名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(29)

« Mon Nara » No 258、 2013年9-10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(29)

三野博司(副会長)

Au printemps、 Tipasa est habitée par les dieux
春になると、ティパサには神々が住まう
(カミュ『結婚』1939年)

2013年はカミュ生誕100年の年でもあります。誕生日は11月7日ですが、すでに『日経新聞』および『朝日新聞』から取材を受けて、これらの記事はそれぞれ2月6日、7月16日の朝刊に掲載されました。まず年初に日経新聞の記者から連絡があり、時間が許せば奈良まで話を聞きに行きますとのことでしたが、結局電話とメールによる取材だけでした。朝日新聞のほうは、6月末、36歳の若い記者が、若い頃に読んだという文庫本を何冊もかかえて、東京から奈良まで来てくれました。研究室で、相手の熱意ある質問に答えているあいだに、こちらも気合いが入って、気がつけば3時間ぶっとおしでカミュについてしゃべっていました。
という次第で、その3時間をここに再現するわけではないのですが、記念の年なのでカミュについて少し書きたいと思います。とはいえ、名句から入るのは、この場合には入り口が多すぎて迷ってしまいます。思案したあげく、デッサンを話のきっかけにすることにしました。掲げた絵は、アルジェリアの首都アルジェから西70キロに位置するローマの遺跡ティパサを描いたものです。初めて訪れたのは2009年秋でした。2度目は2012年です。これらについては、『流域』(青山社)第66号「青春の土地―ティパサ」、および第71号「モハメド・ハッダのアトリエ」に詳述していますので、ここでは割愛します。ちなみにMohammed Khadda(1930-1991)は、アルジェリアを代表する画家で、その寡婦であるナジェット・ハッダさんの歓待によって、私の2度目のアルジェ訪問は忘れがたいものとなりました。
実は『地球の歩き方』のアルジェリア編というのが1970年代には出版されていたようです。当時はアルジェリアには約5000人の日本人が住んでいましたが、1990年代のテロの横行によって、外国人居住者がどんどん脱出しました。各国大使館が続々と撤退するなか、日本大使館は踏みとどまりました。とはいえ、2000年初めには、アルジェリア在住日本人は500人にすぎなかったようです。2006年頃から次第に治安が安定するようになりましたが、それでもまだ観光客の訪れる国ではありません。日本語によるアルジェリアの観光案内書は存在せず、英語もしくは仏語の本が頼りです。
アルベール・カミュが生まれたのは1913年11月7日、当時フランス領だったアルジェリアのチュニジア国境に近いモンドヴィという小さな村です。父はアルベール誕生の翌年に勃発した第一次大戦に召集を受けて、マルヌの戦いで戦死します。以後は、アルジェの貧民街で母や祖母に育てられることになります。のちにカミュは「貧困は、なによりも、私にとってはけっして不幸なことではなかった。そこには光の富が溢れていたからだ」と述べています。アルジェは地中海に臨んだ町です。空から燦々と降りそそぐ陽光が、青い海へと溶けこんでいきます。夕暮れともなれば、カミュが愛した「緑色の空」から、やわらかな光が落ちてきて町を包みこむ。そうした自然の富が、少年カミュを育てたのです。
太陽を愛したカミュは、強い光はそれだけ暗い影を生み出すのだとも書いています。17歳で発症した結核との闘いが一生続き、彼はつねに死を見つめて生きました。25歳のときに、カミュはアルジェのシャルロ書店から第2エッセイ集である『結婚』を刊行しました。地中海的霊感あふれるこの作品の冒頭に置かれた「ティパサでの結婚」は、カミュにとっての聖地になった海辺の廃墟で繰り広げられる自然との婚礼をうたっています。その冒頭部分を掲げましょう。
Au printemps, Tipasa est habitée par les dieux et les dieux parlent dans le soleil et l’odeur des absinthes, la mer cuirassée d’argent, le ciel bleu écru, les ruines couvertes de fleurs et la lumière à gros bouillons dans les amats de pierres.
春になると、ティパサには神々が住み、神々は陽光やアブサンの匂いのなかで語る。海は銀の鎧をまとい、空はどこまでも青く、廃墟は花におおわれて、光は石の堆積のなかで煮えたぎっている。

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

« Mon Nara » No 257, 2013年7-8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。(3)
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

