2)

(モリエール『タルチュフ』1664年)

 幕が上がると、オルゴン家の広間。主人の留守中に家族がタルチュフのうわさをしています。そこへ帰宅したオルゴンが登場しますが、加減の悪い妻を気遣うこともなく、「留守中、タルチュフさんはどうだった?」と繰り返すばかり。第2幕では、オルゴンが愛娘をタルチュフに嫁がせようと目論んで、家族の猛反発を受けます。さんざんタルチュフが話題になるのに、いっこうに舞台に姿を見せません。こうして観客の好奇心をそそっておいて、第3幕にいたって、ようやくこの偽善者がいかにも敬虔な信仰家の顔つきで登場します。この手法をゲーテは称賛したと言われています。

第4幕、テーブルの下に隠れてタルチュフの化けの皮をはがすといういかにも笑劇めいた場面を経て、オルゴンは目覚めますがあとの祭り。タルチュフに全財産を譲渡するという書類をすでに書いてしまっています。「出ていけ」というオルゴンに対して、「出ていくのはおまえだ」とタルチュフが居直るセルフが、上に掲げた句です。「軒を貸して母屋を取られる」というやつですね。「恩を仇で返す」とも言えます。自分にとって役に立つ、益になりそうだと思って内部に招じ入れると、こいつが手に負えない代物で、結局は自分の命取りになるというパターンですが、これは私たちの身の回りでもいろいろな場面でありそうです。

『タルチュフ』の場合は、第5幕、偽善者のたくらみが成功する直前に、国王の使者による救済の手がのべられて、一件落着となります。いかにもあっけない幕切れですが、これはモリエールにはよくあること。彼の劇については、筋の展開は二の次で、時代の風俗や性格の描写にこそ真骨頂があるのだと言われています。

大学の授業で見せていたビデオは、1973年ジャック・シャロン演出のコメディ・フランセーズ版です。この舞台映像が、ずっとのちになって、1980年代にNHK・BS放送から日本語字幕付で放映されました。それを録画したものを毎年授業で使っていました。17世紀の町人の屋敷を再現した舞台装置が臨場感を高め、タルチュフを始めとしてそれぞれがはまり役という感じで完成度の高い舞台だと思います。数年前からは、コメディ・フランセーズ、モリエール・コレクション DVD-BOX、全15作品、日本語字幕付が発売されています。ただ、このシリーズは、舞台は狭くて装置はないというに等しく、『タルチュフ』も登場人物がのっぺりした壁の前で演技するだけ、その演技も薄っぺらく感じられます。

パリへ行くたびに、しばしばコメディ・フランセーズ劇場に足を運びます。ごく最近では、2015年11月にマリヴォー『二重の不実』を見たばかりですが、この劇場での最初の観劇体験は、1980年9月の『タルチュフ』でした。たぶんシャロン演出だったと思いますが、細部はあまりよく覚えていません。初めて入った劇場の伝統ある格調高い雰囲気だけが強い印象として残っています。

ただ『タルチュフ』の舞台を始めて見たのは、その前年の1979年、TNP(フランス国立民衆劇場)の来日公演です。フランスの劇団の引っ越し公演が大阪で見られるなどというのはもう今では考えられないですが、かつての大阪厚生年金会館中ホールで見た舞台は、ロジェ・プランション演出でした。タルチュフを若い男性に設定する演出が当時話題になっていたと記憶しています。オルゴンは、町でみかけたタルチュフを優れた聖職者だと信じ込んで、わが家に招き入れるのですが、そこにオルゴンの隠れた欲望を読み取るというものです。つまりオルゴンは同性愛者であり、性的たくらみをもって、若い美貌のタルチュフに近づき、自分の家に住まわせるのです。まあ、そういう解釈もありかな、という感じではありますが。

名句の花束ーフランス文学の庭から(42)

« Mon Nara » No 272, 2015年11-12月号 掲載

フランス文学の庭から(42)—名句の花束

 三野博司(会長)

 C’est à vous d’en sortir.  出ていくのはおまえだ。(1)

(モリエール『タルチュフ』1664 年)

 

