名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(19)

« Mon Nara » No 248, 2012年1- 2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(19)

三野博司(副会長)

Faites attention aux baobabs !
バオバブに気をつけなさい !
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

「3・11」以後、震災をめぐって、ヴォルテールとカミュを取り上げましたが、最後にもう一つ『星の王子さま』について書きたいと思います。この物語が震災に直接かかわるというのではありません。しかし、もともと象徴的意味合いの強い作品ですから、作者のメッセージの射程は広く、人間の災厄についての考察にまで及んでいます。
『星の王子さま』公式サイト(http://www.lepetitprince.com/ フランス語版ですが英語版に切り替えも可)では、2011年3月25日、「王子さまは日本のために泣いている」という見出しで、大きな絵と文が掲載されました。王子さまが自分の星の上に立っているおなじみの絵なのですが、ここではその星が赤く塗りつぶされて、日の丸に見えます。そこに付されたメッセージを日本語に訳して紹介しましょう。
「日本と『星の王子さま』とはとても強い絆で結ばれている。30種もの日本語訳があり、もっとも私たちに身近な存在である三野博司をはじめとして多くの研究者が『星の王子さま』やサン=テグジュペリにたいして著作をささげ、箱根には「星の王子さまミュージアム」があり、最近では寄居パーキングエリアに星の王子さまをテーマとした施設が開設された。日本では『星の王子さま』の世界はしばしば宮崎駿の作品世界と比較されるが、彼はガリマール社が刊行した『サン=テグジュペリ、デッサン集成』に序文を寄せている。[……]だからこそ、星の王子さまの友である私たちは、かくも身近なこの国の不幸に心を痛めているのだ」
私はこのサイトの管理者であるシルバン・ルコワントに会ったことがあり、また自分の名前が出されているからには、これに応答すべきだと考えて、感謝の返事を送りました。以下は、4月13日、「星の王子さま」公式サイトに掲載された仏文の日本語訳です。
「はげましのメッセージをありがとう。私たちは王子さまを泣かせてしまった。古来私たちの列島は幾度も自然災害に襲われており、そうした事態は目新しいものではないとはいえ、この災禍はその前例のない規模の大きさで私たちを震撼させるものだ。しかも今回は、人類が産み出し、統御できない核の炎が問題をいっそう困難にしてしまった。『星の王子さま』の作者は、1945年に日本の2つの都市の上空で炸裂した原子爆弾のことは知らなかった。しかし、その2年前、彼は遺書となった書物のなかでこう書いたのだ。<ところで王子さまの星には恐ろしい種があった。それはバオバブの種だった。星の土壌には種がはびこってしまった>。私たちは、自分たちの列島や地球が放射能によって汚染されないことを望みたい。だからこそ、もう一度、王子さまのことばを想起しなければならないのだ。<バオバブに気をつけなさい!>」
バオバブの話は第5章に出てきます。王子さまは語り手にこう言うのです。「たった一本のバオバブでも、手当てが遅れると、もう根絶することはできない。星全体をふさいでしまう。その根で、星に穴をあけてしまう。そして、もし星がとても小さくて、バオバブの数があまりにも多いときには、星を破裂させてしまうんだ」。バオバブによって破裂する星は、もちろん地球を連想させます。サン=テグジュペリは核戦争までを予想したわけではないにしても、第二次大戦中に書かれたこの物語のなかのバオバブは地球的規模の戦争を暗示しているでしょう。このあと、王子さまは、毎日きちんと仕事をして、バオバブの芽を小さいうちに摘み取っておくことがたいせつなんだと語ります。その助言を受けて、語り手はバオバブの絵を描いて、読者である子どもたちに向かってこう呼びかけるのです。「子どもたちよ! バオバブに気をつけなさい! Enfants ! Faites attention aux baobabs !」

 

名句の花束―フランス文学の庭から(18)

« Mon Nara » No 247, 2011年11- 12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(18)

三野博司(副会長)

L’essentiel est de bien faire son métier
いちばんたいせつなことは自分の務めを果たすことだ (2)
(カミュ『ペスト』1947年)