前号で、2011年12月ニューヨークの見知らぬ人から英語のメールが突然送られてきたと書きました。それは作家の草稿をあつかう業務を行っているA氏からのもので、「自分の顧客が『星の王子さま』のタイプ原稿を売りたいと言っている。箱根の「星の王子さまミュージアム」に話をもちかけたいと思うが、それについてあなたの助言をもらえないだろうか」、という内容でした。
「星の王子さまミュージアム」は、2002年以来TBSの経営下にあり、その担当者とはかねてから面識がありました。そこで私が仲立ちして、A氏とTBSの交渉が始まりましたが、結局金額の点で折り合いがつかず、この話は流れました。ただ、A氏とのやりとりによって、いくつかの興味深い情報を得ることができました。
拙著『「星の王子さま」事典』(大修館書店)にも書きましたが、『星の王子さま』には手書き原稿の他にタイプライター原稿が三つ残されています。そのうち一つはパリ国立図書館、もう一つはテキサス大学にあります。3番目は、現在の時点で行方不明です。そして、今回のニューヨークの業者からの話は、この3番目のもののようなのです。
このタイプ原稿は、寡婦となったコンスエロが所有していた一連の草稿・デッサン類のなかに含まれていたようです。そして、彼女が1979年に亡くなると、それらの遺産は、1986年ジュネーブで売却されました。その後、1989年ロンドンで競売にかけられたという記録があります。そしてさらに売却がおこなわれ、現在の所有者の手に渡ったと推定されます。
サン=テグジュペリは、手書き原稿にもとづいて三つのタイプ原稿を作らせ、そのうち二つを保管しておき(これがパリ版とテキサス版)、3番目を自分の仕事のため使用し、これをもとに加筆をおこなったらしいのです。A氏からは、この原稿の13頁におよぶ売り立て用カタログも送ってもらいました。それを検討すると、第21章の有名なキツネのことばは、タイプ原稿でこうなっています。
Ce qui est le plus important, c’est ce qui ne se voit pas.
いちばん大事なもの、それは見えないものなんだ。
そして、この部分に棒線が引かれて、抹消された文字の上の行間に、サン=テグジュペリの自筆で記された次の文を読み取ることができます。
« On ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。)
『星の王子さま』といえばだれもがすぐに思い浮かべるこの有名な句は、この3番目のタイプ原稿おいてはじめて、著者によって書き込まれたものだとわかります。
以上のことについては、より詳しい顛末を、フランス文学・文化の小冊子『流域』(青山社)第70号に書きました。すると、意外なところから反響があったのです。大江健三郎氏により、岩波書店の『図書』(2012年10月号)で、「短いがすぐに忘れがたいものとなるはずの指摘」として紹介されました。

名句の花束―フランス文学の庭から(27)

« Mon Nara » No 256、 2013年5-6月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(27)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。(2)
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

『星の王子さま』出版70周年を記念して、4月末に河出書房新社が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』を刊行したことは先号で書きましたが、フランスでは新しい伝記が出版されています。著者はルーマニア出身のヴィルジル・タナズ氏。小説家、劇作家、演出家であり、1996年には、彼の新演出による『星の王子さま』が話題になり、その後もパリを中心にして上演され続けています。DVDが出るとか、日本公演を企画しているとか、いろいろ情報は伝わってきますが、どちらも実現していません。ただ、Youtubeでは、舞台のごく一部を見ることができます。
このタナズ氏と知り合ったのは2007年12月、パリにあるサン=テグジュペリ権利継承者事務所でした。サン=テグジュペリの子孫であり所長であるオリヴィエ=ダゲ氏に紹介されて、しばらく話をしました。このときタナズ氏から彼が演出する『星の王子さま』の公演に招待され、翌日、レピュブリック広場から歩いてすぐのル・タンプル劇場へ出かけました。この魅力あふれる舞台の様子については、拙著『「星の王子さま」事典』(大修館書店)で紹介しています。
翌2008年11月、モンパルナスのカフェでタナズ氏と再会したとき、彼はカミュの伝記を準備中であると教えてくれました。そしてこう言い添えたのです。「これで私たちを結びつける絆がもう一つできましたね」と。彼がルーマニア時代にカミュの戯曲『戒厳令』を母国語に訳したことは知っていましたが、伝記執筆の件は初耳でした。本が完成して、カミュ没後60周年の2010年に刊行されると、タナズ氏からは手書きの献呈本が送られてきました。
Pour Hiroshi Mino、 avec la même affection、 au nom de votre admiration pour Camus qui nous lie、 je l’espère、 un peu plus、 un peu mieux. (三野博司に。変わらぬ愛情をこめて、カミュに対するあなたの賛嘆の名において。その賛嘆が私たちをいっそう強くいっそう堅く結びつけることを希望しつつ。)
以後、彼はカミュ関連のシンポジウムやテレビ番組にも出演するようになります。同時に、伝記執筆に力を注ぎ、ガリマール社のフォリオビオグラフィのシリーズからすでに、チェーホフ、カミュ、ドストエフスキーが刊行されて、初めの二冊は祥伝社から日本語訳も出ています。
そして、今回送られてきたのはサン=テグジュペリの伝記です。これにも、手書きの献辞が添えられていました。
Pour Mino Hiroshi、 avec la même admiration、 avec la même amitié、 pour les souvenirs de tout ce qu’il a fait pour notre Saint-Exupéry. (三野博司に。私たちのサン=テグジュペリに対して彼がなしたすべて仕事の思い出に、変わらぬ賛嘆と、変わらぬ友情をこめて)。
ところで、この本の裏表紙には、次の句が掲げられています。
Voici mon secret. Il est très simple : on ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux. これがおれの秘密なんだ。とてもかんたんなんだよ。心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。
『星の王子さま』のなかでも一番よく知られている句です。第21章、キツネが王子さまに言うことばのなかにあります。ところで、この句については、2011年12月、ニューヨークの見知らぬ人から突然メールが送られてきて、いくどかのメールのやりとりの結果、ひとつの「発見」をすることになります。それについては次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

