名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(35)

« Mon Nara » No 265, 2014年9-10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(35)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった。(3)
(ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』1932年)

ミュージカルやアニメ映画によって、ヴィクトル・ユゴーというと『レ・ミゼラブル』や『ノートル=ダム・ド・パリ』などを書いた小説家というイメージが強いですが、フランス本国ではむしろ19世紀最大の詩人のひとりとみなされています。「今世紀最大の詩人は誰ですか」とたずねられて、ユゴーは「ミュッセが二番目だ」と答えたという話があります。自分が一番だということを遠回しに言ったわけですが、それだけ彼の自信は絶大でした。「19世紀最大の詩人はだれですか」とたずねられたジッドが、「ユゴーだ。残念なことに」と答えたという話もあります。確かにスケールの雄大さではユゴーが図抜けているが、詩における革新性や思想性の深さ、後世に与えた影響などにおいては、象徴派詩人たちのほうが優れているという含意がありそうな発言です。
私自身はユゴーの詩にはほとんどなじみがありません。ただし、一度だけ、ユゴーの詩と4時間にわたって格闘したことがあります。フランスの大学の博士課程は、そのむかしDEA (Diplôme des Éudes Approfondies) という予備課程の資格を取る必要がありました。この資格が与えられると、いよいよ博士論文の執筆に取りかかっても良いということです。博士課程の最初の一年の終わりにこの試験を受けましたが、提出された問題はユゴーの詩をジルベール・デュランの方法論を使って分析せよというものでした。デュラン自体は授業で扱われたので問題はありませんでしたが、難物はユゴーの詩でした。普段まったく縁のないユゴーの詩がいきなり目の前に出されて、それを読み取り、解釈し、フランス語で解答を書くというもので、4時間の試験時間があっという間に過ぎてしまいました。Cadaverというラテン語の題名がついた54 行の詩でした。試験には合格することができて、先生からこれから博士論文に取りかかれと激励されました。その後も、ユゴーの詩に親しむ機会はまったくなくて、私が知っているのはいまだにこの詩のみです。
さて、ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』ですが、ここでは中世パリのノートル=ダム大聖堂を舞台に、ジプシー娘のエスメラルダをめぐって、邪欲に汚れた司教補佐、美男の王室親衛隊長、そして醜い大男の鐘番カジモドが争います。これは教会権力と王権と民衆の対立の図式でもあります。なかでも、民衆を代表するカジモドは、エスメラルダに清らかな愛を抱き、娘のほうでもいのちの恩人である彼の優しい心に気づくのです。ここに美女と野獣の主題が見られますが、とはいえ、エスメラルダの恋情は美男の隊長に向けられたままです。そして、おとぎ話とは違って、ここでは野獣が美しい王子に変身するという結末はありません。最後まで醜いままのカジモドは、死んだエスメラルダを抱きしめて、みずからも死ぬことしかできないのです。
物語の最後は「カジモドの結婚」と表題が付けられています。エスメラルダが絞首刑にかけられた日に、カジモドはノートル=ダム寺院から姿を消します。それから1年半、あるいは2年後のこと、郊外の墓地に納められた多くの骸骨のなかに、二つの骸骨が見つかります。一方は絞首刑で殺されて、ここへ運ばれてきた者の骸骨。もうひとつは、ここにやって来て、ここで死んだ者の骸骨です。そして、あとの骸骨は「奇妙な恰好で、もう一つのものを抱きしめていた」と説明されています。これこそが「カジモドの結婚」なのです。そして、最終行はこうなっています。
Quand on voulut le détacher du squelette qu’il embrassait, il tomba en poussière.
この骸骨を、その抱きしめている骸骨から引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった。

名句の花束―フランス文学の庭から(34)

« Mon Nara » No 264, 2014年7-8月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(34)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった(2)
(ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』1932年)