「名句の花束」(2)および(3)において紹介した『シーシュポスの神話』は、「幸福なシーシュポスを思い描かねばならない」という句によって結ばれていました。しかし、たとえシーシュポスがみずからの反抗を通じて幸福を獲得したとしても、それは彼ひとりだけのものであり、孤独な幸福にとどまっています。『ペスト』において、カミュはそこから一歩を踏み出すのです。1942年、ナチス・ドイツ占領下のパリで『異邦人』と『シーシュポスの神話』が刊行され、29歳のカミュは一躍文壇に名が知られるようになりますが、このとき、彼はすでにペストを主題とした小説の構想をあたためていたのです。
その3年後、レジスタンスの体験を経て、1945年に発表された『反抗に関する考察』において、カミュは、反抗の動きは個人的運命を越え人間の連帯へと達するものであり、そのとき「これまで、たったひとりの人間が感じていた悪が集団的ペストとなる」と書いています。やがて完成される小説のなかに、集団的ペストとなった悪にたいする堅忍不抜の反抗と、この反抗を通じて獲得された人間の連帯が描かれることになります。
一九四六年八月、『ペスト』が完成し、翌四七年六月に刊行されるとベストセラーとなり、批評家賞を受賞しました。この病疫に襲われた町の物語において、構想段階からペストは戦争のアレゴリとしてあらわれていました。ナチズムは当時「褐色のペスト peste brune」と呼ばれていたのです。のちにカミュ自身が、この物語は「ナチズムにたいするヨーロッパの抵抗の闘いを明白な内容としている」と述べています。だが、それだけではありません。これはあらゆる専制政治に対するレジスタンスの物語であり、人間を襲うすべての災禍と悪に対する不撓不屈の闘争の物語なのです。
『ペスト』が提示しているのは、平時ではなく戦時のモラルです。人類が巨大な災禍と闘うとき、どのようなモラルが可能なのか、その思考実験の作品であるということもできます。そのモラルは、主としてこの物語の語り手でもある医師リユーによって体現されますが、彼自身は、新聞記者ランベール、社会運動家タルー、神父パヌルーといった人物たちとの対話を通じて、自分の立場を確認していくのです。
名句として掲げたのは、全五部から成るこの小説の第一部第四章、アルジェリアの町オランにペストが蔓延しはじめる時期におけるリユーのことばです。これからの困難な闘いにたいする心構えの表明であると言えます。
同じ内容のことばを、リユーはもう一度、第二部第九章において、今度はランベールを前にして言うことになります。この2人の対話では、個人の幸福と集団への責務のどちらが優先されるのかが問われています。オランの町から抜け出してパリの恋人のもとに戻ろうと執拗な試みを続けるランベールは、ヒロイズムを信じないと言います。それに対してリユーは、彼らが力を合わせて、生命の危険を冒してペストと闘うのは、ヒロイズムとは関わりのないことだ応じます。
リユーによれば、「ペストと闘う唯一の方法、それは誠実さ la seule façon de lutter contre la peste, c’est l’honnêteté」であり、彼の場合には「誠実さとは自分の務めを果たすことだ elle consiste à faire mon métier)」と述べるのです。
このあと、ランベールは、町から脱出する手立てを見つけるまで、リユーたちと一緒に保健隊で働くことを申し出ることになります。彼もまた自分の果たすべき務めを発見したのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(17)

« Mon Nara » No 246, 2011年9 – 10月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(17)

三野博司(副会長)

L’essentiel est de bien faire son métier
いちばんたいせつなのは自分の務めを果たすことだ (1)
(カミュ『ペスト』1947年)

3月11日の震災の直後、まず頭に浮かんだのは、カミュが『ペスト』において描いた災厄との闘いでした。
地震のあと、その報道はただちにフランスにも伝わり、国際カミュ学会会長のアニェス・スピケルさんを始めとして、10名を越える理事会のメンバーから、日本カミュ研究会に所属する仲間たちの身を案ずるメールが次々と届きました。始めの時点では仙台在住の会員との連絡が取れなかったのですが、そのひとりを除いてひとまず他の全員の無事が確認できた時点で、私は理事会に宛ててその旨を伝える短い報告を送り、同時に、この非常時にあって『ペスト』のなかの一つのことばを思い出すと書き添えました。それは病疫の災禍のなかで、医師リユーが発する「いちばんたいせつなことは自分の務めを果たすことだ」ということばです。あまりにも単純ですが、単純であるだけに力強いメッセージとなりうる、そうした類のことばであるように思われたのです。
ところで、震災直後にカミュの『ペスト』のことを考えた人は、他にも大勢いました。
辺見庸氏は3月16日、共同通信を通じて全国の新聞に配信されている「水の透視画法」で、「非情無比にして荘厳なもの」と題して震災による日常の崩壊を語っています。そこで、カミュが『ペスト』において医師リユーに語らせたモラル、すなわちこの世に生きる不条理はどうあっても避けられないが、それでもなおひたすら誠実であることのかけがえのなさを取り上げて、これは「あきれるばかりに単純な命題」であるが、「いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である」と述べました。(『水の透視画法』共同通信社、2011年6月に再録)
鹿島茂氏は、3月23日『毎日新聞』東京版の朝刊において、3・11以前の日本はサルトルの『嘔吐』の世界であったが、いまや際限なく続く敗北であることを知りながら闘うことをやめない『ペスト』のリユーのことばをこそ、人々は理解するだろうと指摘しています。
また吉川一義氏は岩波文庫版『失われた時を求めて』第2巻の「訳者あとがき」(2011年3月某日)で、「このような惨事を生き延びるには、当座はカミュの『ペスト』のような連帯の文学が必要とされるのかもしれない。連帯と希望がなくては、生きていけないからである」と記しています。
さらに、竹森俊平氏は5月25日発行の『日本経済復活まで、大震災からの実感と提言』(中央公論社)のなかで、震災直後に『ペスト』を読み返したときの感想として、「(カミュは)日本が経験しているような悲劇の巨大さを、あますところなく伝えることのできる、唯一の作家ではないだろうか」と述べて、この小説に示されたカミュの洞察の「あまりの鋭さ、仮借なさに感服し、たじろいでしまう」と述懐しています。
だが、それだけではありませんでした。インターネットの個人のブログで、カミュの『ペスト』について書いている人が、ずいぶんと大勢いたのです。だれもが、壊滅的被害のなかでの悲惨と混乱を前にして、カミュが主人公リュウに託したメッセージを真にリアルなものとして受けとめていました。
かつてカミュのモラルは、フランスにおいて「赤十字のモラル」と揶揄する人もありました。しかし、このモラルは第二次大戦という人類にとっての非常事態において生まれ、鍛え抜かれたものなのです。繁栄を謳歌し、浮かれ騒いでいる時代にはこのモラルは微温的で、物足りないものと目に映るでしょう。しかし、いまや戦時のモラルこそが必要なのではないでしょうか。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(16)