« Mon Nara » No 255, 2013年3-4月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

今年は『星の王子さま』出版70周年となります。すでにあちこちに書きましたが、まずはその出版いたる経緯をかんたんに紹介します。
第二次大戦がはじまるとサン=テグジュペリはアメリカに亡命することになります。船でニューヨークに到着したのは1940年12月31日の大晦日です。滞在はこのあと二年以上に及びましたが、アメリカ嫌いの彼にとっては、ニューヨークでの生活は不満の多いものでした。そんな状況で、1942夏『星の王子さま』の執筆が開始されました。それまで彼は、手紙や本の献辞を記したページ、数式の間、レストランのテーブルクロスに、王子さまとおぼしき少年の絵をいたずら書きのように描いていました。友人の編集者たちは、その少年を主人公にして「子ども向けの本」を書けば、サン=テグジュペリの気も紛れるのではないかと思って執筆を提案したのです。 こうして1943年4月6日、ニューヨークのレイナル&ヒッチコック社から『星の王子さま』が刊行されることになりました。ただし、この日に出たのはキャサリン・ウッドによる英訳本で、フランス語版も時をおかずに売り出されたのですが、こちらは正確な日付はわかっていません。
サン=テグジュペリは、1929年の『南方郵便機』を皮切りに、以後1931年『夜間飛行』、1939年『人間の大地』を、それぞれガリマール社から刊行しました。実は1929年、彼は将来にわたる作品はすべて同社から出版するという契約を結んでいたのです。ところが第二次大戦勃発後、アメリカに渡った彼は、『戦う操縦士』と『星の王子さま』をレイナル&ヒッチコック社から刊行し、このときその版権をこのアメリカの出版社に与えてしまいます。そのため、戦後になってガリマール社とのあいだに版権をめぐっての訴訟がもちあがりました。このもめごとを調停する役を果たしたのが、カミュでした。戦後ガリマール社の人気作家となった彼は、1946年アメリカに講演旅行に招待されます。このとき、ガリマール家の友人たちから版権問題を解決するための任務もまた託されていたのです。
現在のフランス語版を出版しているのはガリマール社ですが、フランスでの刊行は第二次大戦後、1946年4月のことです。2006年はその60周年ということで、数々の催しものや出版の企画があいつぎました。今年の70周年は、アメリカでの出版を記念する年ということですが、それでも初版の記念ということで、フランスでもお祝いの行事が開催されます。
ちょうど私のところに、サン=テグジュペリの子孫であるオリビエ・ダゲ氏が代表を務める 「サン=テグジュペリ権利継承者事務所」から封書がとどきました。『星の王子さま』刊行70周年を記念する行事への招待状です。4月9日20時からカクテルおよび夕食パーティ、10日には展覧会、11日には、スジリエ、ラクロワ、タナズといったおなじみのメンバーによるシンポジウム。3日間にわたる催しです。残念ながら、新学期早々にパリへ飛ぶこともできず、この招待に対しては欠席の返事を、ダゲおよびラクロワ宛てにメールで出すことになりました。この祝祭の様子については、いずれ『星の王子さま』公式HPに紹介されるでしょうから、それを待ちたいと思います。
日本でも、4月末に河出書房新社が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』と題した170頁ほどの本を出版します。私を含む10数名の執筆陣が、さまざまな角度から『星の王子さま』とその作者について、新たな光をあてる予定です。ちなみに拙稿のタイトルは「飛ぶ男と住む女-サン=テグジュペリの世界」で、12頁のエッセイです。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(25)