この3月で奈良女子大学を定年退職し、4月から同大学キャンパス内にある放送大学奈良学習センターに勤務しています。各都道府県にある学習センターの所長は、事務長の補佐を得てセンターの管理運営を請け負いますが、同時に放送大学特任教授でもあるので、管理職と研究職を兼ねています。研究のほうはこれまでと変わりませんが、所長の仕事は、大学での文学部長の仕事などとはずいぶん違うという感じでした。が、それも半年で慣れました。

強く実感したのは、奈良には勉強熱心な高齢者の人が多い、ということです。実際、奈良学習センターに所属している学生の年齢分布では、65歳以上の割合が全国平均を上回っています。そして、学習センターの周辺人口を調査してみると、奈良では10万人以上の都市はわずか4市(奈良市、橿原市、生駒市、大和郡山市)しかありませんが、これよりはるかに大きな人口の都市を多く抱えるセンターは全国にいくらもあります。ところが、奈良学習センターの学生数は、地域人口比から見るとかなり高率です。競合する文化教室などが少ないとか、奈良には遊ぶところがないので勉強するしかないとか、いろいろ理由は考えられるかもしれませんが、やはり奈良の人は勉強熱心で、生涯学習熱が高いのだろうと思います。

奈良学習センターでは、「フランス文学の名作を楽しむ」と題した「所長ゼミ」を月に一回を開いています。「名句の花束」のゼミ版みたいなものですが、 Mon Naraの読者は大半がフランス通の人たちであるのに対して、このゼミの受講生のほうは、これまでフランスにも、文学にも縁がなかったけれど、とにかくさまざまな新しいことを学びたいという学習意欲を持つ人たちが多いです。4月に着任して、5月が第一回目の所長ゼミでした。モリエールの『タルチュフ』を取り上げましたが、理由は単純で、大学で担当していたフランス文学史の講義において、やはり毎年4月にモリエールから始めていたからです。劇作家とその時代について簡単に解説したあと、『タルチュフ』のあらすじを話して、コメディー・フランセーズの舞台(日本語字幕付き)を見せました。

まったく偶然の一致なのですが、1月のフランス・アラカルトで、奈良女子大学名誉教授の山本邦彦先生が『タルチュフ』について講演されることになりました。芝居を語れば余人の追随を許さない専門家の奥深い話をぜひお聞きください。というわけで、ここでは簡単に名句を解説するにとどめます。「名句の花束」第13回(2011年1-2月号)でラシーヌを取り上げたとき、彼がモリエール一座の名花であった女優マルキーズ・デュ・パルクを引き抜いて自作『アンドロマック』(1667年)に抜擢したため、モリエールの恨みを買ったことに触れました。その3年前の1664年、当時国王ルイ14世はヴェルサイユ宮殿建設中でしたが、その一部完成を祝う大祭典「極楽島の歓楽」の6日目の出し物として『タルチュフ』が上演されたのです。

修辞学でantonomaseと呼ばれている技法があります。「換称」あるいは「代称」と訳されていますが、固有名詞を普通名詞として使う、あるいはその逆の方法です。たとえば、ラスチニャック(バルザック『ゴリオ爺さん』などの登場人物)といえば「野心家」を意味し、コゼット(ユゴー『レ・ミゼラブル』のヒロイン)といえば不幸な女の子を指します。いくつもの「典型」を生み出したモリエールの戯曲では、アルパゴンと言えば「吝嗇家」、ドン・ジュアンといえば「猟色家」ですが、なんといっても有名なのはタルチュフ=「偽善者」でしょう。だまされるオルゴンは確かに愚かで滑稽に見えますが、他方でタルチュフの徹底した偽善者ぶりは、これだけみごとならだまされるのもむべなるかな、と思わせるほどです。(以下次号)

 

 

名句の花束-フランス文学の庭から(41)

« Mon Nara » No 271, 2015年9-10月号 掲載
名句の花束-フランス文学の庭から(41)

三野博司(会長)

― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front
二人並んでは通れないくらい狭いのです(2)
(ジッド『狭き門』1909年)

