名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(39)

« Mon Nara » No 269, 2015年5-6月号 掲載 

 名句の花束―フランス文学の庭から(39)

三野博司(会長)

Je ne mens jamais ; je ne mens qu’à ton frère… (2)
けっして嘘はつかないわ、つくのはあなたのお兄さんにだけ…
(メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1902年)

 海と森に近い架空のアルモンド国を舞台とし、時代設定も明示されていないこの戯曲は、ヨーロッパのさまざまな伝説や伝承を取り込んでいるように見えます。トリスタンとイゾルデ、メリュジーヌ、そしてオンディーヌ伝説。すでに第1幕の登場からメリザンドが水の精のおもむきをたたえていることは前回述べました。泉のそばでメリサンドを見つけたゴローは、彼女を城へと連れ帰ります。そこには彼の異母兄弟であるペレアスがいて、メリザンドの不思議な魅力に惹かれていくのです。
第三幕で、メリザンドが高い塔の窓辺にたたずんで、長い髪を梳くすがたはまるで人魚のようです。やがてペレアスが登場すると、メリザンドが窓から身を乗り出し、その髪が塔の上から落ちてくるのですが、これは事故ではなく、メリザンドの作為であるようにも思われます。ペレアスは、その髪にくちづけし、両腕で抱き締め、自分の頸に巻きつけてしまうのです。この幕の冒頭は、ドビュッシーのオペラにおいてもっとも美しい場面のひとつです。若い時代のワーグナーの影響から脱した彼は、この作品でことばと音楽の精妙なむすびつきをめざし、長いメロディーも、アリアも、アンサンブルも、レシタティーヴォも排除しました。そんななかで、唯一の歌らしい歌といえるのが、メリザンドによる中世風の教会旋法による歌です。アカペラで歌われるだけに、いっそう純な響きが印象に残ります。クリュイタンス盤のCDに収められたロスアンヘレスの歌は、蠱惑的な妖しさはないものの、つややかで暖かく透明感があります。
第四幕第四場では、庭園の泉のほとりで、メリザンドとペレアスが二人だけで最後の夜を過ごすのですが、そこで彼女はぬけぬけとこんなせりふを吐きます。

     Je ne mens jamais ; je ne mens qu’à ton frère…
けっして嘘はつかないわ、つくのはあなたのお兄さんにだけ…

 哀れなのはゴローですね。まるで双生児の兄妹であるかのようなペレアスとメリザンドはおとぎ話の世界に生きています。そしてゴローだけが人間的な嫉妬に苦しむのです。メリザンドはフランス文学に登場するファム・ファタルfemme fataleの仲間に入れられることがあります。その魅力で男を誘惑し、破滅へと導く女たちですが、彼女にはマノン・レスコーやカルメンのような奔放さはまったくありません(といっても、「名句の花束」では、これまでにマノンもカルメン登場していません。いずれまたの機会に)。むしろつねに受動的で、何もしない、その何もしないことで男を破滅させる。こっちのほうが恐ろしいかもしれません。無垢な女性だと思って近づいたら、実は……というわけですから。
このあと、幕開けから暗い予兆に貫かれていたドラマは、一気に悲劇へとなだれを打っていきます。第4幕「庭園の泉」の場面で、嫉妬に苦しむゴローがついにペレアスを剣で倒すことになり、第5幕「城の一室」では、ゴローが瀕死のメリザンドに罪を犯したのかと執拗に問いかけるのですが、彼女はあいまいな答えを返すばかりで落命します。
『ペリアスとメリザンド』は音楽家の霊感を奮い立たせるのでしょうか。フォーレもこの劇の付随音楽を作曲しています。その第5曲「シシリエンヌ」は単独でも演奏されることが多く、フルートとハープが奏でる付点リズムのついた哀愁ある旋律は一度聴いたら忘れない強い印象を残します。もとはいえばチェロとピアノのための曲で、弟子の手によってオーケストラ用に編曲されたと言われています。

名句の花束―フランス文学の庭から(38)

« Mon Nara » No 268, 2015年3-4月号 掲載  

名句の花束―フランス文学の庭から(38)

三野博司(会長)

Ne me touchez pas ! ou je me jette à l’eau.
さわらないで! でないと水に飛び込むわ
(メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1902年)

