名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(25)

« Mon Nara » No 254, 2013年1- 2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(25)

三野博司(副会長)

Mon cœur est bon, mais je suis un monstre.
心はやさしいが、わたしは野獣なのだ。
(ジャン・コクトー『美女と野獣』1946年)

ディズニーのミュージカルやアニメで知られている「美女と野獣」の物語は、18世紀フランスのボーモン夫人の童話がもとになっています。子供向け教育事典『子供の雑誌』に収められた16篇の教訓物語の一つであり、1857年に発表されました。ボーモン夫人は、各地に伝えられた「美女と野獣」を主題にした伝承を17頁の短い物語にまとめあげ、これが後世の規範となり、今日まで読み継がれています。ただ、「美女の野獣」話の原型はローマ時代にまでさかのぼります。2世紀、アプレイウス『黄金のろば』のなかの「クピドーとプシュケー」のなかには、ヒロインが美しい末っ子であり、怪物が美しい青年に姿を変えるという「美女と野獣」の基本類型がすでにあります。
さて、コクトーもまた少年時代からボーモン夫人の童話を愛読し、1946年映画『美女と野獣La Belle et la bête』を制作しました。多才な彼は、みずから脚本を書くだけでなく、監督も務めています。友人のジャン・マレーが主役の野獣に扮し、名花ジョゼット・デイが美女を演じ、そこに、音楽担当のオーリック、衣装と美術担当のベアールなど、フランス映画界の一流のスタッフが参加しました。パリ近郊のラレーにある古城で撮影され、ボーモン夫人の原作に見られた18世紀の宮廷恋愛は、20世紀の美しく荘厳な光と闇からなる映像空間へと移し替えられたのです。
ボーモン夫人の原作では、野獣はベルに向かって、自分はただ単に醜いだけではなく、知恵がなくてバカなのだと言います。他方で、二人の姉たちは、それぞれ美貌の男と才気煥発の男と結婚するのですが、結局は不幸になります。ベルこそが、そうした外見に惑わされず、誠実で愛情深い伴侶を選ぶ目をもっており、父の良き娘であることを貫いた報酬として幸せな結婚を手に入れるのです。
原作に基づきながも、コクトーはいくつかの改変を行いました。人間の内なる獣性を外面へと投影させて、特殊メイクを用いて異様な外貌を作り出しました。最初の出会いから野獣の恐ろしさが強調されており、その姿を見てベルが気絶するほどです。けれども、次第にベルの強いまなざしの力が野獣を手なずけていきます。ここでは、みずからの獣性におびえ、醜さに悩む野獣の姿がむしろ痛々しく感じられます。人はみな自分の醜い面を隠して生きていますが、彼は愛する女性の前でみずからの醜悪さを晒していなければならないのです。
Bête : Mon cœur est bon, mais je suis un monstre.
Belle : Il y a bien des hommes qui sont plus monstreux que vous, qui le cachent.
ベート(野獣) 心はやさしいが、私は野獣なのだ。
ベル あなたよりもっと野獣に近くて、しかもそのことを隠している人間は、いっぱいいるわ。
ここでベルは、人間たちが隠している野獣性を見抜いています。
コクトーは、原作にはない人物として、ベルに言い寄るアブナンを作り出しました。マレーがアブナンと野獣の両方を演じることによって、美貌ではあるが中身のないアブナンと、醜いが心優しく誠実な野獣の対比が浮き上がり、この二人が入れ替わることになります。コクトーらしい合わせ鏡のような反転を用いて、彼は人間の獣性とはなにかと問いかけるのです。なお、この映画は、戦後日本で公開されたフランス映画の第一号でもありました。

名句の花束―フランス文学の庭から(24)

« Mon Nara » No 253, 2012年11- 12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(24)

三野博司(副会長)

Je suis un mensonge qui dit toujours la vérité
ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ
(ジャン・コクトー「赤い包み」1927年)