15歳のころからジッドは従姉マドレーヌ・ロンドーを愛していました。22歳のときに発表した処女作『アンドレ・ワルテルの手記』に語られたエマニュエルヘの愛は、そのままマドレーヌヘの愛の言葉でした。それは肉欲とは無縁な、神秘的なまでに純粋な愛の物語なのです。そのマドレーヌと結婚したあと、2年前に強烈な太陽のもとで生命の蘇生を感じたアルジェリアを、1995年に今度は妻を伴って再訪します。このとき、彼は少年愛のなかにみずからの解放を見いだすことになります。妻となった女性への純化された愛と、北アフリカの少年に対する激しい情欲と、やはりジッドは複雑な人です。
1909年に発表された『狭き門』の題名は、ルカによる福音書第13章24節「力を尽くして狭き門より入れ」に基づいています。作者の分身とみなすことができるジェロームが「私」として語り、彼の目からアリサの言動が描かれ、二人がやりとりした手紙もふんだんに引用されます。アリサは、ジッドの従姉で妻となったマドレーヌがモデルとなっています。彼女はジェロームとの結婚を拒み続け、世俗的な愛の望みを退け、神へ至る道はただ一人しか赴けないと言って、最後は療養所で孤独のうちに死ぬことになります。ジッド自身のプロテスタント心性がアリサに投影され、そのアリサの悲劇を描いて、プロテスタントの精神を批判したといわれています。このあたりも手が込んでいるという感じです。
ジェロームの目にとって、自分を避け続けるアリサの言動は不可解に映りますが、小説の末尾にはアリサの「日記」が置かれ、彼女の心情がいくぶんかは明らかにされます。その日記には表題「狭き門」を連想させる次の一節があります。
La route que vous nous enseignez, Seigneur, est une route étroite ― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front. (主よ、あなたが示したまう その道は狭いのです ― 二人並んでは通れないほど狭いのです。)
ここだけを読むと、アリサの物語は、神への愛をまっとうするために地上の愛を断念した聖女の物語になってしまいます。けれども、この小説はそれほど単純に書かれてはいません。アリサをそんな悲劇へ追いやったのは、ジェロームにも責任の一端があるでしょう。ジェローム自身が、いくぶんかはそれに気づいていました。次第に開いていくアリサとの溝がもう取り返しのつかないものになったと思われたとき、彼はこう語るのです。「僕はアリサを徐々に高い場所に祭り上げ、自分好みの附属品で飾り立て、彼女を偶像に仕立てあげたのだが、その作業の結果残ったのは、疲労だけではなかったか?」
確かにアリサにとって不幸だったのは、ジェロームがあまりにも自分を理想化していると感じ、そのイメージに追いつくことができなかったことでしょう。それが彼女には神へと逃げる理由になったともいえます。しかしまた、アリサのような人はどんな状況にあっても幸福になれないようにも思われます。彼女は幸福になることを恐れる心性の持ち主であり、その点で、どんな環境にあってもそこに自分なりの幸福を見出していく妹ジュリエットとは対照的です。ジッドは二人を描きわけて、この小説を「アリサの日記」で終わらせるのでなく、最後はジュリエットのたくましい姿で結んでいます。

名句の花束ーフランス文学の庭から(40) 

« Mon Nara » No 270, 2015年7-8月号 掲載

名句の花束—フランス文学の庭から(40)

三野博司(会長)

― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front
二人並んでは通れないくらい狭いのです
(ジッド『狭き門』1909年)