「美女と野獣」の変奏ともいうべき作品を二つとりあげたあとは、「騎士と精霊」の系列の諸作品を紹介しましょう。このジャンルの代表作ともいうべきジロドゥーの『オンディーヌ』はすでに第9、10回で登場しています。水の精伝説の物語ですが、さまざまなバリエーションがあります。
ドビュッシーのオペラで知られる『ペレアスとメリザンド』のヒロインもそのひとり。とらえどころのない不思議な魅力をたたえ、人間であるはずなのにまるで水の精ではないかと思わせます。ゴローがはじめて彼女を見つけたのは森のなかの泉のほとりでした。彼女は繰り返し水に飛び込むと言ってはばかりません。

Ne me touchez pas ! ou je me jette à l’eau.
さわらないで! でないと水に飛び込むわ

どこから来たのかと問うと「遠くから」と答え、年はいくつかと訊かれて「寒いわ」と応じる、そんな彼女に魅せられたのか、ゴローはメリザンドを城に連れ帰り、後妻とします。けれども、メリザンドにはすでに見た水の精ウンディーネやオンディーヌのような一途の恋心も、快活さもありません。ただ、物憂げであやしい無邪気さが生み出す魅力によって、男性を破滅へと導いていくのです。
ドビュッシーのオペラは1902年に初演されましたが、もとはいえば『青い鳥』の作者として知られるベルギー象徴派のメーテルランクによる演劇作品であり、1892年ブリュッセルで出版されました。『青い鳥』(1908年)はおろか『ペレアスとメリザンド』もまだ発表されていない1891年1月26日、若い日のジッドが友人のヴァレリー宛に書いた手紙があります。「ぼくも象徴主義者です。[…]したがって、詩においてはマラルメ、戯曲においてはメーテルランク──そしてこの二人と並ぶとやや矮小な感じがしますが、小説においては「ぼく」と付け加えます」。この時代に早くも、ジッドの目には、メーテルランクが象徴主義演劇の代表者として映っていたことがうかがわれます。
パリでの初演は1893年5月17日、ブッフ・パリジャン座、リュネ=ポーの演出、メリサンド役はサラ・ベルナールでした。舞台を見たドビュッシーは戯曲を購入し、一読して感動。音楽をつけることを考えたのです。原作の5幕19場から、4場をカットし5幕15場として、1902年4月30日、オペラ=コミック座で初演されました。これは、ドビュッシーにとって生涯でただ一曲のオペラ作品となりました。
CDはクリュイタンス盤とカラヤン盤が以前から高い評価を得ていますが、映像で見たい人にはDVDが二種出ています。1992年のブーレーズ指揮、ウェールズ・ナショナル・オペラのものと、より新しい2004年のヴェルザー=メスト指揮、チューリッヒ歌劇場のものです。12年の開きがありますが、いかにもオーソドックスで原作の神秘的な雰囲気をよく伝える前者のシュタイン演出に比べて、後者のベヒトルフ演出は、奇抜さを狙う傾向にある近年のオペラ演出の流れを汲むものに思われます。奈良日仏協会シネクラブでフランス・オペラを取り上げたときには、シュタイン演出版を鑑賞しました。ここでメリザンドを演じているのはイギリス人のハーグレイ。水の精のようなはかなげな風情と、そこはかとない悲しげな表情をたたえています。他方でチューリッヒ歌劇場の歌姫イザベル・レイのほうは、歌唱力は確かなものの、メリザンドにしては存在感がありすぎる感じもします。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(37)

« Mon Nara » No 267, 2015年1-2月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(37)

三野博司(会長)

Mais tu t’apercevrais que je reste pareil.
だが、わたしは、一向に変わりはしない。(2)
(ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』1897年)