« Mon Nara » No 254, 2013年1- 2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(25)

三野博司(副会長)

Mon cœur est bon, mais je suis un monstre.
心はやさしいが、わたしは野獣なのだ。
(ジャン・コクトー『美女と野獣』1946年)

ディズニーのミュージカルやアニメで知られている「美女と野獣」の物語は、18世紀フランスのボーモン夫人の童話がもとになっています。子供向け教育事典『子供の雑誌』に収められた16篇の教訓物語の一つであり、1857年に発表されました。ボーモン夫人は、各地に伝えられた「美女と野獣」を主題にした伝承を17頁の短い物語にまとめあげ、これが後世の規範となり、今日まで読み継がれています。ただ、「美女の野獣」話の原型はローマ時代にまでさかのぼります。2世紀、アプレイウス『黄金のろば』のなかの「クピドーとプシュケー」のなかには、ヒロインが美しい末っ子であり、怪物が美しい青年に姿を変えるという「美女と野獣」の基本類型がすでにあります。
さて、コクトーもまた少年時代からボーモン夫人の童話を愛読し、1946年映画『美女と野獣La Belle et la bête』を制作しました。多才な彼は、みずから脚本を書くだけでなく、監督も務めています。友人のジャン・マレーが主役の野獣に扮し、名花ジョゼット・デイが美女を演じ、そこに、音楽担当のオーリック、衣装と美術担当のベアールなど、フランス映画界の一流のスタッフが参加しました。パリ近郊のラレーにある古城で撮影され、ボーモン夫人の原作に見られた18世紀の宮廷恋愛は、20世紀の美しく荘厳な光と闇からなる映像空間へと移し替えられたのです。
ボーモン夫人の原作では、野獣はベルに向かって、自分はただ単に醜いだけではなく、知恵がなくてバカなのだと言います。他方で、二人の姉たちは、それぞれ美貌の男と才気煥発の男と結婚するのですが、結局は不幸になります。ベルこそが、そうした外見に惑わされず、誠実で愛情深い伴侶を選ぶ目をもっており、父の良き娘であることを貫いた報酬として幸せな結婚を手に入れるのです。
原作に基づきながも、コクトーはいくつかの改変を行いました。人間の内なる獣性を外面へと投影させて、特殊メイクを用いて異様な外貌を作り出しました。最初の出会いから野獣の恐ろしさが強調されており、その姿を見てベルが気絶するほどです。けれども、次第にベルの強いまなざしの力が野獣を手なずけていきます。ここでは、みずからの獣性におびえ、醜さに悩む野獣の姿がむしろ痛々しく感じられます。人はみな自分の醜い面を隠して生きていますが、彼は愛する女性の前でみずからの醜悪さを晒していなければならないのです。
Bête : Mon cœur est bon, mais je suis un monstre.
Belle : Il y a bien des hommes qui sont plus monstreux que vous, qui le cachent.
ベート(野獣) 心はやさしいが、私は野獣なのだ。
ベル あなたよりもっと野獣に近くて、しかもそのことを隠している人間は、いっぱいいるわ。
ここでベルは、人間たちが隠している野獣性を見抜いています。
コクトーは、原作にはない人物として、ベルに言い寄るアブナンを作り出しました。マレーがアブナンと野獣の両方を演じることによって、美貌ではあるが中身のないアブナンと、醜いが心優しく誠実な野獣の対比が浮き上がり、この二人が入れ替わることになります。コクトーらしい合わせ鏡のような反転を用いて、彼は人間の獣性とはなにかと問いかけるのです。なお、この映画は、戦後日本で公開されたフランス映画の第一号でもありました。

名句の花束―フランス文学の庭から(24)

« Mon Nara » No 253, 2012年11- 12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(24)

三野博司(副会長)

Je suis un mensonge qui dit toujours la vérité
ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ
(ジャン・コクトー「赤い包み」1927年)