« Mon Nara » No 245, 2011年7 – 8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(16)

三野博司(副会長)

Quel crime, quelle faute ont commis ces enfants
この子たちがどんな罪を、どんな過ちをおかしたというのか
(ヴォルテール「リスボンの災厄についての詩」序 1756年)

1755年のリスボン大地震が、4年後に発表された『カンディード』執筆動機の一つであったと前回述べました。しかし、それよりいち早く、ヴォルテールは、地震を知ってすぐに一篇の詩を書いて、「この世はすべて最善のものとして作られている」とするライプニッツ流の楽天主義に不信を抱き、神の摂理に対して疑問を投げかけます。それが地震の翌年1756年3月に発表された「リスボンの災厄についての詩 Poème sur le désastre de Lisbonne」です。
詩の冒頭から、ヴォルテールは「すべては善である Tout est bien」と叫ぶ人々を攻撃し、そうした態度を愚かで、臆病な自己満足だと批判します。「<すべては善である>という語を厳密な意味で、しかも未来の希望もなく把握すると、これはわれわれの人生の苦しみに対する侮辱にほかならない……」。神が自由で、正義を行い、慈悲に満ちているなら、そうした公正な支配者のもとにあって、どうして私たちが苦しむことになるのか。そして伝え聞いたリスボン大地震の惨状について、こう問いかけるのです。
「この子たちがどんな罪を、どんな過ちをおかしたというのか
(Quel crime, quelle faute ont commis ces enfants)
母の胸の中で押しつぶされ血まみれのこの子たちが、今はなきリスボンが、
歓楽におぼれるロンドンやパリにもまさる悪徳の巷であったというのか」
こうして、ヴォルテールは従来の楽天主義を捨てて、すべては悪であるという立場を採用するに至ります。
他方で、この詩篇を読んだルソーは、1756年8月、「ヴォルテール氏への手紙」において、逆に摂理を擁護する立場を明らかにします。彼は、被害の原因のほとんどは、都市の構造や、住まい方、そして市民の貪欲さにあると述べるのです。人間社会の悪を産み出したのは人間自身であると『人間不平等起源論』以来の彼の持論を展開します。
「私は、大部分の物質的な悪はやはり私たちの産物であることを証明したと思っています。リスボンに関するあなたの主題から離れずに言えば、たとえば、自然のほうからすれば、なにもそこに6階や7階建ての家を2万軒も集合させることはまったくなかったことを考えてみてください」
すなわち、彼は大都市に人が密集するから惨禍がひどくなるのだと、反都市=反文明の立場から反駁します。第1回目の地震のときに全住民が安全な場所に逃げ出していたなら、被害ははるかに少なかっただろう。しかし、人々は自分の財産や持ち物に執着して、その場を離れなかった。
「この大震災で、ある者は服、他の者は書類を、別の者は金を、持ちだしたいがために、どれほど多くの人々が不幸にも命を失ったことでしょうか」
のちになって、ルソーは自伝『告白』のなかにおいても、「ヴォルテールへの手紙」について触れています。そこで彼は、ヴォルテールのような栄光と幸福に包まれた人間が、自分自身は災厄をまぬがれているのに、その災厄の恐ろしい光景を描き出して、神は人に害を与えることだけを楽しみにしているなどと主張するのはいかにも不条理だと書いています。他方で不幸な境遇にある自分は、人間のあらゆる不幸を吟味して、公平に検討したと、ルソーは言うのです。
「あらゆる不幸のうちで、神の摂理に罪があるような不幸は一つもなく、不幸の源は自然そのもののなかにあるよりは、人間がその能力を乱用したことにある」
このことばに従えば、原子力もまた人間の能力の乱用の結果だということになるでしょう。
ヴォルテールとルソー、18世紀のフランス思想における2人の巨人が、こうしてリスボン大震災に対する態度によっても、その相違を際立たせ、このあと両者は決定的な対立関係に入るのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(15)