パリで人と会うときによく使うカフェのひとつが、リュクサンブール公園横にある緑色の建物が気に入っているカフェ・ル・ロスタンです。エドモン・ロスタン広場の6番地にあり、カフェの名前はおそらく広場にちなんだものと思われますが、その広場は、人名を持つ他のフランスの通りや広場と同じく劇作家とのゆかりはなさそうです。ロスタンは1868年マルセイユに生まれ、1918年パリで亡くなりました。29歳のときの『シラノ・ド・ベルジュラック』が大当たりして、この作品はその後も世界中で上演され続けています。
達人にして希代の詩人であるシラノには、大きすぎる鼻という弱点がありました。従妹のロクサーヌにかなわぬ恋情を抱きますが、彼女の心は美男のクリスチャンへと向けられます。ところが、彼にはシラノのような文才はまったくなく、気の利いた台詞ひとつ言えないのです。クリスチャンは「ああ、優美な言葉が語れたなら!」と嘆き、シラノは「颯爽たる美青年の士官であったなら!」とため息をつきます。そこでシラノの「華やかな弁舌」とクリスチャンの「心惑わす美しい肉体」の協力が成り立ち、二人は「恋物語の主人公」になろうとします。
とはいえ、これは対等の協力ではありません。得をするのは美男のクリスチャンのほうであり、シラノは黒子に徹するだけです。第3幕では、『ロミオとジュリエット』ばりのバルコニーの場面において、ロクサーヌにクリスチャンが相対面し、他方でシラノは暗闇に隠れて、心をとろかす恋の口舌を放ち続けます。その麗句にロクサーヌはすっかり酔いしれて、クリスチャンに口づけを与えることになるのです。第4幕では、シラノとクリスチャンが戦場に駆り出されますが、シラノは友人に成り代わって何通もの恋文を認めてロクサーヌに送りとどけます。その文面にあらわれた心情に惹かれて、ロクサーヌは戦場に駆けつけてきますが、彼女の目の前でクリスチャンが戦死します。
こうなると、ロクサーヌはいったい何に恋したのか、という疑問がわいてきます。それはひとえに<ことば>なのです。クリスチアンが美男であったことも彼女のこころを動かしたかもしれませんが、それ以上に彼女はシラノによって紡ぎ出された華麗な文句に感動します。レトリックの勝利といえます。いかにもことばの国フランスらしい恋愛劇です。とはいえその文彩の奥にはシラノの秘められた真情が潜んでおり、それが<ことば>に力を与えるのです。
それから14年後、第5幕、ここからがしみじみと情感深い場面です。修道院において、ロクサーヌは自分の心を魅了した手紙の主が実はシラノであったことを知り、闇討ちに遭って瀕死の状態にある彼に向かって言います。
「愛しております、生きていてくださいまし! Je vous aime, vivez !」
初めての愛の告白、しかしシラノはこう答えるのです。
「いけない、いけない! お伽噺の中の話だ、<愛しています>の言葉を聞いて、自分の顔を恥じてきた王子の醜さが――輝く日の光だ! この言葉でたちまちに、消えてなくなる……だが、わたしは、一向に変わりはしない。Mais tu t’apercevrais que je reste pareil.」(渡辺守章訳)
お伽噺とはもちろん『美女と野獣』のことです。シラノは、王子とは違って一向に変わりはしません。しかし、死を前にして、彼は醜い姿のまま、長いあいだ恋い慕っていた女性の愛を勝ち得ることになります。

名句の花束―フランス文学の庭から(36)

« Mon Nara » No 266, 2014年11-12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(36)

三野博司(会長)

太陽のように輝くことばで醜さも消えてしまう
Il sent sa laideur fondre à ces mots de soleil…(1)
(ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』1897年)

前号までに、「美女と野獣」型物語のひとつとしてヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を3回にわたって取り上げました。この小説では、おとぎ話とは違って、野獣が美しい王子に変身するという結末はありません。カジモドのエスメラルダにたいする至純の愛にもかかわらず、彼がジプシー娘から得るものはせいぜい好意であり、愛ではありません。他方で、野獣というほどではありませんが、醜い姿のままで、変身することなく愛する女性に受け入れられる物語があります。とはいえ、そのとき彼の命数は尽きるのですが。
エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』は、1897年の初演以来、フランスで上演され続けています。2014年11月7日から15日まで、私がパリに滞在したあいだにも、二つの小劇場で上演されていました。両方を比較してみようと思ったのですが、滞在中の予定がかなり詰まっていたので、チケットを一枚だけネット予約しました。
劇場はThéâtre Michel。初めての場所なので住所を頼りに出かけました。Rue Tronche を北上して、Rue Maturinに入ってあらわれた最初の劇場でチケットを見せると、ここではない隣の劇場だと言われました。外へ出て、建物に掲げられた看板を見ると、Théâtre Maturin とあります。そもそもRue Maturinの名前で気づくべきだったのですが、カミュの『誤解』が1944年に初演された劇場です。Théâtre Maturin がパリのどこにあるのか、これまで調べてみようともしなかったのですが、今回偶然にそれを発見したという次第です。あとでネットで調査したところ、劇場のサイトにはきちんと『誤解』がここで初演されたことが明記されていました。
翌日、スピケルさん(国際カミュ学会会長)、ブロンドーさん(同副会長)と、個別に会う機会があったので、この話をしたところ、パリ在住の二人とも「ええ? それどこにあるの?」という反応でした。Madeleine と Saint-Lazare のあいだ、とこちらは答えました。まあカミュ研究にとって些事ではありますが……。ただこちらとしては、偶然に間違った劇場に入って、かえって得をした気分でした。
そして目当てのThéâtre Michelはその隣でしたが、外見ではどちらの劇場もほぼ同じくらいの規模で、いまは地域に溶け込んだ場末の芝居小屋といったたたずまいです。劇場のなかに入ると、平土間、桟敷席、二階席を合わせても席数150ぐらいでした。祝日(11月11日の第一次世界大戦休戦記念日)だったので、子ども連れも多く、客席はほぼ満席。脚本では出演者は40名を超えますが、この日最後に舞台に並んだのは11名でした。登場人物も物語の場面も省略があり、上演時間は2時間でした。
フランス映画では1990年ドパルデューのものがよく知られています。日本で見た舞台で印象に残っているのは、仲代達矢と若村麻由美のコンビです。また大正時代から『白野弁十郎』として翻案されて有名になり、その後島田正吾の一人芝居はかつてテレビでも放映されました。他にもまだまだあるようです。それにしてもよくできた芝居台本です。ストーリーはだれもが知っているのに何度も見てしまう。忠臣蔵みたいなものなのでしょうか。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(35)