コクトーは軽業師と呼ばれるほどに、多彩なジャンルで活躍しました。世間はこうした詩人を山師のように見なして非難しましたが、それは彼の表層だけに目を奪われた誤解にすぎません。そのような変幻自在でとらえがたく、さまざまな伝説を生み出したコクトーが、みずからを語ったことばとして有名なのが、この引用句です。「私の耳は貝のから」を収めた詩集『ポエジー』から7年後、1927年の詩集『オペラ』に収められた「赤い包み」の末尾にある句ですが、コクトーを語るときに必ず引き合いに出されるものです。
主語のje「ぼく」のあとに、mensonge「嘘」とvérité「真実」と相反する語を並べてみせるレトリックが印象的です。さらに、toujours 「つねに」と補って、彼の一貫して変わらぬ態度を強調しています。コクトーにとって、詩とは、現実と見せかけ、事物と鏡のなかの反映、真実と幻影とをまぜあわせる魔術なのです。しかし、それはコクトーだけのことではありません。文学が歴史や事実報道と異なるのは、それが嘘をつきつつ真実を語る技法であるからです。作家や詩人は、現実から素材を取り出しながらも、そこに嘘(フィクション)を交えます。その嘘にこそ、作家の夢や願望、思想や情念、さらには無意識までが反映することになります。文学作品を読むとは、この嘘のなかに秘められた真実を探りあてることにほかなりません。文学作品をたんなる歴史資料としてあつかうアプローチがつまらなく感じられるのは、そこに作家の真実に迫ろうとする意図が欠けているからです。
ところで、コクトーの代表作の一つに『恐るべき子供たちLes Enfants terribles』があります。1928年12月、コクトーは阿片の解毒治療のために豪華なサンクルー病院に入院します。入院中に手記『阿片』を書き、翌29年4月に退院し、入院費用はいつものように、当時芸術家たちのパトロンであったココ・シャネルが支払いました。ところで、この入院中に彼はもうひとつの仕事を仕上げました。それが『恐るべき子供たち』であり、17日間で一気に書かれて、1929年6月に刊行されました。
少年たちの夢想と現実が入り交じった世界をみごとに描きだしているこの小説は、パリのシテ・モンチエの中庭での、中学生たちの雪合戦の場面からはじまります。ポールはダルジュロスが投げた雪つぶてを胸に受けて倒れます。それは「大理石の一撃」でした。コクトーの作品には、しばしば天使たちが現われますが、それは生と死の世界を自由に往来する力をそなえた死の世界からの使者です。ダルジュロスも、そうした天使のひとりで、その毒によってポールを死にいたらしめます。
このダルジュロスの影響下に、ポールとその姉エリザベトの近親相姦的な愛が進行します。彼らは、幼い心を持ちつづけ、大人になることを拒否し、そのためにほろび去っていきます。コクトーは、そうした少年少女の心理の襞を描き、時代の風俗を素材として、古典的完成度をもつ作品を書きあげました。この恐るべき子供たちの像は、第一次大戦後の混乱と不安の時代の人々に、発表当時の若者たちの共感をあつめました。
コクトーが脚色し台詞を作りみずからナレーションを入れて、ジャン=ピエール・メルヴィルが監督して、1950年に映画化されました。また、日本では、1979年に萩尾望都がマンガ化しています。萩尾作品に登場する美少年たちがコクトーの世界に移り住んで、その繊細な線のタッチと蠱惑的な肖像が原作の雰囲気を再現しています。

名句の花束―フランス文学の庭から(23)

« Mon Nara » No 252, 2012年9 – 10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(23)

三野博司(副会長)

Mon oreille est un coquillage
/ Qui aime le bruit de la mer.
 私の耳は貝のから / 海の響をなつかしむ
(コクトー「カンヌ」1920年)