« Mon Nara » No 244, 2011年5 – 6月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(15)

三野博司(副会長)

Car tout est bien.
なぜならすべては善であるからだ
(ヴォルテール『カンディード』 1759年)

ジロドゥー、スタンダール、ラシーヌ……と、恋にまつわる名句を取り上げてきましたが、今回はしばし中断して、ふたたびヴォルテール『カンディード』の登場です。「名句の花束」第2回において、「Il faut cultiver notre jardin. 私たちの庭を耕さなくてはなりません」という、この哲学コントを締めくくる句を取り上げました。 1759年に発表されたこの作品は、全30章からなる青年カンディードとその家庭教師パングロスによる世界遍歴の物語ですが、第5章の冒頭で、2人がポルトガルのリスボンに上陸する場面があります。船が沈没し、一枚の板にすがり、ようやく浜辺にたどり着いたあと、2人はリスボンをめざして歩きます。ところが……
「2人が町に足を踏み入れると、たちまち足元で大地が揺れるのを感じた。港の海水はあわだって高く盛り上がり、停泊中の船を砕いた。火焔と灰の渦が町の通りや広場を覆いつくし、家々は崩れ落ち、屋根は建物の土台にまで落下し、土台は散乱し、3万人の老若男女の住民が廃墟の下敷きになって押し潰された」
これが、歴史上名高い1755年11月1日のリスボン大地震の描写です。地震の少ないヨーロッパで起ったこの事件は、フランスを始めとする諸国にも大きな衝撃を与えました。ヴォルテールは、当時の雑誌や書籍からの情報に基づいて、この場面を書いたと言われています。
11月1日はカトリックでは諸聖人の祝日であり、この日の朝9時40分、ミサの最中に突如地震が発生しました。これにより基盤がもろくなった建物は、続いて起こった第2の揺れによってたちまち瓦解してしまい、狭い路地も塞がれて、多数の犠牲者を出すことになります。
地震のあとは津波でした。約40分後には高さ6メートルの大津波がリスボンを襲います。入り江は奥にいくほど水深が浅く、水面幅が狭くなるため、そこに入り込んだ津波はいっそう勢いを増大することが知られています。リスボンの街もまた、大西洋に注ぐテージョ川河口から入江状に約12キロメートル入り込んだ場所にあり、そのため津波は大きく高くなったのです。津波は町を2回襲い、死者の数は1万人に上ったといわれます。
さらに大火災が追い打ちをかけます。リスボンの町の至るところで火の手があがり、3日間燃え続け、リスボンは焼き尽くされました。
ヴォルテールは『カンディード』において、死者3万人と書いていますが、別の記録ではリスボンの人口27万5,000人のうち1/3の最大9万人が死亡したと報告されています。敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜカトリックの祝祭日のミサの最中に大地震の直撃を受けて、多くの聖堂もろとも破壊されたのか? この出来事は、当時の多くのヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い衝撃を与えたのです。
ヴォルテールもまた、この世は神の摂理によって最善のものとして作られていると考えるライプニッツ流の楽天主義に対して、不信を抱くようになります。そうして書かれたのが『カンディードまたは最善説』です。
物語の先をたどりましょう。先ほどの地震の描写のあと、翌日2人は瓦礫のなかに潜り込んで食糧を見つけ、体力を回復します。そして、ここでも「この世のすべては最善の状態にある」と信じる家庭教師パングロスは、瓦礫に埋もれてたたずむ被災者たちを見て、事態はそれ以外にはありえないのだと言います。
「なぜならば、こうしたことはどれも最善であるからだ。なぜなら、リスボンに火山があるのは、その火山はほかの地には存在しえなかったからだ。なぜなら、事物が現にいまあるところに存在しないなどということは、ありえないないから。なぜならすべては善であるからだ。Car tout est bien.」
もちろん、このパングロスのことばは、震災と津波の甚大な被害を前にして空疎に響きます。『カンディード』は、そうした楽天的世界観を風刺した小説なのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(14)

« Mon Nara » No 243、 2011年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(14)

三野博司(副会長)

Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く (2)
(ラシーヌ『アンドロマック』 1667年)