« Mon Nara » No 265, 2014年9-10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(35)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった。(3)
(ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』1932年)

ミュージカルやアニメ映画によって、ヴィクトル・ユゴーというと『レ・ミゼラブル』や『ノートル=ダム・ド・パリ』などを書いた小説家というイメージが強いですが、フランス本国ではむしろ19世紀最大の詩人のひとりとみなされています。「今世紀最大の詩人は誰ですか」とたずねられて、ユゴーは「ミュッセが二番目だ」と答えたという話があります。自分が一番だということを遠回しに言ったわけですが、それだけ彼の自信は絶大でした。「19世紀最大の詩人はだれですか」とたずねられたジッドが、「ユゴーだ。残念なことに」と答えたという話もあります。確かにスケールの雄大さではユゴーが図抜けているが、詩における革新性や思想性の深さ、後世に与えた影響などにおいては、象徴派詩人たちのほうが優れているという含意がありそうな発言です。
私自身はユゴーの詩にはほとんどなじみがありません。ただし、一度だけ、ユゴーの詩と4時間にわたって格闘したことがあります。フランスの大学の博士課程は、そのむかしDEA (Diplôme des Éudes Approfondies) という予備課程の資格を取る必要がありました。この資格が与えられると、いよいよ博士論文の執筆に取りかかっても良いということです。博士課程の最初の一年の終わりにこの試験を受けましたが、提出された問題はユゴーの詩をジルベール・デュランの方法論を使って分析せよというものでした。デュラン自体は授業で扱われたので問題はありませんでしたが、難物はユゴーの詩でした。普段まったく縁のないユゴーの詩がいきなり目の前に出されて、それを読み取り、解釈し、フランス語で解答を書くというもので、4時間の試験時間があっという間に過ぎてしまいました。Cadaverというラテン語の題名がついた54 行の詩でした。試験には合格することができて、先生からこれから博士論文に取りかかれと激励されました。その後も、ユゴーの詩に親しむ機会はまったくなくて、私が知っているのはいまだにこの詩のみです。
さて、ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』ですが、ここでは中世パリのノートル=ダム大聖堂を舞台に、ジプシー娘のエスメラルダをめぐって、邪欲に汚れた司教補佐、美男の王室親衛隊長、そして醜い大男の鐘番カジモドが争います。これは教会権力と王権と民衆の対立の図式でもあります。なかでも、民衆を代表するカジモドは、エスメラルダに清らかな愛を抱き、娘のほうでもいのちの恩人である彼の優しい心に気づくのです。ここに美女と野獣の主題が見られますが、とはいえ、エスメラルダの恋情は美男の隊長に向けられたままです。そして、おとぎ話とは違って、ここでは野獣が美しい王子に変身するという結末はありません。最後まで醜いままのカジモドは、死んだエスメラルダを抱きしめて、みずからも死ぬことしかできないのです。
物語の最後は「カジモドの結婚」と表題が付けられています。エスメラルダが絞首刑にかけられた日に、カジモドはノートル=ダム寺院から姿を消します。それから1年半、あるいは2年後のこと、郊外の墓地に納められた多くの骸骨のなかに、二つの骸骨が見つかります。一方は絞首刑で殺されて、ここへ運ばれてきた者の骸骨。もうひとつは、ここにやって来て、ここで死んだ者の骸骨です。そして、あとの骸骨は「奇妙な恰好で、もう一つのものを抱きしめていた」と説明されています。これこそが「カジモドの結婚」なのです。そして、最終行はこうなっています。
Quand on voulut le détacher du squelette qu’il embrassait, il tomba en poussière.
この骸骨を、その抱きしめている骸骨から引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった。