 前回までに「美女と野獣 騎士と妖精」の主題で三つの作品を紹介しましたが、その前に取り上げたのはバルザック『谷間の百合』でした。モルソフ夫人ことアンリエットが、フェリックスとの地上での愛を断念し、天上を憧憬しつつ死を迎える物語でした。今回取り上げるジッド『狭き門』のヒロインもまた、やや似た経緯をたどって、現世での愛を遠ざけて病死してしまいます。モルソフ夫人は貞淑な人妻にして二児の母。フェリックスとの愛をかなえるには困難な状況にあります。他方でこちらのヒロインであるアリサはもっと自由な身であり、すべては彼女の意志で決定できるように思われます。ところが、プロテスタントの厳正な信仰が彼女の愛の障害となるのです。
アリサはもちろん西洋人の名前で、若いころ私が初めて『狭き門』を読んだときには周囲にそのような名前の女性はいませんでした。ところが、20年ほど前に授業でこの作品を取り上げたとき、ひとりの女子学生が「私も有里紗」ですと言って、これが日本人の名前になっているのに気づきました。そしていまではもう珍しい名前ではありません。亜理沙、愛梨沙、ありさ……。
作者のジッドは1869年パリに生まれました。リュクサンブール公園のすぐ北、現在のエドモン・ロスタン広場2番地、ダロワイヨのあるところです。彼は好んで自分を「2つの血筋、2つの地方、2つの宗教の果実」と呼んでいました。父は南仏出身でカトリック、母は北仏出身でプロテスタント。この二つの要素が自分のなかで混交していると自覚していましたが、ただ宗教的にはとりわけ厳格なプロテスタントの母に育てられ、11歳の時父を失ってからはいっそうその支配を強く受けました。
フランスはカトリックの国であり、プロテスタント教徒は、カトリック教徒、イスラム教徒に次ぐ第3位で、人口のわずか3パーセントを占めるにすぎません。歴史的には15世紀末、アンリ4世がナントの勅令を発して信教の自由を認めたことで勢いを得ましたが、ほぼ一世紀後にルイ14世がこれをフォンテーヌブローの勅令で取り消したことも手伝って、フランスでは少数派になってしまいました。
「宗教改革」を意味するRéformeという名を冠したプロテスタント系週刊新聞があります。第二次大戦後に発刊され、現在も続いています。私の博士論文の指導教授であったヴィアラネー先生は、大学を早期退職後、1984年から数年間Réformeの編集長を務めておられました。事務所は、パリ、モンパルナスのメーヌ通り43番地にあり、何度か編集長室を訪れました。
博士論文を書きあげたあと、先生からの求めに応じて、数年にわたりこの新聞に日本文化紹介エッセイを書いたことがあります。プロテスタント系の新聞ということで、日本人の spiritualité に触れるような文章を心がけました。生まれてから30年京都に住んでいたので、春の桜、秋の菊、おけら参り、金閣寺などなど、主として京都の風物を紹介しながら日本文化と日本人の精神生活に触れました。やはりプロテスタントであり、 Réformeの読者であったモンペリエ大学教授のジャック・プルースト氏から感想を認めた手紙をもらったのもなつかしいです。
のちにこれらの文章をまとめて中級フランス語の教科書を作りました。タイトルは Les Saisons nipponnes et leurs signes です。自分自身が授業で何度か用いたほかに、他大学でも教科書として採用してくれる人があり、さらにはこの中の文章を仏文科の大学院の入試問題に使わせて欲しいという依頼もありました。東京の知られた私立大学でしたが、「大学院の入試レベルとして最適なんです」とのことでした。
また話がわき道に逸れましたが、ジッドについては次回に。

名句の花束―フランス文学の庭から(39)

« Mon Nara » No 269, 2015年5-6月号 掲載 

 名句の花束―フランス文学の庭から(39)

三野博司(会長)

Je ne mens jamais ; je ne mens qu’à ton frère… (2)
けっして嘘はつかないわ、つくのはあなたのお兄さんにだけ…
(メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1902年)

 海と森に近い架空のアルモンド国を舞台とし、時代設定も明示されていないこの戯曲は、ヨーロッパのさまざまな伝説や伝承を取り込んでいるように見えます。トリスタンとイゾルデ、メリュジーヌ、そしてオンディーヌ伝説。すでに第1幕の登場からメリザンドが水の精のおもむきをたたえていることは前回述べました。泉のそばでメリサンドを見つけたゴローは、彼女を城へと連れ帰ります。そこには彼の異母兄弟であるペレアスがいて、メリザンドの不思議な魅力に惹かれていくのです。
第三幕で、メリザンドが高い塔の窓辺にたたずんで、長い髪を梳くすがたはまるで人魚のようです。やがてペレアスが登場すると、メリザンドが窓から身を乗り出し、その髪が塔の上から落ちてくるのですが、これは事故ではなく、メリザンドの作為であるようにも思われます。ペレアスは、その髪にくちづけし、両腕で抱き締め、自分の頸に巻きつけてしまうのです。この幕の冒頭は、ドビュッシーのオペラにおいてもっとも美しい場面のひとつです。若い時代のワーグナーの影響から脱した彼は、この作品でことばと音楽の精妙なむすびつきをめざし、長いメロディーも、アリアも、アンサンブルも、レシタティーヴォも排除しました。そんななかで、唯一の歌らしい歌といえるのが、メリザンドによる中世風の教会旋法による歌です。アカペラで歌われるだけに、いっそう純な響きが印象に残ります。クリュイタンス盤のCDに収められたロスアンヘレスの歌は、蠱惑的な妖しさはないものの、つややかで暖かく透明感があります。
第四幕第四場では、庭園の泉のほとりで、メリザンドとペレアスが二人だけで最後の夜を過ごすのですが、そこで彼女はぬけぬけとこんなせりふを吐きます。