幕があがると、そこはピリュスの宮殿の一室です。17世紀古典劇においては、悲劇の舞台は王侯貴族の宮殿の一室、喜劇はブルジョワ(市民)の屋敷の一室と決まっており、全5幕を通じて舞台転換はありません。これを場所の単一(unité)と言いますが、他にも時の単一(舞台上で起こる出来事は1日24時間以内)、筋の単一(物語の筋は一本で簡潔)があり、合わせて三つの単一の決まり事がありました。こうした厳しい制約のもとで、次々と傑作が書かれたのです。芸術における形式と内容の微妙なバランスの問題がここにあります。
『アンドロマック』の人物関係をまず整理しておくと、卜ロイ戦争で討ち死にしたエクトールの妻アンドロマックは、息子と共にピリュスのもとにとらわれの身となっています。彼女の愛の対象は亡き夫であり、そして夫の忘れ形見アスチヤナックスです。恋の情念の向かう先を矢印で示すと、(アンドロマック→エクトール=アスチヤナックス)となります。
他方でピリュスは、スパルタの王女エルミオーヌと婚約中であるにもかかわらず、美しい虜囚であるアンドロックに恋心を寄せています。(ピリュス→アンドロマック)。エルミオーヌはピリュスへの愛を抱きつづけますが(エルミオーヌ→ピリュス)、婚約者の不実に気づき始めています。幕が上がり、エクトールの子の引き渡しを求めてギリシア側から派遣されたオレストが登場しますが、実は、彼は愛するエルミオーヌの奪還を企んでいます(オレスト→エルミオーヌ)。
ここまでをまとめて示すと次のようになります。
オレスト→エルミオーヌ→ピリュス→アンドロマック→アスチヤナックス(エクトール)
おわかりのように、みごとな「片思い」の連鎖であり、これでは誰もが絶対幸せにはなれません。悲劇的結末は不可避なのです。
ピリュスは、自分との結婚を受け入れるようにアンドロマックに迫り、承諾しないならばアスチヤナックスをギリシアに引き渡すと脅します。アンドロマックは、「埋葬の儀礼もなされずに不名誉にも/祖国卜ロイの城壁のまわりを引きずりまわされたエクトールのことが忘れられようか?」(3幕)と悩むことになります。追いつめられたアンドロマックが選んだ解決策は、息子を救うために亡き夫への愛を一時的に裏切ること、そしてピリュスとの婚礼のあと自害することでした。こうして、アンドロマックは貞潔を守るために死へと向かい、ピリュスはオレストに殺され、オレストは狂気に陥り、エルミオーヌはみずからを刺して果てることになります。
これらの出来事が、わずか1日のうちに展開します。舞台上で起こる出来事は、太陽が一巡りする時間、すなわち1日24時間を越えてはならないという約束事に従うためです。そのために必要なことは、幕が上がったときに、登場人物たちの白熱した情念が最高度に達していることなのです。閉じられた空間に可燃物質の気体が充満していて、そこへわずかな火花が飛ぶと、たちまち大爆発を起こしてしまう、そういった状態にたとえてもいいでしょう。先ほどの「片思いの連鎖」は、すでにコップに満たされた水のように張りつめていて、あと一滴注がれると、たちまち溢れ出てしまいます。幕があがると、オレストがピリュスの館に到着したところです。これがきっかけとなって、物語は悲劇の結末へと向かって、なだれをうって展開して行くのです。
さて、名句ですが、これは第1幕4場、ピリュスの台詞です。
戦いに敗れ、鉄の鎖につながれて、悔やむ思いにやつれはて、
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く
Vaincu, chargé de fers, de regrets consumé,
Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
トロイ戦争で武勲をたてたピリュスですが、いま彼が苦闘しているのは恋の戦場であり、これはさしもの勇者とて、思うにまかせません。かつて自分がトロイで放った炎よりも、いっそう烈しく燃えさかる恋の情念に身を焦がすことになります。この炎(feux)とは、トロイ落城の火焔であると同時に身を焼くほむらであり、このように本来の意味と比喩的な意味を重ねて用いる「兼用語法Syllepse」の典型例として、この句は知られています。

名句の花束―フランス文学の庭から(13)

« Mon Nara » No 242, 2011年1‐2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(13)

三野博司(副会長)

Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く
(ラシーヌ『アンドロマック』 1667年)