名句の花束―フランス文学の庭から(34)

« Mon Nara » No 264, 2014年7-8月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(34)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった(2)
(ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』1932年)

ヴィクトル・ユゴー Victor Hugoは1802年、軍人の子としてブザンソンに生れました。生家は残っていますが、ヴィクトルの生後すぐに一家はマルセイユへ転居したため、記念館になっているわけではありません。向かいには映画の創始者リュミール兄弟の生家もあります。その後、ユゴーはパリで教育を受けて、早くから文学に情熱を燃やし、1827年に発表した長大な詩劇『クロムウェル』とその序文がロマン主義の大いなるマニフェストとなり、30年には戯曲『エルナニ』によってロマン派劇の勝利を確実なものにしました。
小説に関しては、ユゴーは5作の長編を書いています。インターネットで、フランスのナント大学公開講座を視聴することができますが、そのなかにユゴーの小説に関する連続講義があります。語っているのはアニェス・スピケルさん。私の友人で、国際カミュ学会の会長ですが、カミュ研究に転ずる前はユゴーの専門家でした。2014年1月から2月にかけて行われた講義は、1回50分で5回、各回ごとにユゴーの長編小説を一つずつ取り上げています。そのうち『ノートル=ダム・ド・パリ』だけが刊行年代が早くて1832年、他の4作は『レ・ミゼラブル』を含めてすべて1860年以降の刊行です。
さて『ノートル=ダム・ド・パリ』は、新婚早々で金銭に困っていたユゴーに対して、出版社が金をもうけるなら歴史小説を書くようにと勧めたことが執筆動機の一つでした。ただし、その機会をとらえて、ロマン主義文学運動のリーダーであった彼は、ノートル=ダム大聖堂を舞台に、15世紀のパリを舞台にロマン主義的歴史小説を書き上げることになります。
長大なユゴーの小説は本題を離れて脱線することが多いですが、この小説にも「これがあれを滅ぼすだろう」という謎めいた題がついている章があります。2011年にはパリにおいてこの表題で学会が開かれたほどの有名な句ですが、私たちもここで少し脱線して、この名句について語りましょう。
小説の主役はまさにノートル=ダム大聖堂であるといえますが、その大聖堂司教補佐のクロード=フロロが、テーブルに広げてあった書物のほうへ右手を伸ばし、左手を大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目でこう言う場面があります。
「Hélas !  Ceci tuera cela ああ! これがあれを滅ぼすだろう」
そのあと、クロロはこんなことばを言い添えます。「恐ろしいことじゃ! 小さなものが大きなものをうち負かすのだ。[……] Le livre tuera l’édifice! 書物は建築物を滅ぼすことになるだろう!」
これがどういう意味なのか、次の章において、作者みずからが長々と説明を展開します。要点をまとめるとこうなります。古代から建築は人間の思想を記録するためのいちばん重要で広く用いられた手段でしたが、グーテンベルクが活版印刷を発明して以降、その役割を書物に譲りつつありました。人間の思想は、永遠に生きるために建築よりもさらにじょうぶで、持ちが良く、容易な手段を発見したのです。これは歴史上の一大事件でした。「書物は建築物を滅ぼすだろう」という15世紀のフロロが作中において言ったことばを、19世紀の作者ユゴーが引き取って、いまや印刷術によって建築は死んでしまったと宣言します。そして21世紀の私たちは、デジタル革命がこんどは書物の命を脅かす時代に生きているわけであり、このフロロのことばに無関心でいるわけにはいかないでしょう。
また、脇道にそれましたが、以下は次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(33)

« Mon Nara » No 262, 2014年5-6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(33)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった(1)
(ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』1932年)