前々回、アポリネールの詩にうたわれたエッフェル塔について、建設当時の作家・芸術家に嫌われたこの新しい建造物も、20世紀に入って、新精神を標榜する芸術家たちによって歓迎されるようになったと述べました。今回紹介するジャン・コクトー Jean Cocteau (1889-1963) もそのひとりです。彼の絵にもエッフェル塔を軽妙なタッチで描いたものがあります。また、コクトー最初の演劇作品は、『エッフェル塔の花嫁花婿Les Mariés de la tour Eiffel』と題されていて、1921年パリのシャンゼリゼ劇場でスウェーデン舞踊団によって上演された音楽劇です。パリの俯瞰景を背景にして、エッフェル塔の2段目の展望台という設定の舞台で、ファンタジックな結婚式が繰り広げられます。音楽はミヨー、プーランク、オネゲルなど「六人組」のメンバーが担当しています。YouTubeでも、原題で検索すれば、いくつかの演奏を映像付きで見ることができます。
同じ原題 « Les Mariés de la tour Eiffel » をもつシャガールの絵があります。1938年の作で、切手の図柄にもなっている人気作ですが、こちらは訳語が一定せず『エッフェル塔と新婚夫婦(新郎新婦)(恋人たち)』などと訳されているようです。
コクトーとエッフェル塔との縁は深く、塔が建設されたのと同じ年、1889年、彼はパリ郊外の高級住宅地メゾン・ラフィットに生まれました。今日でもしゃれたレストランがある町です。74年の生涯を通じて、彼は、詩、小説、演劇、映画、絵画 の分野で軽妙で多彩な活動を展開しましたが、本質的に自分は詩人であると定義していました。
1919年、コクトーは第一詩集『喜望峰』を発表し視覚の冒険に挑んだあと、その翌年、1920年に短詩をあつめて『ポエジー』と題して刊行しました。感覚的レトリックを駆使して、旅や海辺の詩が多く含まれています。「カンヌ」もそのひとつで、六篇の短詩から成りますが、名句としてとりあげたのは、わずか2行の第5詩です。
Mon oreille est un coquillage/Qui aime le bruit de la mer.
私の耳は貝のから/海の響をなつかしむ
かつてとある仕事で月ごとに東京へ通い、夕方からは暇があればNHKホールのコンサートを聴きに行くという生活を送っていたころ、ホールのロビーにはこのコクトーの句が刻まれた波模様と巻貝を描いた大きなパネルが掲げられていました。海の響きを聴き取ろうとする巻き貝のような耳が音楽に聴き入る耳を連想させるために、この句が選ばれたのでしょうか。
コクトーの詩集『ポエジー』は、彼の伝記などでもほとんど扱われることのないマイナーな作品です。またフランスの引用句辞典Dictionnaire des citationsをひもといても、コクトーのこの詩句は掲載されていません。つまり、日本だけで知られている句のようですが、有名になったのは、堀口大學の訳詩集『月下の一群』で紹介されてからです。
1925年9月、それまで10年間にわたって作られた訳詩のなかから66人の詩人、340篇の詩を選んで編まれたのが『月下の一群』です。「ジャン・コクトオ」と堀口大學は表記していますが、コクトーからは10篇が選ばれ、「耳」という表題でこの2行詩が掲載されています。しかし、この題は原文にはありません。原詩は「カンヌ」という詩で、1から6までの数字が付された短詩からなり、5のところに題名もなくわずか2行のこの詩が掲げられています。aimeを「なつかしむ」と訳すことで、時間のへだたりが表現され、貝殻が夏の思い出となって余韻を残します。なお、耳と貝の結びつきは、コクトーの他の詩にも見られるものです。
おなじく『月下の一群』の大學訳で親しまれるようになったコクトーの「シャボン玉」をあげておきましょう。これも短いです。
シャボン玉のなかへは/庭は這入れません/まはりをくるくる廻つてゐます
Dans la bulle de savon / le jardin n’entre pas. / Il glisse autour.

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

« Mon Nara » No 251, 2012年7 – 8月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る (3)
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

手元に « Paris : 34 ponts » (パリ34本の橋)というタイトルの小さな本があります。パリ観光案内本の一つで、セーヌの上流から順に34本の橋が写真とともに紹介され、ミラボー橋は最後から3つ目の32番目、アポリネールの詩の冒頭が引用されています。いつ買ったものか記憶が定かではないのですが、写真はすべて白黒で、発行年はと見ると1972年で40年も前。パリのセーヌに架かる橋はその後3本が新設されて、現在では « Les 37 ponts de Paris » という本が刊行されているようです。
渡辺守章著『パリ感覚』(1985年)では、第1章で「橋づくし」とでもいうべき随想が繰り広げられます。シュリー橋に始まり、さまざまな橋についての著者一流の薀蓄が傾けられますが、ミラボー橋については、「かのミラボー橋は、上流の堤防によって二つに分けられたセーヌが、再び一つに合流するところにかかっている」とだけあり、もう今さらこの橋についてアポリネールやローランサンについて語ることもあるまいと言った風情です。
ミラボー橋は、エッフェル塔からさらに下流へ、自由の女神が立つ「白鳥の小路」と呼ばれる堤防のその先にあります。現在では Google earth で 「ミラボー橋」(日本語で可)と打ち込んで検索すれば、たちまち橋の上空へと連れて行ってくれます。
なんの変哲もない鉄製の橋ですが、有名になったのはアポリネールの『アルコール』に収められた詩「Le Pont Mirabeauミラボー橋」がきっかけでした。多くの画家とも交際のあったアポリネールは、ピカソにマリー・ローランサンを紹介され、恋仲となりました。彼は、母親と暮らしていた女流画家の近くのアパートに引っ越して、自宅に帰るときにこの橋を通ったのです。
5年後に2人は別れますが、詩人は過ぎ去った恋を、セーヌの水の流れに託しました。「ミラボー橋の下をセーヌが流れ/ぼくらの恋も流れる」と始まり、川の水のように過ぎ去った時も恋も戻ってはこないと歌われます。「恋はすぎる この流れる水のように/恋は過ぎ去る/人の世の何と歩みのおそいこと/希望ばかりが何と激しく燃えること」といった感傷的な詩句は、現代派のアポリネールとはまた異なった一面を見せています。とりわけ知られているのは、四回繰り返される次の二詩句です。
Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る
前半のVienne, sonne はともに動詞が接続法現在形になっていて、祈願を表しています。また後半の「日々は流れゆき ぼくは残る」は、15世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの『大遺言書』のなかにその原型があるといわれています。
ローランサンには、『アポリネールとその友人たち』と題された絵があります。詩人の作品が2人の関係が破綻したあとに書かれたのに対して、こちらの絵は、恋人同士だったときに制作されました。絵の中央にアポリネールが腰掛けていて、右端にローランサン、あとピカサや友人たち数名が描かれています。アポリネールの右肩奥に小さく見えているのがミラボー橋ですが、橋桁の間隔が狭くて、実際のミラボー橋とは印象がかなり違います。