ヴィクトル・ユゴー Victor Hugoは1802年、軍人の子としてブザンソンに生れました。生家は残っていますが、ヴィクトルの生後すぐに一家はマルセイユへ転居したため、記念館になっているわけではありません。向かいには映画の創始者リュミール兄弟の生家もあります。その後、ユゴーはパリで教育を受けて、早くから文学に情熱を燃やし、1827年に発表した長大な詩劇『クロムウェル』とその序文がロマン主義の大いなるマニフェストとなり、30年には戯曲『エルナニ』によってロマン派劇の勝利を確実なものにしました。
小説に関しては、ユゴーは5作の長編を書いています。インターネットで、フランスのナント大学公開講座を視聴することができますが、そのなかにユゴーの小説に関する連続講義があります。語っているのはアニェス・スピケルさん。私の友人で、国際カミュ学会の会長ですが、カミュ研究に転ずる前はユゴーの専門家でした。2014年1月から2月にかけて行われた講義は、1回50分で5回、各回ごとにユゴーの長編小説を一つずつ取り上げています。そのうち『ノートル=ダム・ド・パリ』だけが刊行年代が早くて1832年、他の4作は『レ・ミゼラブル』を含めてすべて1860年以降の刊行です。
さて『ノートル=ダム・ド・パリ』は、新婚早々で金銭に困っていたユゴーに対して、出版社が金をもうけるなら歴史小説を書くようにと勧めたことが執筆動機の一つでした。ただし、その機会をとらえて、ロマン主義文学運動のリーダーであった彼は、ノートル=ダム大聖堂を舞台に、15世紀のパリを舞台にロマン主義的歴史小説を書き上げることになります。
長大なユゴーの小説は本題を離れて脱線することが多いですが、この小説にも「これがあれを滅ぼすだろう」という謎めいた題がついている章があります。2011年にはパリにおいてこの表題で学会が開かれたほどの有名な句ですが、私たちもここで少し脱線して、この名句について語りましょう。
小説の主役はまさにノートル=ダム大聖堂であるといえますが、その大聖堂司教補佐のクロード=フロロが、テーブルに広げてあった書物のほうへ右手を伸ばし、左手を大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目でこう言う場面があります。
「Hélas !  Ceci tuera cela ああ! これがあれを滅ぼすだろう」
そのあと、クロロはこんなことばを言い添えます。「恐ろしいことじゃ! 小さなものが大きなものをうち負かすのだ。[……] Le livre tuera l’édifice! 書物は建築物を滅ぼすことになるだろう!」
これがどういう意味なのか、次の章において、作者みずからが長々と説明を展開します。要点をまとめるとこうなります。古代から建築は人間の思想を記録するためのいちばん重要で広く用いられた手段でしたが、グーテンベルクが活版印刷を発明して以降、その役割を書物に譲りつつありました。人間の思想は、永遠に生きるために建築よりもさらにじょうぶで、持ちが良く、容易な手段を発見したのです。これは歴史上の一大事件でした。「書物は建築物を滅ぼすだろう」という15世紀のフロロが作中において言ったことばを、19世紀の作者ユゴーが引き取って、いまや印刷術によって建築は死んでしまったと宣言します。そして21世紀の私たちは、デジタル革命がこんどは書物の命を脅かす時代に生きているわけであり、このフロロのことばに無関心でいるわけにはいかないでしょう。
また、脇道にそれましたが、以下は次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(33)

« Mon Nara » No 262, 2014年5-6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(33)

三野博司(会長)

Quand on voulut le détacher…, il tomba en poussière.
引き離そうとすると白骨は粉々に砕けてしまった(1)
(ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』1932年)