大学の同僚で奈良日仏協会会員である高岡尚子さんの編集により、『恋をする、とはどういうことか?』(ひつじ書房)が刊行されました。タイトルを見ただけで、昔の甘酸っぱい思い出がよみがえってくる人もいるかもしれませんが、副題には「ジェンダーから考える ことばと文学」とあります。じつは、この本は「ジェンダー言語文化学」の授業で用いる教科書として作られたものなのです。
高岡さん執筆によるジェンダー学入門というべき第1部「ジェンダーについて考える」は、まさに簡潔にして要を得た教科書として書かれており、参考文献もたっぷりと紹介されています。それを受けて、第2部では、日中米仏独、それぞれの文学の担当者が寄稿し、かなり自由なスタイルで、ジェンダー学的視点から「恋」を語っています。
私が書いた章は「美女と野獣 騎士と精霊」と表題があり、「恋をするのは人間同士とは限らない。物語の世界では、人間と人間ならぬ異形の生き物との恋もまたうまれる」とはじまります。人間界の恋を語るのは他の人たちにまかせて、私のほうでは異類婚、あるいはそれに類する物語ばかりを取り上げました。それらを大きくふたつにわけて、ひとつは「人間である女性と醜い獣とのあいだの恋」すなわち「美女と野獣」、もうひとつは「人間である男性と美しい女性に変身した自然の霊とのあいだの恋」すなわち「騎士と精霊」の主題のもとにまとめています。古代ローマのアプレイウスに始まり、アンデルセンやグリムの童話、フーケーやムゼーウスのドイツ文学やキーツの英詩、谷崎潤一郎や木下順二、ドボルザークやドビュッシーのオペラ、さらには宮崎アニメやディズニーアニメにも軽く言及していますが、なかでももっとも多く取り上げたのはやはりフランス文学です。
「美女と野獣」の中心はコクトー『美女と野獣』であり、「騎士と精霊」のほうはジロドゥー『オンディーヌ』ですが、この二作品はすでに「名句の花束」で取り上げました。今回は、その他の作品から名句を引きましょう。まずは、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』から。
わが国では、ディズニーアニメ『ノートルダムの鐘』(1996年)の原作といったほうがわかりやすいのかもしれません。アニメでは、教会の高みからパリを俯瞰する絵がきれいですが、物語は子ども向きに大幅に改変されています。
他方で、1998年には、フランス版ミュージカルがパリで上演されました。大ヒットして、世界的にも高く評価されました。アジア各国で喝采をあびたあと、2013年にようやく日本にもやってきましたが、残念なことにフランス語ではなく英語による上演だったようです。原語版DVDは輸入盤で入手できます。Youtubeでも見ることができます。
このミュージカルの音楽を担当したのは、Richard Coccianteリシャール・コッシアンテで、2002年にはミュージカル『星の王子さまLe Petit Prince』 の音楽も担当しています。こちらのDVDは、パリにあるサン=テグジュペリ権利継承者事務所にオリビエ・ダゲ氏をたずねていったときに、彼からもらったものです。よくできたミュージカルだと思いますが、日本には紹介されていません。というわけで『星の王子さま』から先にコッシアンテの音楽になじんだ耳にとっては、『ノートル・ダム・ド・パリ』の音楽は聞き慣れたものに感じられます。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

« Mon Nara » No 261, 2014年3-4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

三野博司(会長)

天に向かって伸びていく谷間の百合
LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel
(バルザック『谷間の百合』1836年)

ベルニー夫人との恋 (1822-32年)の思い出から生まれた小説『谷間の百合Le lys dans la vallée』は、1836年に発表されました。生涯にたくさんの小説を書き残したバルザックですが、そのなかでも、美しい自然のなかで育まれる至純の愛の物語であるこの作品は多くの読者を獲得しています。フェリックスが新たな恋人に向かって、自分の過去の恋を語るという一人称の語りも、読者の物語への没入を容易にしています。そのフェリックスの独りよがりで、ときには感傷過剰な語りも、最後に置かれたモルソフ夫人の手紙、さらにはとどめを刺すようなナタリーの手紙で相対化されて、作品としての均衡を保っています。
原題のValléeには「谷間」の意味もありますが、ここでは広やかな川の流域を意味します。とはいえ、さすがに「流域の百合」とは訳せないので、「谷間の百合」で定着しています。バルザックの愛した豊穣なアンドル川(ロワール川の支流)の流域が舞台です。
孤独な青年フェリックスは、トゥールの町の舞踏会でたまたま出会った女性への恋慕にとらわれます。ふたたび会いたいと強い望みを抱いて、トゥーレーヌ地方の館という館をすべて探索しようと心に決めて歩きはじめるのです。アンドル川流域を見晴らすことのできる場所まで来て、甘美な驚きに打たれて、こう考えます。「女性のなかの花であるあの人がこの世のどこかに住んでいるとしたら、ここに違いない」。そして、1本のくるみの木の下で足を休めて、恋する夫人に思いをはせるのです。「天に向かって伸びてゆきながら、その美徳の香気によってこの谷間を満たしている谷間の百合 LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel, en la remplissant du parfum de ses vertus」
ついに出会った貞潔な人妻アンリエット・ド・モルソフ夫人は、横暴な夫と病弱な子どものそばで、苦悩多い生活を送っていました。しかし青年は熱烈に夫人を愛し、夫人のほうでも母親のような精神的な愛でこれに応えます。やがて、フェリックスはパリへ行き、グッドレー夫人と官能的な恋に落ちます。モルソフ夫人危篤の知らせを受けて、フェリックスは夫人と再会し、遺書として書かれた手紙を受け取ります。そこには、夫人の、貞淑であろうとして満たされなかった恋の恨みが記されていました。
バルザックの小説はいくつか映画化されています。リベット監督の『美しき諍い女』(1992年)と『ランジェ公爵夫人』(2008年)を始めとして、『シャベール大佐の帰還』(1995年)『従妹ベット』(1998年)『ゴリオ爺さん』(2004年)などです。『谷間の百合』に関しては、1970年に制作された2時間のテレビ映画があります。インターネットでは、Ina.frが有料(5ユーロ)で提供しています。原作を忠実にたどっただけの映画ですが、フェリックスとモルソフ夫人がボートで周遊するアンドル川、そして散歩する流域の風景が美しいです。
『谷間の百合』とそこに描かれたアンドル川を語るときに、忘れてならないのがサッシェの城館です。作家となったバルザックは、ときおりパリを逃れて、故郷トゥーレーヌ地方に帰り、知り合いの貴族マルゴンヌが所有するサッシェの城館の一室を借りて執筆を行いました。ここで『谷間の百合』『ゴリオ爺さん』などが書かれました。現在はバルザック記念館になっています。車がないと簡単に行くことができませんが、1981年、当時トゥールに住んでいた友人が、アンドル川を遡行してサッシェの城館まで連れて行ってくれました。Youtubeでは、« Balzac au château de Saché » と題した4分半ほどの紹介映像を見ることができます。フランスの田舎の美しいシャトーの雰囲気がよく伝わってきます。案内役の女の子の笑顔がいいです。彼女のフランス語を聴くのも心地良いです。