世界的な風邪の流行が話題になるたびに引き合いに出されるのは、1918年~19年に猛威をふるったスペイン風邪です。アメリカに始まり、ヨーロッパに波及し、さらには世界中に広まりました。感染者6億人、死者4,000~5,000万人というとほうない数字が残っています。著名人も犠牲となりました。ドイツのマックス・ウェーバーのほかに、日本では私たちになじみの奈良ホテルを設計した辰野金吾、そしてフランスではなんとってもアポリネールです。彼が亡くなったのは、「ミラボー橋」発表から5年後、1918年11月9日、第1次世界大戦の休戦条約が結ばれる2日前でした。

名句の花束―フランス文学の庭から(21)

« Mon Nara » No 250, 2012年5 – 6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(21)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る (2)
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

アポリネールが1913年に発表した詩集『アルコール』には、時代を先取りした彼の前衛性を代表する詩である「地帯」と、古典的で甘美な抒情性をたたえた「ミラボー橋」と、それぞれ異なった性格をもつ詩が収められています。まずは冒頭の一篇「地帯 Zone」から。
A la fin tu es las de ce monde ancien
Bergère tour Eiffel le troupeau des ponts bèle ce matin
とうとうおまえはこの古い世界に飽きてしまった
羊飼いの娘よ おおエッフェル塔 橋の群れはけさめえめえと泣いている
前回述べたように、この詩集ではいっさいの句読点が廃されています。この始まりの二行は、新しい詩のヴィジョンを挑戦的に展開するにふさわしいものです。一行目で「おまえ」と自分に呼びかけてあらたな創造が必要であることを示唆し、二行目ではエッフェル塔に向かって大胆なメタファーを用います。
エッフェル塔は、フランス革命100周年にあたる1889年に開催されたパリ万博のときに建設されました。万博が終われば取り壊される予定であったのが、幸いに生き延びることになります。建設当時、モーパッサンを初めとする当時の作家・芸術家に嫌われたエッフェル塔も、二〇世紀に入って、新精神を標榜する芸術家たちによって歓迎されるようになりました。すでにスーラは、おそらくは建設途中の姿であろうと思われる頂上の部分の欠けたエッフェル塔を描いており、これがもっとも早い時期に描かれたエッフェル塔の絵だといわれています。他にも、ルソーの自画像の背景を構成するパリのモニュメントの一つとして、またシャガールの空中遊泳する恋人たちを祝福する事物の一つとして、エッフェル塔が描き込まれました。
しかし、この塔にもっとも強く惹きつけられた画家はドローネーでした。彼は、連作「窓」や「ブレリオ讃歌」などの画面に塔の姿を描き込んでいますが、そればかりでなく、1909年から二年間にわたってエッフェル塔の連作を制作しています。そこで彼は、光によって解体されたこの塔を、10個の視点と15個の遠近法をもちいて描き、相矛盾する平面の組み合わせによって、300メートルの高度がもたらす眩暈を表現しました。塔は、もはや静止した建造物ではなく、ダイナミズムの表明となったのです。
そして、アポリネールは言葉を塔の形に並べた絵文字の詩までつくっていますが、とりわけ「地帯」の最初の二行が提示するイマージュが鮮烈です。彼は、この新しい建造物である鉄塔を羊飼いの娘に見立てます。そしてセーヌに架かる橋々を羊の群れに、曳き船のサイレンを羊の鳴声にたとえるのです。パリの一日の始まり、それは新しい時代の始まりでもあるのです。
そして、この「地帯」の最終句もまた、印象的なものです。