大学の同僚で奈良日仏協会会員である高岡尚子さんの編集により、『恋をする、とはどういうことか?』(ひつじ書房)が刊行されました。タイトルを見ただけで、昔の甘酸っぱい思い出がよみがえってくる人もいるかもしれませんが、副題には「ジェンダーから考える ことばと文学」とあります。じつは、この本は「ジェンダー言語文化学」の授業で用いる教科書として作られたものなのです。
高岡さん執筆によるジェンダー学入門というべき第1部「ジェンダーについて考える」は、まさに簡潔にして要を得た教科書として書かれており、参考文献もたっぷりと紹介されています。それを受けて、第2部では、日中米仏独、それぞれの文学の担当者が寄稿し、かなり自由なスタイルで、ジェンダー学的視点から「恋」を語っています。
私が書いた章は「美女と野獣 騎士と精霊」と表題があり、「恋をするのは人間同士とは限らない。物語の世界では、人間と人間ならぬ異形の生き物との恋もまたうまれる」とはじまります。人間界の恋を語るのは他の人たちにまかせて、私のほうでは異類婚、あるいはそれに類する物語ばかりを取り上げました。それらを大きくふたつにわけて、ひとつは「人間である女性と醜い獣とのあいだの恋」すなわち「美女と野獣」、もうひとつは「人間である男性と美しい女性に変身した自然の霊とのあいだの恋」すなわち「騎士と精霊」の主題のもとにまとめています。古代ローマのアプレイウスに始まり、アンデルセンやグリムの童話、フーケーやムゼーウスのドイツ文学やキーツの英詩、谷崎潤一郎や木下順二、ドボルザークやドビュッシーのオペラ、さらには宮崎アニメやディズニーアニメにも軽く言及していますが、なかでももっとも多く取り上げたのはやはりフランス文学です。
「美女と野獣」の中心はコクトー『美女と野獣』であり、「騎士と精霊」のほうはジロドゥー『オンディーヌ』ですが、この二作品はすでに「名句の花束」で取り上げました。今回は、その他の作品から名句を引きましょう。まずは、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』から。
わが国では、ディズニーアニメ『ノートルダムの鐘』(1996年)の原作といったほうがわかりやすいのかもしれません。アニメでは、教会の高みからパリを俯瞰する絵がきれいですが、物語は子ども向きに大幅に改変されています。
他方で、1998年には、フランス版ミュージカルがパリで上演されました。大ヒットして、世界的にも高く評価されました。アジア各国で喝采をあびたあと、2013年にようやく日本にもやってきましたが、残念なことにフランス語ではなく英語による上演だったようです。原語版DVDは輸入盤で入手できます。Youtubeでも見ることができます。
このミュージカルの音楽を担当したのは、Richard Coccianteリシャール・コッシアンテで、2002年にはミュージカル『星の王子さまLe Petit Prince』 の音楽も担当しています。こちらのDVDは、パリにあるサン=テグジュペリ権利継承者事務所にオリビエ・ダゲ氏をたずねていったときに、彼からもらったものです。よくできたミュージカルだと思いますが、日本には紹介されていません。というわけで『星の王子さま』から先にコッシアンテの音楽になじんだ耳にとっては、『ノートル・ダム・ド・パリ』の音楽は聞き慣れたものに感じられます。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

« Mon Nara » No 261, 2014年3-4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

三野博司(会長)

天に向かって伸びていく谷間の百合
LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel
(バルザック『谷間の百合』1836年)

ベルニー夫人との恋 (1822-32年)の思い出から生まれた小説『谷間の百合Le lys dans la vallée』は、1836年に発表されました。生涯にたくさんの小説を書き残したバルザックですが、そのなかでも、美しい自然のなかで育まれる至純の愛の物語であるこの作品は多くの読者を獲得しています。フェリックスが新たな恋人に向かって、自分の過去の恋を語るという一人称の語りも、読者の物語への没入を容易にしています。そのフェリックスの独りよがりで、ときには感傷過剰な語りも、最後に置かれたモルソフ夫人の手紙、さらにはとどめを刺すようなナタリーの手紙で相対化されて、作品としての均衡を保っています。
原題のValléeには「谷間」の意味もありますが、ここでは広やかな川の流域を意味します。とはいえ、さすがに「流域の百合」とは訳せないので、「谷間の百合」で定着しています。バルザックの愛した豊穣なアンドル川(ロワール川の支流)の流域が舞台です。
孤独な青年フェリックスは、トゥールの町の舞踏会でたまたま出会った女性への恋慕にとらわれます。ふたたび会いたいと強い望みを抱いて、トゥーレーヌ地方の館という館をすべて探索しようと心に決めて歩きはじめるのです。アンドル川流域を見晴らすことのできる場所まで来て、甘美な驚きに打たれて、こう考えます。「女性のなかの花であるあの人がこの世のどこかに住んでいるとしたら、ここに違いない」。そして、1本のくるみの木の下で足を休めて、恋する夫人に思いをはせるのです。「天に向かって伸びてゆきながら、その美徳の香気によってこの谷間を満たしている谷間の百合 LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel, en la remplissant du parfum de ses vertus」
ついに出会った貞潔な人妻アンリエット・ド・モルソフ夫人は、横暴な夫と病弱な子どものそばで、苦悩多い生活を送っていました。しかし青年は熱烈に夫人を愛し、夫人のほうでも母親のような精神的な愛でこれに応えます。やがて、フェリックスはパリへ行き、グッドレー夫人と官能的な恋に落ちます。モルソフ夫人危篤の知らせを受けて、フェリックスは夫人と再会し、遺書として書かれた手紙を受け取ります。そこには、夫人の、貞淑であろうとして満たされなかった恋の恨みが記されていました。
バルザックの小説はいくつか映画化されています。リベット監督の『美しき諍い女』(1992年)と『ランジェ公爵夫人』(2008年)を始めとして、『シャベール大佐の帰還』(1995年)『従妹ベット』(1998年)『ゴリオ爺さん』(2004年)などです。『谷間の百合』に関しては、1970年に制作された2時間のテレビ映画があります。インターネットでは、Ina.frが有料(5ユーロ)で提供しています。原作を忠実にたどっただけの映画ですが、フェリックスとモルソフ夫人がボートで周遊するアンドル川、そして散歩する流域の風景が美しいです。
『谷間の百合』とそこに描かれたアンドル川を語るときに、忘れてならないのがサッシェの城館です。作家となったバルザックは、ときおりパリを逃れて、故郷トゥーレーヌ地方に帰り、知り合いの貴族マルゴンヌが所有するサッシェの城館の一室を借りて執筆を行いました。ここで『谷間の百合』『ゴリオ爺さん』などが書かれました。現在はバルザック記念館になっています。車がないと簡単に行くことができませんが、1981年、当時トゥールに住んでいた友人が、アンドル川を遡行してサッシェの城館まで連れて行ってくれました。Youtubeでは、« Balzac au château de Saché » と題した4分半ほどの紹介映像を見ることができます。フランスの田舎の美しいシャトーの雰囲気がよく伝わってきます。案内役の女の子の笑顔がいいです。彼女のフランス語を聴くのも心地良いです。