名句の花束―フランス文学の庭から(31)

« Mon Nara » No 260, 2014年1-2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(31)

三野博司(副会長)

天に向かって伸びていく谷間の百合
LE LYS DE CETTE VALÉE où elle croissait pour le ciel
(バルザック『谷間の百合』1836年)

脇道に逸れてばかりいますが、今回からは、ふたたび恋愛を巡る名句を紹介する……という本来の趣旨に戻ることにしましょう。
「花咲く乙女たち」という西条八十作詞の歌が、そのむかしありました。もとはといえば、プルースト『失われた時を求めて』の第2編『花咲く乙女たちのかげに』からヒントを得て創られたようですが、この歌のなかでは、街で見かける女性たちを花々に例えています。カトレアのように派手で、鈴蘭のように愛らしく、忘れな草のように気弱な目をしていると歌われると、いかにもそれらしく感じられます。女性を花に例えるとすると、若紫、夕顔、末摘花など『源氏物語』の世界も思い浮かびますが、フランス文学のなかであれば、やはり愛する女性を谷間に咲く清らかな白百合に見立てた『谷間の百合』でしょうか。
作者はオノレ・ド・バルザック Honoré de Balzac(l799−l850)。1799年トゥールに生れました。私の若い頃には、この地域はフランスでもっとも美しいフランス語が話されているといわれて、トゥールの外国人向けフランス語学校が人気でした。私もひと夏をトゥールで過ごしたことがあります。ただ、この街は第二次大戦の戦火で町の中心部が焼けてしまい、バルザックの生家は残っていません。その代わり、トゥール滞在中に、バルザックの短編小説『ざくろ屋敷』の舞台となった館を友人と訪れることができました。『バルザックとこだわりフランス』(2003年、恒星出版)という本があります。バルザックの作品とその舞台となった町や地域を、地図や写真を交えて紹介する便利なものですが、主として関西在住のバルザック研究者たちによるものなので、友人たちが執筆しています。「ざくろ屋敷」訪問記のなかには、私も同行者として登場します。ロワール河畔に立つざくろ屋敷は小さな建物でした。現在も住居として使われていて中には入れず、外から眺めただけですが、その所有者であるご主人の豪壮な館に招かれて、天井の高い広々とした応接間に通され、お茶とビスケットの歓待を受けたことを覚えています。
「画ニメ ざくろ屋敷」(深田晃司監督、2006年)というDVDがあります。画ニメというのは、細密なテンペラ画で書かれたアニメというようなもので、通常のアニメにはない重厚な雰囲気が伝わってきます。「病に侵された美しい母、何も知らずに遊ぶ2人の子供、今なおフランスの田舎に実在するざくろ屋敷での幸福な生活、少年は大人への階段をのぼろうとしていた」と物語は紹介されています。
また脇道に逸れましたが、バルザックの伝記に戻りましょう。彼は母親から愛されない不幸な少年時代を過ごしたと言われており、そのことがのちに「谷間の百合」のモデルである年上の女性への思慕となったようです。パリに出て、大学で法律を学ぶかたわら、法律事務所に書記見習いに入りますが、次第に文学に興味を持ち始め、やがてこの道で立つことを宣言します。種々の筆名を使って暗黒小説ばりの通俗小説を書いたりして、修業時代は長く続きます。
そんな彼に、「谷間の百合」との劇的な出会いが待っていました。23歳のときに生じた、22歳も年上のベルニー夫人との恋です。この初恋の女性は、10年ものあいだ、バルザックの天才を信じて、まだ無名であった彼を教育し励まし、「愛人」であると同時に「母親」代わりともなって、物心両面から彼を支え続けたのです。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