Soleil cou coup
太陽 首 切られ

声に出して読んでみるとわかるように、cou[k]の音の重なりが効果的で、断頭台の刃が落ちてくるような、突然の荒々しい終結です。古い世界の終焉を告げると同時に、これから詩人によって歌われる新しい世界までが、すでに死を宣告されているかのようです。
ところで、大阪万国博覧会の時に岡本太郎によって設計された「太陽の塔」は、このアポリネールの詩に淵源があるという塚原史氏の卓抜な指摘があります(『人間はなぜ非人間的になれるのか』ちくま新書)。詳細は省きますが、1930年をパリで過ごした岡本太郎が、アポリネールの詩句にならって太陽と斬首を結びつけたバタイユの思想に触れたことがきっかけとなっています。「太陽の塔」とは、首を切られた太陽=女性があらたな太陽=新生児を産み落とそうとしている姿なのです。奇才が作り出したあの異形な建造物の着想が、アポリネールの詩にまで遡ることができるという解釈はたいへん興味深いものです。
『アルコール』に収められたもうひとつの有名な詩「ミラボー橋」については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(20)

« Mon Nara » No 249, 2012年3- 4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(20)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

昨年の初夏以来、3・11をめぐっていくつかの名句について語りました。この間、平行してひとつの本の編集作業も進めてきました。4月に刊行される『大学の現場で震災を考える』(三野博司編、かもがわ出版)です。「奈良女子大学文学部<まほろば>叢書」の第1巻を飾るもので、文学部教員による8本の論考がおさめられています。私の「震災とフランス文学」は、一見なんのつながりもないと見えるこの二つの主題について考察してみたものです。「名句の花束」でもとりあげた、カミュ、サン=テグジュペリ、ヴォルテール、ルソーについて触れています。
今回からは、恋愛にまつわる名句に戻って、シャンソンでも知られているアポリネール Apollinaireの「ミラボー橋 Le Pont Mirabeau」を取り上げましょう。かつてはレオ・フェレ Léo Ferréの歌がよく知られていました。セーヌ川の流れのようなどこかもの憂くゆったりとしたアコーデオンの調べにのって、とどめようのない時と過ぎさった恋の物語が、少しくぐもったような声で歌われていました。いまでは Youtube で、かんたんにいくつかの歌を聴くことができます。ピアノの高音がパセティックに響いて恋の悲哀をかきたてるセルジュ・レジアーニ Serge Reggianiや、速く軽快なテンポと強いビートを伴って歌われるマルク・ラヴォワーヌ Marc Lavoineなど、レオ・フェレとはずいぶん違ったおもむきがあり、それぞれにおもしろいです。
ギョーム・アポリネールは筆名で、1880年、亡命ポーランド貴族の娘を母とする私生児としてローマに生れました。父親についてはよくわかっていません。少年期をモナコ、カンヌ、ニースですごし、19歳のときに母に連れられてパリに出てきて、さまざまな職業に就きます。この時期、生活のためいくつかの春本も書いています。
第一次大戦の前年である1913年は、フランス文学史において、数々の傑作が出版された年として知られています。まず最初にあげるべきなのは、プルーストの『スワン家の方へ』ですが、他にアラン・フルニエ『グラン・モーヌ』、ラルボー『A.O.バルナブース全集』があり、そしてアポリネールの画期的な2冊の本、詩集『アルコール』と絵画評論『立体派の画家たち』がこの年に刊行されました。前者はいっさいの句読点を排除したアポリネールの代表詩集であり、後者は当時のもっとも革新的な絵画を擁護した書物です。
第1次世界大戦が勃発すると、外国人であるアポリネールは(16年フランスに帰化しています)従軍の義務がなかったにもかかわらず、フランスを愛する気持から志願して、ニームの砲兵隊に入りますが、頭部に戦傷を受けて、2度の切開手術を受けます。アポリネールといえば、頭に包帯を巻いた姿が知られています。大江健三郎の『個人的な体験』では、生まれてきた赤ん坊が頭部手術を受ける場面で、主人公が「アポリネールみたいに頭に包帯を巻いて」と言う一節がありました。これがのちに、『新しい人よ目覚めよ』などの大江文学において、聖なる光を放つ存在イーヨとなるのです。
アポリネールはこの重い傷がいえると、ふたたび活動をはじめて、1903年に書いたシュルレアリスム演劇『ティレジアスの乳房』を舞台にかけます。1917年のことです。これはのちにプーランクによってオペラ化され、1947年、パリのオペラ・コミック座で上演されました。小澤征爾指揮によるCDが出ていて、私の気に入り歌手のひとりでもあるバーバラ・ボニーが歌っています。(以下次号)