     Je ne mens jamais ; je ne mens qu’à ton frère…
けっして嘘はつかないわ、つくのはあなたのお兄さんにだけ…

 哀れなのはゴローですね。まるで双生児の兄妹であるかのようなペレアスとメリザンドはおとぎ話の世界に生きています。そしてゴローだけが人間的な嫉妬に苦しむのです。メリザンドはフランス文学に登場するファム・ファタルfemme fataleの仲間に入れられることがあります。その魅力で男を誘惑し、破滅へと導く女たちですが、彼女にはマノン・レスコーやカルメンのような奔放さはまったくありません(といっても、「名句の花束」では、これまでにマノンもカルメン登場していません。いずれまたの機会に)。むしろつねに受動的で、何もしない、その何もしないことで男を破滅させる。こっちのほうが恐ろしいかもしれません。無垢な女性だと思って近づいたら、実は……というわけですから。
このあと、幕開けから暗い予兆に貫かれていたドラマは、一気に悲劇へとなだれを打っていきます。第4幕「庭園の泉」の場面で、嫉妬に苦しむゴローがついにペレアスを剣で倒すことになり、第5幕「城の一室」では、ゴローが瀕死のメリザンドに罪を犯したのかと執拗に問いかけるのですが、彼女はあいまいな答えを返すばかりで落命します。
『ペリアスとメリザンド』は音楽家の霊感を奮い立たせるのでしょうか。フォーレもこの劇の付随音楽を作曲しています。その第5曲「シシリエンヌ」は単独でも演奏されることが多く、フルートとハープが奏でる付点リズムのついた哀愁ある旋律は一度聴いたら忘れない強い印象を残します。もとはいえばチェロとピアノのための曲で、弟子の手によってオーケストラ用に編曲されたと言われています。

名句の花束―フランス文学の庭から(38)

« Mon Nara » No 268, 2015年3-4月号 掲載  

名句の花束―フランス文学の庭から(38)

三野博司(会長)

Ne me touchez pas ! ou je me jette à l’eau.
さわらないで! でないと水に飛び込むわ
(メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1902年)

「美女と野獣」の変奏ともいうべき作品を二つとりあげたあとは、「騎士と精霊」の系列の諸作品を紹介しましょう。このジャンルの代表作ともいうべきジロドゥーの『オンディーヌ』はすでに第9、10回で登場しています。水の精伝説の物語ですが、さまざまなバリエーションがあります。
ドビュッシーのオペラで知られる『ペレアスとメリザンド』のヒロインもそのひとり。とらえどころのない不思議な魅力をたたえ、人間であるはずなのにまるで水の精ではないかと思わせます。ゴローがはじめて彼女を見つけたのは森のなかの泉のほとりでした。彼女は繰り返し水に飛び込むと言ってはばかりません。