身を焦がすほどに燃えさかる恋の情念のほむら、みずからの力では制御できない奔馬のごとき愛の衝動、それらを描いて一級品なのはラシーヌの悲劇でしょう。しかも、本来ことばにならないような感情を、すべて登場人物の「せりふ」だけで表現してしまうところがすごいです。演劇とは元来が総合芸術であって、付随音楽や効果音、照明の変化、舞台美術や小道具といった多様な表現手段を総動員して成り立っているものですが、フランス古典劇は基本的にはせりふだけ、役者の肉体が発するせりふだけに拠っています。
17世紀のフランスは、言語によって世界のすべてが表象できると確信するに至った時代なのです。このことは、ますます精緻になるヴァーチャルな映像の時代に生きている私たちには理解しがたいことかもしれません。手軽な映像が奔流のように溢れる時代には、ことばというものが本来的に有している爆発的な力は見えにくくなってしまっています。
当時のラシーヌ劇の観客たちは、舞台で俳優が発するせりふを聴くだけで、今日の3D映像が与えるよりも遙かに臨場感あふれる感動に身を震わせていた……と想像することができるでしょう。
というわけで、そのせりふ、すなわち台本を味読しましょう。
ジャン・ラシーヌJean Racine (l639-99) が生まれたのは、17世紀ルイ13世の御代です。1歳のとき母を亡くし、下級官吏だった父をも3歳のときに失い孤児となります。10歳からポール=ロワイヤル修道院付属の「小さな学校」で厳しい教育を受け、そこで古代ギリシア語や文学の魅力に目を開かれました。
1667年に上演された第3作目の悲劇『アンドロマック』が大成功を収め、劇作家としての名声が一気に高まります。この主役を演じたのがモリエール一座の名花で、コルネイユもモリエールも恋したといわれる女優マルキーズ・デュ・パルクです。ラシーヌは、彼女をモリエール一座から引き抜き、自分の作品に抜擢したのですが、当然この件によりモリエールとは不仲となりました。
このあたりの話は、ソフィー・マルソー主演の映画『女優マルキーズ』に描かれています。私の「フランス言語文化史概論」という名のフランス文学史を講じる授業は、近年ではまず4月の始めにこの映画の一部を見せることから始まります。
17世紀フランス、モリエールはパリで劇団を立ち上げたものの客入りが悪く、債権者に追われ、一座を引き連れて地方巡業に出かけます。この旅回りは1645年から13年も続くのですが、この修業がモリエール自身と劇団を成長させることになります。映画は、この一座がリヨンを訪れたところから始まります。貧民街に生まれた美しいマルキーズは、街頭で踊って日銭をかせぐ毎日でしたが、モリエール劇団によって見いだされます。幸いに劇団の看板役者グロ・ムネに求婚され、彼女は一座に加えられるのです。1658年モリエールは座長として一座を引き連れ勇躍パリに帰還し、ルーヴル宮殿のルイ14世の前で公演を許されますが、そこにはマルキーズも参加していました。この宮廷で、彼女は新進劇作家のラシーヌと出会うことになります。彼は、夫グロ・ムネの死の機会に乗じて、モリエール劇団の花形女優であったマルキーズを、自作『アンドロマック』に主演させたのです。
アンドロマック(アンドロマケー)とは、トロイ戦争で非業の死を遂げたトロイの英雄ヘクトール(エクトール)の妻の名です。すでに「名句の花束」では、ジロドゥー『トロイ戦争は起こらないだろう』を取り上げたときに、この古代ギリシアの有名な戦いに触れました。ジロドゥーにおいては戦争が始まるまでの交渉と駆け引きがドラマの主筋でしたが、ラシーヌでは戦争の後日譚が展開されます。すなわち戦争に生き残った勝者と敗者の物語なのです。フランス古典劇の伝統に従って舞台は全5幕を通じて変わらず、ギリシア軍の英雄のひとりであったアキレイウスの子ピリュスの宮殿の一室です。この宮殿に、敗軍の亡き戦士の妻であるアンドロマックが美しき囚われ人となっています。そして幕が上がると……詳細は次回に。

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

« Mon Nara » No 241, 2010年11‐12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (2)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

パリに戻ったスタンダールは、1822年『恋愛論De l’Amour』を発表しますが、11年間で17冊しか売れなかったと言われています。それではと、1833年にこんどは表紙を変えて第2版として出しましたが、やはりまったく反応がなかったようです。「この本は神聖なんですかね。誰も相手にしませんよ」と言った出版人のことばを、スタンダールが伝記のなかに記しています。
たしかに神聖だったのかもしれません。この著作の第1章で、スタンダールは恋愛を4種類に分けています。「1、情熱恋愛。2、趣味恋愛。3、肉体恋愛。4、虚栄恋愛」ですが、彼が一番上位に置いたのが、情熱恋愛であることは言うまでもありません。そして、他の三つの恋愛がいかにつまらないかを力説するために、エネルギーを投入するのです。
いよいよ第2章、有名な恋の生成過程を語る箇所があらわれます。
「恋の7つの時期をもう一度要約しよう。1.感嘆。2.(あの人に接吻し、接吻されたらどんなにうれしいだろう云々。)3.希望。4.恋が生まれた。5.最初の結晶作用。6.疑惑があらわれる。7.第2の結晶作用」
ここで、二度にわたってあらわれる「結晶作用cristallisation」について、スタンダールは次のように解説しています。
「ザルツブルクの塩坑で、冬に葉の散った木の1本の小枝を廃坑の奥に投げ込む。2、3か月後に取り出してみると、枝はきらきらした結晶でおおわれている。一番小さな枝、せいぜい四十雀の脚ほどしかない枝までが、ゆれてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はもうわからない」
ザルツブルクはオーストリアの町。モーツアルトの生まれた町であり、毎年夏には有名な音楽祭が開催されます。モーツアルティアン憧れの聖地ですが、私はかつて6月に一度訪れただけです。ミラベル宮殿での小さなコンサートが印象的でした。またここは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった町でもあります。私が訪れたときは、「サウンド・オブ・ミュージック」ツアーなるものに参加して、映画の舞台となった場所をミニ・バスで巡る企画があり、それも楽しいものでした。
Salzburg は、その名の通り「塩 Salz」の「町 Burg」であり、塩坑が近くにあります。かつて海底にあったアルプスが隆起して地上に現れたあと、閉じこめらた海水が蒸発して塩分が地中に蓄積され、それを採掘するために坑道が掘られました。第二次大戦中、ヒトラーはフランスの美術館などから収奪した多くの名画を、この坑道に秘匿しました。温度と湿度が美術品の保管に理想的だったといいます。
ところで、塩坑は恋の思いを育むにも理想的なのかもしれません。相手が目の前にいないときに、目の前にいないからこそ心の中でいくらでも美しく飾り立てることができます。塩の粒にすぎないものが、ダイヤモンドのようなきらめきとなって、恋の想念にまとわりついて、それをまばゆいばかりのイメージに仕立てあげます。これにはもちろん想像力の助けが必要です。さらにこの結晶作用は1度ならず、2度必要です。スタンダールは「疑惑があらわれる」と書いています。結晶作用が1度で完成してしまう幸せな人もいるのかもしれませんが、多くの場合疑惑は避けられません。ところが、その疑惑はさらに強い結晶作用を呼び起こすのです。こうして恋の想念は次第に強固なものとなっていきます。
しかし、スタンダールは恋に破れました。結晶作用はかならずしも恋を成就させる魔法の杖ではなかったのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