名句の花束―フランス文学の庭から(31)

« Mon Nara » No 260, 2014年1-2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(31)

三野博司(副会長)

天に向かって伸びていく谷間の百合
LE LYS DE CETTE VALÉE où elle croissait pour le ciel
(バルザック『谷間の百合』1836年)

脇道に逸れてばかりいますが、今回からは、ふたたび恋愛を巡る名句を紹介する……という本来の趣旨に戻ることにしましょう。
「花咲く乙女たち」という西条八十作詞の歌が、そのむかしありました。もとはといえば、プルースト『失われた時を求めて』の第2編『花咲く乙女たちのかげに』からヒントを得て創られたようですが、この歌のなかでは、街で見かける女性たちを花々に例えています。カトレアのように派手で、鈴蘭のように愛らしく、忘れな草のように気弱な目をしていると歌われると、いかにもそれらしく感じられます。女性を花に例えるとすると、若紫、夕顔、末摘花など『源氏物語』の世界も思い浮かびますが、フランス文学のなかであれば、やはり愛する女性を谷間に咲く清らかな白百合に見立てた『谷間の百合』でしょうか。
作者はオノレ・ド・バルザック Honoré de Balzac(l799−l850)。1799年トゥールに生れました。私の若い頃には、この地域はフランスでもっとも美しいフランス語が話されているといわれて、トゥールの外国人向けフランス語学校が人気でした。私もひと夏をトゥールで過ごしたことがあります。ただ、この街は第二次大戦の戦火で町の中心部が焼けてしまい、バルザックの生家は残っていません。その代わり、トゥール滞在中に、バルザックの短編小説『ざくろ屋敷』の舞台となった館を友人と訪れることができました。『バルザックとこだわりフランス』(2003年、恒星出版)という本があります。バルザックの作品とその舞台となった町や地域を、地図や写真を交えて紹介する便利なものですが、主として関西在住のバルザック研究者たちによるものなので、友人たちが執筆しています。「ざくろ屋敷」訪問記のなかには、私も同行者として登場します。ロワール河畔に立つざくろ屋敷は小さな建物でした。現在も住居として使われていて中には入れず、外から眺めただけですが、その所有者であるご主人の豪壮な館に招かれて、天井の高い広々とした応接間に通され、お茶とビスケットの歓待を受けたことを覚えています。
「画ニメ ざくろ屋敷」(深田晃司監督、2006年)というDVDがあります。画ニメというのは、細密なテンペラ画で書かれたアニメというようなもので、通常のアニメにはない重厚な雰囲気が伝わってきます。「病に侵された美しい母、何も知らずに遊ぶ2人の子供、今なおフランスの田舎に実在するざくろ屋敷での幸福な生活、少年は大人への階段をのぼろうとしていた」と物語は紹介されています。
また脇道に逸れましたが、バルザックの伝記に戻りましょう。彼は母親から愛されない不幸な少年時代を過ごしたと言われており、そのことがのちに「谷間の百合」のモデルである年上の女性への思慕となったようです。パリに出て、大学で法律を学ぶかたわら、法律事務所に書記見習いに入りますが、次第に文学に興味を持ち始め、やがてこの道で立つことを宣言します。種々の筆名を使って暗黒小説ばりの通俗小説を書いたりして、修業時代は長く続きます。
そんな彼に、「谷間の百合」との劇的な出会いが待っていました。23歳のときに生じた、22歳も年上のベルニー夫人との恋です。この初恋の女性は、10年ものあいだ、バルザックの天才を信じて、まだ無名であった彼を教育し励まし、「愛人」であると同時に「母親」代わりともなって、物心両面から彼を支え続けたのです。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