Ne me touchez pas ! ou je me jette à l’eau.
さわらないで! でないと水に飛び込むわ

どこから来たのかと問うと「遠くから」と答え、年はいくつかと訊かれて「寒いわ」と応じる、そんな彼女に魅せられたのか、ゴローはメリザンドを城に連れ帰り、後妻とします。けれども、メリザンドにはすでに見た水の精ウンディーネやオンディーヌのような一途の恋心も、快活さもありません。ただ、物憂げであやしい無邪気さが生み出す魅力によって、男性を破滅へと導いていくのです。
ドビュッシーのオペラは1902年に初演されましたが、もとはいえば『青い鳥』の作者として知られるベルギー象徴派のメーテルランクによる演劇作品であり、1892年ブリュッセルで出版されました。『青い鳥』(1908年)はおろか『ペレアスとメリザンド』もまだ発表されていない1891年1月26日、若い日のジッドが友人のヴァレリー宛に書いた手紙があります。「ぼくも象徴主義者です。[…]したがって、詩においてはマラルメ、戯曲においてはメーテルランク──そしてこの二人と並ぶとやや矮小な感じがしますが、小説においては「ぼく」と付け加えます」。この時代に早くも、ジッドの目には、メーテルランクが象徴主義演劇の代表者として映っていたことがうかがわれます。
パリでの初演は1893年5月17日、ブッフ・パリジャン座、リュネ=ポーの演出、メリサンド役はサラ・ベルナールでした。舞台を見たドビュッシーは戯曲を購入し、一読して感動。音楽をつけることを考えたのです。原作の5幕19場から、4場をカットし5幕15場として、1902年4月30日、オペラ=コミック座で初演されました。これは、ドビュッシーにとって生涯でただ一曲のオペラ作品となりました。
CDはクリュイタンス盤とカラヤン盤が以前から高い評価を得ていますが、映像で見たい人にはDVDが二種出ています。1992年のブーレーズ指揮、ウェールズ・ナショナル・オペラのものと、より新しい2004年のヴェルザー=メスト指揮、チューリッヒ歌劇場のものです。12年の開きがありますが、いかにもオーソドックスで原作の神秘的な雰囲気をよく伝える前者のシュタイン演出に比べて、後者のベヒトルフ演出は、奇抜さを狙う傾向にある近年のオペラ演出の流れを汲むものに思われます。奈良日仏協会シネクラブでフランス・オペラを取り上げたときには、シュタイン演出版を鑑賞しました。ここでメリザンドを演じているのはイギリス人のハーグレイ。水の精のようなはかなげな風情と、そこはかとない悲しげな表情をたたえています。他方でチューリッヒ歌劇場の歌姫イザベル・レイのほうは、歌唱力は確かなものの、メリザンドにしては存在感がありすぎる感じもします。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(37)

« Mon Nara » No 267, 2015年1-2月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(37)

三野博司(会長)

Mais tu t’apercevrais que je reste pareil.
だが、わたしは、一向に変わりはしない。(2)
(ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』1897年)

パリで人と会うときによく使うカフェのひとつが、リュクサンブール公園横にある緑色の建物が気に入っているカフェ・ル・ロスタンです。エドモン・ロスタン広場の6番地にあり、カフェの名前はおそらく広場にちなんだものと思われますが、その広場は、人名を持つ他のフランスの通りや広場と同じく劇作家とのゆかりはなさそうです。ロスタンは1868年マルセイユに生まれ、1918年パリで亡くなりました。29歳のときの『シラノ・ド・ベルジュラック』が大当たりして、この作品はその後も世界中で上演され続けています。
達人にして希代の詩人であるシラノには、大きすぎる鼻という弱点がありました。従妹のロクサーヌにかなわぬ恋情を抱きますが、彼女の心は美男のクリスチャンへと向けられます。ところが、彼にはシラノのような文才はまったくなく、気の利いた台詞ひとつ言えないのです。クリスチャンは「ああ、優美な言葉が語れたなら!」と嘆き、シラノは「颯爽たる美青年の士官であったなら!」とため息をつきます。そこでシラノの「華やかな弁舌」とクリスチャンの「心惑わす美しい肉体」の協力が成り立ち、二人は「恋物語の主人公」になろうとします。
とはいえ、これは対等の協力ではありません。得をするのは美男のクリスチャンのほうであり、シラノは黒子に徹するだけです。第3幕では、『ロミオとジュリエット』ばりのバルコニーの場面において、ロクサーヌにクリスチャンが相対面し、他方でシラノは暗闇に隠れて、心をとろかす恋の口舌を放ち続けます。その麗句にロクサーヌはすっかり酔いしれて、クリスチャンに口づけを与えることになるのです。第4幕では、シラノとクリスチャンが戦場に駆り出されますが、シラノは友人に成り代わって何通もの恋文を認めてロクサーヌに送りとどけます。その文面にあらわれた心情に惹かれて、ロクサーヌは戦場に駆けつけてきますが、彼女の目の前でクリスチャンが戦死します。
こうなると、ロクサーヌはいったい何に恋したのか、という疑問がわいてきます。それはひとえに<ことば>なのです。クリスチアンが美男であったことも彼女のこころを動かしたかもしれませんが、それ以上に彼女はシラノによって紡ぎ出された華麗な文句に感動します。レトリックの勝利といえます。いかにもことばの国フランスらしい恋愛劇です。とはいえその文彩の奥にはシラノの秘められた真情が潜んでおり、それが<ことば>に力を与えるのです。
それから14年後、第5幕、ここからがしみじみと情感深い場面です。修道院において、ロクサーヌは自分の心を魅了した手紙の主が実はシラノであったことを知り、闇討ちに遭って瀕死の状態にある彼に向かって言います。
「愛しております、生きていてくださいまし! Je vous aime, vivez !」
初めての愛の告白、しかしシラノはこう答えるのです。
「いけない、いけない! お伽噺の中の話だ、<愛しています>の言葉を聞いて、自分の顔を恥じてきた王子の醜さが――輝く日の光だ! この言葉でたちまちに、消えてなくなる……だが、わたしは、一向に変わりはしない。Mais tu t’apercevrais que je reste pareil.」(渡辺守章訳)
お伽噺とはもちろん『美女と野獣』のことです。シラノは、王子とは違って一向に変わりはしません。しかし、死を前にして、彼は醜い姿のまま、長いあいだ恋い慕っていた女性の愛を勝ち得ることになります。