« Mon Nara » No 259, 2013年11-12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

三野博司(副会長)

フランスでぼくの好きな地方は …
Le pays de France que je préfère est …
(カミュ「シャールへの手紙」1947年)

アルジェリア生まれのカミュは、第2次大戦勃発後、1940年3月からパリでジャーナリストとして働きはじめ、その後一時帰国を経て、1943年11月以降パリに居を定めます。しかし、大都会の生活は肌に合わず、彼は早くから南仏に家をもちたいと願っていました。そこならまだしも、故郷の北アフリカに風土が似ているような気がしたのです。1947年には、友人で詩人のルネ・シャールに宛てて、「ところで、フランスでぼくの好きな地方は、あなたの住んでいるところ、より正確には、リュベロン山麓、リュール山、ローリス、ルールマランのあたりです。Or le pays de France que je préfère est le vôtre, et plus précisément le pied du Luberon, la montagne de Lure, Lauris, Lourmarin, etc」と書いています。シャールが住んでいたのは、リル=シュル=ラ=ソルグという小さな町で、私は2011年に訪れました。そのときのデッサンを掲げておきましょう。
シャールへの手紙を書いたあと、カミュは実際に別荘探しを行いますが、適当な物件を見つけることができませんでした。1958年9月になってようやく、彼は、シャールへの手紙で名前をあげているルールマランに念願の別荘を購入します。前年に受賞したノーベル文学賞の賞金が、その経済的余裕をもたらしたといわれています。閑静な環境にあるこの家で、1959年を通じて、彼は自伝的な長編小説『最初の人間』の執筆に専念することができました。しかし1960年1月4日、パリへ向かう途中、不慮の自動車事故が彼の命を奪います。享年46歳でした。ルーマランの別荘を購入してから、一年半も経っていませんでした。
ルールマランは、南仏エクサン=プロヴァンスの北40キロ、アヴィニョンの東70キロに位置する小さな村です。かつては、これらの町からバスの便がありましたが、今では車がないと行くことが困難です。村のはずれの墓地にはカミュが眠り、彼が購入した家には娘のカトリーヌさんが住んでいます。
私はルールマランを4度訪れました。最初は1980年7月、エクサン=プロヴァンスでひと月の研修を受けていたときです。案内所で路線バスの時刻を調べ、直通バスがないので途中で乗り換え、村に着いて、カミュの墓詣でを行いました。
2度目のルールマラン訪問は、1996年、トゥールーズ大学教授であったジャン・サロッキさん(私の博士論文の審査員でもありましたが)の夏の別荘に招かれたときです。サン=レミ=ド=プロヴァンスからサロッキさんの車で、ルールマランまで運んでもらいました。幸いこのときには、カミュの家を訪れて、応接間に案内され、娘のカトリーヌ・カミュさんと少し話すことができました。
三度目は2007年、ルールマランでのカミュ学会に出席したときです。獨協大学のフィリップ・ヴァネさんとエクサン=プロヴァンスで落ち合って、彼が運手する車に乗り込みました。挿絵はこのときに描いたものです。
そして四度目が、今年、2013年11月でした。エクサン=プロヴァンスで行われているカミュ学会に参加して、その仲間たちと一緒に、貸し切りバスに乗って訪れました。ルールマランの城館で開催されたカミュ生誕100年記念の講演会に出席すると、会場でカトリーヌ・カミュさんが私の姿を見つけて、自宅に来いと声をかけてくれました。ただ、バスの出発時刻が17時と決まっており、それを逃すとエクサン=プロヴァンスに戻る手立てがありません。残念ながら二度目のカミュ家訪問は断念することになりました。