« Mon Nara » No 259, 2013年11-12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

三野博司(副会長)

フランスでぼくの好きな地方は …
Le pays de France que je préfère est …
(カミュ「シャールへの手紙」1947年)

アルジェリア生まれのカミュは、第2次大戦勃発後、1940年3月からパリでジャーナリストとして働きはじめ、その後一時帰国を経て、1943年11月以降パリに居を定めます。しかし、大都会の生活は肌に合わず、彼は早くから南仏に家をもちたいと願っていました。そこならまだしも、故郷の北アフリカに風土が似ているような気がしたのです。1947年には、友人で詩人のルネ・シャールに宛てて、「ところで、フランスでぼくの好きな地方は、あなたの住んでいるところ、より正確には、リュベロン山麓、リュール山、ローリス、ルールマランのあたりです。Or le pays de France que je préfère est le vôtre, et plus précisément le pied du Luberon, la montagne de Lure, Lauris, Lourmarin, etc」と書いています。シャールが住んでいたのは、リル=シュル=ラ=ソルグという小さな町で、私は2011年に訪れました。そのときのデッサンを掲げておきましょう。
シャールへの手紙を書いたあと、カミュは実際に別荘探しを行いますが、適当な物件を見つけることができませんでした。1958年9月になってようやく、彼は、シャールへの手紙で名前をあげているルールマランに念願の別荘を購入します。前年に受賞したノーベル文学賞の賞金が、その経済的余裕をもたらしたといわれています。閑静な環境にあるこの家で、1959年を通じて、彼は自伝的な長編小説『最初の人間』の執筆に専念することができました。しかし1960年1月4日、パリへ向かう途中、不慮の自動車事故が彼の命を奪います。享年46歳でした。ルーマランの別荘を購入してから、一年半も経っていませんでした。
ルールマランは、南仏エクサン=プロヴァンスの北40キロ、アヴィニョンの東70キロに位置する小さな村です。かつては、これらの町からバスの便がありましたが、今では車がないと行くことが困難です。村のはずれの墓地にはカミュが眠り、彼が購入した家には娘のカトリーヌさんが住んでいます。
私はルールマランを4度訪れました。最初は1980年7月、エクサン=プロヴァンスでひと月の研修を受けていたときです。案内所で路線バスの時刻を調べ、直通バスがないので途中で乗り換え、村に着いて、カミュの墓詣でを行いました。
2度目のルールマラン訪問は、1996年、トゥールーズ大学教授であったジャン・サロッキさん(私の博士論文の審査員でもありましたが)の夏の別荘に招かれたときです。サン=レミ=ド=プロヴァンスからサロッキさんの車で、ルールマランまで運んでもらいました。幸いこのときには、カミュの家を訪れて、応接間に案内され、娘のカトリーヌ・カミュさんと少し話すことができました。
三度目は2007年、ルールマランでのカミュ学会に出席したときです。獨協大学のフィリップ・ヴァネさんとエクサン=プロヴァンスで落ち合って、彼が運手する車に乗り込みました。挿絵はこのときに描いたものです。
そして四度目が、今年、2013年11月でした。エクサン=プロヴァンスで行われているカミュ学会に参加して、その仲間たちと一緒に、貸し切りバスに乗って訪れました。ルールマランの城館で開催されたカミュ生誕100年記念の講演会に出席すると、会場でカトリーヌ・カミュさんが私の姿を見つけて、自宅に来いと声をかけてくれました。ただ、バスの出発時刻が17時と決まっており、それを逃すとエクサン=プロヴァンスに戻る手立てがありません。残念ながら二度目のカミュ家訪問は断念することになりました。

名句の花束―フランス文学の庭から(29)

« Mon Nara » No 258、 2013年9-10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(29)

三野博司(副会長)

Au printemps、 Tipasa est habitée par les dieux
春になると、ティパサには神々が住まう
(カミュ『結婚』1939年)