名句の花束―フランス文学の庭から(36)

« Mon Nara » No 266, 2014年11-12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(36)

三野博司(会長)

太陽のように輝くことばで醜さも消えてしまう
Il sent sa laideur fondre à ces mots de soleil…(1)
(ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』1897年)

前号までに、「美女と野獣」型物語のひとつとしてヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を3回にわたって取り上げました。この小説では、おとぎ話とは違って、野獣が美しい王子に変身するという結末はありません。カジモドのエスメラルダにたいする至純の愛にもかかわらず、彼がジプシー娘から得るものはせいぜい好意であり、愛ではありません。他方で、野獣というほどではありませんが、醜い姿のままで、変身することなく愛する女性に受け入れられる物語があります。とはいえ、そのとき彼の命数は尽きるのですが。
エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』は、1897年の初演以来、フランスで上演され続けています。2014年11月7日から15日まで、私がパリに滞在したあいだにも、二つの小劇場で上演されていました。両方を比較してみようと思ったのですが、滞在中の予定がかなり詰まっていたので、チケットを一枚だけネット予約しました。
劇場はThéâtre Michel。初めての場所なので住所を頼りに出かけました。Rue Tronche を北上して、Rue Maturinに入ってあらわれた最初の劇場でチケットを見せると、ここではない隣の劇場だと言われました。外へ出て、建物に掲げられた看板を見ると、Théâtre Maturin とあります。そもそもRue Maturinの名前で気づくべきだったのですが、カミュの『誤解』が1944年に初演された劇場です。Théâtre Maturin がパリのどこにあるのか、これまで調べてみようともしなかったのですが、今回偶然にそれを発見したという次第です。あとでネットで調査したところ、劇場のサイトにはきちんと『誤解』がここで初演されたことが明記されていました。
翌日、スピケルさん(国際カミュ学会会長)、ブロンドーさん(同副会長)と、個別に会う機会があったので、この話をしたところ、パリ在住の二人とも「ええ? それどこにあるの?」という反応でした。Madeleine と Saint-Lazare のあいだ、とこちらは答えました。まあカミュ研究にとって些事ではありますが……。ただこちらとしては、偶然に間違った劇場に入って、かえって得をした気分でした。
そして目当てのThéâtre Michelはその隣でしたが、外見ではどちらの劇場もほぼ同じくらいの規模で、いまは地域に溶け込んだ場末の芝居小屋といったたたずまいです。劇場のなかに入ると、平土間、桟敷席、二階席を合わせても席数150ぐらいでした。祝日(11月11日の第一次世界大戦休戦記念日)だったので、子ども連れも多く、客席はほぼ満席。脚本では出演者は40名を超えますが、この日最後に舞台に並んだのは11名でした。登場人物も物語の場面も省略があり、上演時間は2時間でした。
フランス映画では1990年ドパルデューのものがよく知られています。日本で見た舞台で印象に残っているのは、仲代達矢と若村麻由美のコンビです。また大正時代から『白野弁十郎』として翻案されて有名になり、その後島田正吾の一人芝居はかつてテレビでも放映されました。他にもまだまだあるようです。それにしてもよくできた芝居台本です。ストーリーはだれもが知っているのに何度も見てしまう。忠臣蔵みたいなものなのでしょうか。(以下次号)

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