« Mon Nara » No 240, 2010年9‐10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (1)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

『恋愛論』などというタイトルの本を書くのは恋愛に失敗した者だけだ、というのが通説ですが、その代表格はスタンダールかもしれません。「愛の結晶作用」というなにやら神秘的響きさえもつ言葉で知られるこの著作は、作者の若き日の失恋体験から生まれました。
本名はアンリ・ベールHenri Beyle。1783年、アルプス山麓の町、グルノーブルに生れました。グルノーブルはスタンダール生誕の町として知られ、4つある大学の一つ(文学系の学部)はスタンダール大学と呼ばれています。3年前、日仏の大学長が集結して大学教育について討議する「日仏高等教育シンポジウム」がグルノーブル大学で開催され、専門委員の1人として出席するため、ひさしぶりにこの町を訪れました。自由時間に町を散策した折りには、かつての記憶を頼りにスタンダール記念館へ向かったのですが、行き着くと扉が閉ざされたままでした。あとで調べたところ、2004年末から閉鎖されているとのことでした。
パリに帰ったあと、ガリマール社を訪れて、作家のロジェ・グルニエさんと再会すると、いつものようにさまざまな文学的逸話を披露してくれました。その一つに、スタンダール記念館開館式のときに、グルノーブルの市長が招待を受けたにもかかわらず出席しなかったという話がありました。自分の生まれ故郷をなつかしく褒め称えて語る作家もいれば、呪詛するかのようにあしざまに描く作家もいます。スタンダールはあきらかに後者で、グルノーブルの悪口をあちこちに書いていますが、そのため市長が招待を断ったというのです。
グルノーブルだけではありません。フランスそのものをスタンダールは好んでいませんでした。そんな彼が熱愛したのがイタリアであり、ミラノです。パリのモンマルトル墓地にあるスタンダールの墓碑には、イタリア語で「アリゴ・ベイル(アンリ・ベールのイタリア語表記)、ミラノの人、書いた、愛した、生きた」と刻まれています。これは一部字の配列を変えているものの、スタンダール本人の書き残した遺書に従っており、彼自身がミラノの人として死ぬことを願っていたわけです。
19歳のとき、パリの理工科学校に入学を許可されたスタンダールは、故郷グルノーブルを去ってパリに向かいました。しかし、結局学校には一度も行かないまま、ナポレオン軍に加わってミラノに進入します。これが最初のミラノ体験であり,「世界にこんなところがあったのか!」と激しい感動に襲われました。彼は「偽善と気取りの国」であるフランスとは対照的な「情熱と自然らしさの国」イタリアを発見したのです。こうした国民性に関する性格付けはあまり根拠のないものでしょうし、奈良日仏協会会員としては全面的に同意するというわけにはいきませんが、それでも「偽善と気取り」は文化の洗練度の高さを示すものであると解釈した上で、スタンダールの言うことに納得できる部分もあります。それに当時イタリアは、ヨーロッパの文化人や知識人の憧憬の的でした。
こうして、スタンダールのイタリアに対する終生変らぬ愛が目ざめるのですが、このときの感動が、後に『パルムの僧院』の美しい冒頭に結晶することになります。最初のミラノ体験のあと、彼は軍職を辞してパリにしばらく滞在し、18l2年にはナポレオンのモスクワ遠征に参加し、火の海となった首都を目前にします。なんとかモスクワを脱出したスタンダールは、パリに戻りますが、帝政の瓦解とともに失職することになりました。しかし、これが彼の二度目のミラノ行きを決定するのです。1814年7月、あこがれの土地であると同時に生活費の安いミラノに移住します。ここから1821年まで、7年間におよぶ彼のミラノ生活が始まります。
ミラノのスタンダールは、音楽と美術を愛するディレッタントとして、さまざまな著作を発表しますが、18l8年には彼が「永遠の女性」と呼んだマチルダ・デンボウスキ夫人(メチルド)にかなわぬ恋をいだくことになります。ミラノ社交界で名をはせたこの貴婦人は、軍人の妻で、スタンダールと出会ったとき28歳でした。この体験が、パリに戻ってから発表した『恋愛論』De l’Amourに結実します。その詳細については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