2013年はカミュ生誕100年の年でもあります。誕生日は11月7日ですが、すでに『日経新聞』および『朝日新聞』から取材を受けて、これらの記事はそれぞれ2月6日、7月16日の朝刊に掲載されました。まず年初に日経新聞の記者から連絡があり、時間が許せば奈良まで話を聞きに行きますとのことでしたが、結局電話とメールによる取材だけでした。朝日新聞のほうは、6月末、36歳の若い記者が、若い頃に読んだという文庫本を何冊もかかえて、東京から奈良まで来てくれました。研究室で、相手の熱意ある質問に答えているあいだに、こちらも気合いが入って、気がつけば3時間ぶっとおしでカミュについてしゃべっていました。
という次第で、その3時間をここに再現するわけではないのですが、記念の年なのでカミュについて少し書きたいと思います。とはいえ、名句から入るのは、この場合には入り口が多すぎて迷ってしまいます。思案したあげく、デッサンを話のきっかけにすることにしました。掲げた絵は、アルジェリアの首都アルジェから西70キロに位置するローマの遺跡ティパサを描いたものです。初めて訪れたのは2009年秋でした。2度目は2012年です。これらについては、『流域』(青山社)第66号「青春の土地―ティパサ」、および第71号「モハメド・ハッダのアトリエ」に詳述していますので、ここでは割愛します。ちなみにMohammed Khadda(1930-1991)は、アルジェリアを代表する画家で、その寡婦であるナジェット・ハッダさんの歓待によって、私の2度目のアルジェ訪問は忘れがたいものとなりました。
実は『地球の歩き方』のアルジェリア編というのが1970年代には出版されていたようです。当時はアルジェリアには約5000人の日本人が住んでいましたが、1990年代のテロの横行によって、外国人居住者がどんどん脱出しました。各国大使館が続々と撤退するなか、日本大使館は踏みとどまりました。とはいえ、2000年初めには、アルジェリア在住日本人は500人にすぎなかったようです。2006年頃から次第に治安が安定するようになりましたが、それでもまだ観光客の訪れる国ではありません。日本語によるアルジェリアの観光案内書は存在せず、英語もしくは仏語の本が頼りです。
アルベール・カミュが生まれたのは1913年11月7日、当時フランス領だったアルジェリアのチュニジア国境に近いモンドヴィという小さな村です。父はアルベール誕生の翌年に勃発した第一次大戦に召集を受けて、マルヌの戦いで戦死します。以後は、アルジェの貧民街で母や祖母に育てられることになります。のちにカミュは「貧困は、なによりも、私にとってはけっして不幸なことではなかった。そこには光の富が溢れていたからだ」と述べています。アルジェは地中海に臨んだ町です。空から燦々と降りそそぐ陽光が、青い海へと溶けこんでいきます。夕暮れともなれば、カミュが愛した「緑色の空」から、やわらかな光が落ちてきて町を包みこむ。そうした自然の富が、少年カミュを育てたのです。
太陽を愛したカミュは、強い光はそれだけ暗い影を生み出すのだとも書いています。17歳で発症した結核との闘いが一生続き、彼はつねに死を見つめて生きました。25歳のときに、カミュはアルジェのシャルロ書店から第2エッセイ集である『結婚』を刊行しました。地中海的霊感あふれるこの作品の冒頭に置かれた「ティパサでの結婚」は、カミュにとっての聖地になった海辺の廃墟で繰り広げられる自然との婚礼をうたっています。その冒頭部分を掲げましょう。
Au printemps, Tipasa est habitée par les dieux et les dieux parlent dans le soleil et l’odeur des absinthes, la mer cuirassée d’argent, le ciel bleu écru, les ruines couvertes de fleurs et la lumière à gros bouillons dans les amats de pierres.
春になると、ティパサには神々が住み、神々は陽光やアブサンの匂いのなかで語る。海は銀の鎧をまとい、空はどこまでも青く、廃墟は花におおわれて、光は石の堆積のなかで煮えたぎっている。

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

« Mon Nara » No 257, 2013年7-8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。(3)
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

前号で、2011年12月ニューヨークの見知らぬ人から英語のメールが突然送られてきたと書きました。それは作家の草稿をあつかう業務を行っているA氏からのもので、「自分の顧客が『星の王子さま』のタイプ原稿を売りたいと言っている。箱根の「星の王子さまミュージアム」に話をもちかけたいと思うが、それについてあなたの助言をもらえないだろうか」、という内容でした。
「星の王子さまミュージアム」は、2002年以来TBSの経営下にあり、その担当者とはかねてから面識がありました。そこで私が仲立ちして、A氏とTBSの交渉が始まりましたが、結局金額の点で折り合いがつかず、この話は流れました。ただ、A氏とのやりとりによって、いくつかの興味深い情報を得ることができました。
拙著『「星の王子さま」事典』(大修館書店)にも書きましたが、『星の王子さま』には手書き原稿の他にタイプライター原稿が三つ残されています。そのうち一つはパリ国立図書館、もう一つはテキサス大学にあります。3番目は、現在の時点で行方不明です。そして、今回のニューヨークの業者からの話は、この3番目のもののようなのです。
このタイプ原稿は、寡婦となったコンスエロが所有していた一連の草稿・デッサン類のなかに含まれていたようです。そして、彼女が1979年に亡くなると、それらの遺産は、1986年ジュネーブで売却されました。その後、1989年ロンドンで競売にかけられたという記録があります。そしてさらに売却がおこなわれ、現在の所有者の手に渡ったと推定されます。
サン=テグジュペリは、手書き原稿にもとづいて三つのタイプ原稿を作らせ、そのうち二つを保管しておき(これがパリ版とテキサス版)、3番目を自分の仕事のため使用し、これをもとに加筆をおこなったらしいのです。A氏からは、この原稿の13頁におよぶ売り立て用カタログも送ってもらいました。それを検討すると、第21章の有名なキツネのことばは、タイプ原稿でこうなっています。
Ce qui est le plus important, c’est ce qui ne se voit pas.
いちばん大事なもの、それは見えないものなんだ。
そして、この部分に棒線が引かれて、抹消された文字の上の行間に、サン=テグジュペリの自筆で記された次の文を読み取ることができます。
« On ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。)
『星の王子さま』といえばだれもがすぐに思い浮かべるこの有名な句は、この3番目のタイプ原稿おいてはじめて、著者によって書き込まれたものだとわかります。
以上のことについては、より詳しい顛末を、フランス文学・文化の小冊子『流域』(青山社)第70号に書きました。すると、意外なところから反響があったのです。大江健三郎氏により、岩波書店の『図書』(2012年10月号)で、「短いがすぐに忘れがたいものとなるはずの指摘」として紹介されました。

名句の花束―フランス文学の庭から(27)

« Mon Nara » No 256、 2013年5-6月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(27)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。(2)
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

『星の王子さま』出版70周年を記念して、4月末に河出書房新社が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』を刊行したことは先号で書きましたが、フランスでは新しい伝記が出版されています。著者はルーマニア出身のヴィルジル・タナズ氏。小説家、劇作家、演出家であり、1996年には、彼の新演出による『星の王子さま』が話題になり、その後もパリを中心にして上演され続けています。DVDが出るとか、日本公演を企画しているとか、いろいろ情報は伝わってきますが、どちらも実現していません。ただ、Youtubeでは、舞台のごく一部を見ることができます。
このタナズ氏と知り合ったのは2007年12月、パリにあるサン=テグジュペリ権利継承者事務所でした。サン=テグジュペリの子孫であり所長であるオリヴィエ=ダゲ氏に紹介されて、しばらく話をしました。このときタナズ氏から彼が演出する『星の王子さま』の公演に招待され、翌日、レピュブリック広場から歩いてすぐのル・タンプル劇場へ出かけました。この魅力あふれる舞台の様子については、拙著『「星の王子さま」事典』(大修館書店)で紹介しています。
翌2008年11月、モンパルナスのカフェでタナズ氏と再会したとき、彼はカミュの伝記を準備中であると教えてくれました。そしてこう言い添えたのです。「これで私たちを結びつける絆がもう一つできましたね」と。彼がルーマニア時代にカミュの戯曲『戒厳令』を母国語に訳したことは知っていましたが、伝記執筆の件は初耳でした。本が完成して、カミュ没後60周年の2010年に刊行されると、タナズ氏からは手書きの献呈本が送られてきました。
Pour Hiroshi Mino、 avec la même affection、 au nom de votre admiration pour Camus qui nous lie、 je l’espère、 un peu plus、 un peu mieux. (三野博司に。変わらぬ愛情をこめて、カミュに対するあなたの賛嘆の名において。その賛嘆が私たちをいっそう強くいっそう堅く結びつけることを希望しつつ。)
以後、彼はカミュ関連のシンポジウムやテレビ番組にも出演するようになります。同時に、伝記執筆に力を注ぎ、ガリマール社のフォリオビオグラフィのシリーズからすでに、チェーホフ、カミュ、ドストエフスキーが刊行されて、初めの二冊は祥伝社から日本語訳も出ています。
そして、今回送られてきたのはサン=テグジュペリの伝記です。これにも、手書きの献辞が添えられていました。
Pour Mino Hiroshi、 avec la même admiration、 avec la même amitié、 pour les souvenirs de tout ce qu’il a fait pour notre Saint-Exupéry. (三野博司に。私たちのサン=テグジュペリに対して彼がなしたすべて仕事の思い出に、変わらぬ賛嘆と、変わらぬ友情をこめて)。
ところで、この本の裏表紙には、次の句が掲げられています。
Voici mon secret. Il est très simple : on ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux. これがおれの秘密なんだ。とてもかんたんなんだよ。心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。
『星の王子さま』のなかでも一番よく知られている句です。第21章、キツネが王子さまに言うことばのなかにあります。ところで、この句については、2011年12月、ニューヨークの見知らぬ人から突然メールが送られてきて、いくどかのメールのやりとりの結果、ひとつの「発見」をすることになります。それについては次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