« Mon Nara » No 239, 2010年7‐8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

三野博司(副会長)

Comme je l’aurais aimé !
あたしきっと好きになったのに!(2)
(ジロドゥー『オンディーヌ』 1939年)

『トロイ戦争は起こらないだろう』と並んで劇団四季のレパートリーとなっているジロドゥーの『オンディーヌ』は、前作から4年後の1939年4月27日、パリのアテネ劇場で初演されました。第二次世界大戦勃発の4か月前という緊迫した時期に劇作家が選んだ主題は、迫り来る戦争の予感につらぬかれた前作とは異なったものでした。高まる国際的緊張のなかで、ジロドゥーはむしろ彼の諦念を示すかのように、現実からは遊離したメルヘン仕立ての恋愛悲劇を書いたのです。
この作品は、ドイツ通のジロドゥーらしく、ドイツ・ロマン派の作家ラ・モット・フーケのメルヘン的小説『水の精(ウンディーネ)』に依拠しています。宇宙的精神の権化である水の精オンディーヌと、彼女をついに理解しえなかった人間の騎士ハンスとの悲劇を描いて、メルヘンの世界を人間の越えがたい宿命に支配された悲劇にまで高めました。
人間の男性と水の精の女性との結婚というこの話は、いわゆる異類婚姻譚の一つです。日本の昔話では、「鶴女房」「蛇女房」などのように、人間の男性がある日苦しんでいる動物を助けることになり、そのお返しにと、人間の姿に化身した動物が嫁にやって来るというパターンが多いですが、オンディーヌ伝説では妻となるのは動物ではなく水の精です。異類婚というのは、人間が人間ならぬものと結婚するという話ですが、そこには人間とそうでないものとの間に引かれた越えがたい一線を越えようとする願望、この宇宙の秩序のなかにある牢固とした仕切壁に風穴をあけたいという願望のようなものが感じとれます。そうしたことは物語のなかでこそ可能なのですが、しかし多くの場合は、物語のなかでさえも失敗におわるか、あるいは罰せられるという顛末を迎えます。
『オンディーヌ』の場合も、宇宙の掟に逆らってでも自分の恋をつらぬきたいという水の精(少女)の願望は、挫折することになります。第1幕、ある日、森に迷い込んだ騎士ハンスは、一軒の家を訪れ、もてなしを受けます。そこにあらわれたオンディーヌは、この人間の騎士を愛してしまうのです。第2幕では、人間界の宮廷に行ったオンディーヌが、そこでの生活になじめず、一方ハンスはオンディーヌに飽きて彼女を裏切ることになります。そして第3幕、水界の王は、約束にしたがってハンスの生命を奪い、それと同時にオンディーヌをあわれんで彼女の人間界でのいっさいの記憶を抹消します。
最後は、騎士の亡骸を前にしたオンディーヌの哀切きわまりない台詞によって幕となります。
Quel est ce beau jeune homme, sur ce lit… Qui est-il? […] Qu’il me plaît!…On ne peut pas lui rendre la vie? […] Comme c’est dommage! Comme je l’aurais aimé!
この美しい人は、この寝床の上の…だれなの?[…]あたし、この人好きだわ!…生き返らせてはやれないの?[…]残念だわ。この人が生きていれば、きっと好きになったのに。
オンディーヌは一時的に気を失い、意識を取り戻したときには人間界での記憶をなくしています。目の前に死んで横たわるハンスを見て、好きになりますが、しかし、それが誰であるかは思い出せません。最後のせりふは、Comme で始まる短い感嘆文が2つ続いて終わります。Comme je l’aurais aimé ! のほうは、動詞が条件法過去形に置かれています。仮定を示す条件文が省略された形と考えることができるので、それを補うと Comme je l’aurais aimé s’il avait vécu. となるでしょう。日本語に訳すときは「この人が生きていれば」を補う必要がありますが、フランス語では条件法過去形だけで、そのようなことが実際には不可能であることが示されるのです。
Comme c’est dommage ! 「残念だわ」とオンディーヌは言います。この騎士が死んでしまっていることを惜しむのですが、しかし、悲劇はそこにはありません。騎士とは違って生きながらえている彼女が、かつてこの騎士を愛したというたいせつな記憶をなくしている――それこそが悲劇なのです。