« Mon Nara » No 255, 2013年3-4月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

今年は『星の王子さま』出版70周年となります。すでにあちこちに書きましたが、まずはその出版いたる経緯をかんたんに紹介します。
第二次大戦がはじまるとサン=テグジュペリはアメリカに亡命することになります。船でニューヨークに到着したのは1940年12月31日の大晦日です。滞在はこのあと二年以上に及びましたが、アメリカ嫌いの彼にとっては、ニューヨークでの生活は不満の多いものでした。そんな状況で、1942夏『星の王子さま』の執筆が開始されました。それまで彼は、手紙や本の献辞を記したページ、数式の間、レストランのテーブルクロスに、王子さまとおぼしき少年の絵をいたずら書きのように描いていました。友人の編集者たちは、その少年を主人公にして「子ども向けの本」を書けば、サン=テグジュペリの気も紛れるのではないかと思って執筆を提案したのです。 こうして1943年4月6日、ニューヨークのレイナル&ヒッチコック社から『星の王子さま』が刊行されることになりました。ただし、この日に出たのはキャサリン・ウッドによる英訳本で、フランス語版も時をおかずに売り出されたのですが、こちらは正確な日付はわかっていません。
サン=テグジュペリは、1929年の『南方郵便機』を皮切りに、以後1931年『夜間飛行』、1939年『人間の大地』を、それぞれガリマール社から刊行しました。実は1929年、彼は将来にわたる作品はすべて同社から出版するという契約を結んでいたのです。ところが第二次大戦勃発後、アメリカに渡った彼は、『戦う操縦士』と『星の王子さま』をレイナル&ヒッチコック社から刊行し、このときその版権をこのアメリカの出版社に与えてしまいます。そのため、戦後になってガリマール社とのあいだに版権をめぐっての訴訟がもちあがりました。このもめごとを調停する役を果たしたのが、カミュでした。戦後ガリマール社の人気作家となった彼は、1946年アメリカに講演旅行に招待されます。このとき、ガリマール家の友人たちから版権問題を解決するための任務もまた託されていたのです。
現在のフランス語版を出版しているのはガリマール社ですが、フランスでの刊行は第二次大戦後、1946年4月のことです。2006年はその60周年ということで、数々の催しものや出版の企画があいつぎました。今年の70周年は、アメリカでの出版を記念する年ということですが、それでも初版の記念ということで、フランスでもお祝いの行事が開催されます。
ちょうど私のところに、サン=テグジュペリの子孫であるオリビエ・ダゲ氏が代表を務める 「サン=テグジュペリ権利継承者事務所」から封書がとどきました。『星の王子さま』刊行70周年を記念する行事への招待状です。4月9日20時からカクテルおよび夕食パーティ、10日には展覧会、11日には、スジリエ、ラクロワ、タナズといったおなじみのメンバーによるシンポジウム。3日間にわたる催しです。残念ながら、新学期早々にパリへ飛ぶこともできず、この招待に対しては欠席の返事を、ダゲおよびラクロワ宛てにメールで出すことになりました。この祝祭の様子については、いずれ『星の王子さま』公式HPに紹介されるでしょうから、それを待ちたいと思います。
日本でも、4月末に河出書房新社が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』と題した170頁ほどの本を出版します。私を含む10数名の執筆陣が、さまざまな角度から『星の王子さま』とその作者について、新たな光をあてる予定です。ちなみに拙稿のタイトルは「飛ぶ男と住む女-サン=テグジュペリの世界」で、12頁のエッセイです。(以下次号)

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