コクトーは軽業師と呼ばれるほどに、多彩なジャンルで活躍しました。世間はこうした詩人を山師のように見なして非難しましたが、それは彼の表層だけに目を奪われた誤解にすぎません。そのような変幻自在でとらえがたく、さまざまな伝説を生み出したコクトーが、みずからを語ったことばとして有名なのが、この引用句です。「私の耳は貝のから」を収めた詩集『ポエジー』から7年後、1927年の詩集『オペラ』に収められた「赤い包み」の末尾にある句ですが、コクトーを語るときに必ず引き合いに出されるものです。
主語のje「ぼく」のあとに、mensonge「嘘」とvérité「真実」と相反する語を並べてみせるレトリックが印象的です。さらに、toujours 「つねに」と補って、彼の一貫して変わらぬ態度を強調しています。コクトーにとって、詩とは、現実と見せかけ、事物と鏡のなかの反映、真実と幻影とをまぜあわせる魔術なのです。しかし、それはコクトーだけのことではありません。文学が歴史や事実報道と異なるのは、それが嘘をつきつつ真実を語る技法であるからです。作家や詩人は、現実から素材を取り出しながらも、そこに嘘(フィクション)を交えます。その嘘にこそ、作家の夢や願望、思想や情念、さらには無意識までが反映することになります。文学作品を読むとは、この嘘のなかに秘められた真実を探りあてることにほかなりません。文学作品をたんなる歴史資料としてあつかうアプローチがつまらなく感じられるのは、そこに作家の真実に迫ろうとする意図が欠けているからです。
ところで、コクトーの代表作の一つに『恐るべき子供たちLes Enfants terribles』があります。1928年12月、コクトーは阿片の解毒治療のために豪華なサンクルー病院に入院します。入院中に手記『阿片』を書き、翌29年4月に退院し、入院費用はいつものように、当時芸術家たちのパトロンであったココ・シャネルが支払いました。ところで、この入院中に彼はもうひとつの仕事を仕上げました。それが『恐るべき子供たち』であり、17日間で一気に書かれて、1929年6月に刊行されました。
少年たちの夢想と現実が入り交じった世界をみごとに描きだしているこの小説は、パリのシテ・モンチエの中庭での、中学生たちの雪合戦の場面からはじまります。ポールはダルジュロスが投げた雪つぶてを胸に受けて倒れます。それは「大理石の一撃」でした。コクトーの作品には、しばしば天使たちが現われますが、それは生と死の世界を自由に往来する力をそなえた死の世界からの使者です。ダルジュロスも、そうした天使のひとりで、その毒によってポールを死にいたらしめます。
このダルジュロスの影響下に、ポールとその姉エリザベトの近親相姦的な愛が進行します。彼らは、幼い心を持ちつづけ、大人になることを拒否し、そのためにほろび去っていきます。コクトーは、そうした少年少女の心理の襞を描き、時代の風俗を素材として、古典的完成度をもつ作品を書きあげました。この恐るべき子供たちの像は、第一次大戦後の混乱と不安の時代の人々に、発表当時の若者たちの共感をあつめました。
コクトーが脚色し台詞を作りみずからナレーションを入れて、ジャン=ピエール・メルヴィルが監督して、1950年に映画化されました。また、日本では、1979年に萩尾望都がマンガ化しています。萩尾作品に登場する美少年たちがコクトーの世界に移り住んで、その繊細な線のタッチと蠱惑的な肖像が原作の雰囲気を再現しています。

名句の花束―フランス文学の庭から(23)

« Mon Nara » No 252, 2012年9 – 10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(23)

三野博司(副会長)

Mon oreille est un coquillage
/ Qui aime le bruit de la mer.
 私の耳は貝のから / 海の響をなつかしむ
(コクトー「カンヌ」1920年)

前々回、アポリネールの詩にうたわれたエッフェル塔について、建設当時の作家・芸術家に嫌われたこの新しい建造物も、20世紀に入って、新精神を標榜する芸術家たちによって歓迎されるようになったと述べました。今回紹介するジャン・コクトー Jean Cocteau (1889-1963) もそのひとりです。彼の絵にもエッフェル塔を軽妙なタッチで描いたものがあります。また、コクトー最初の演劇作品は、『エッフェル塔の花嫁花婿Les Mariés de la tour Eiffel』と題されていて、1921年パリのシャンゼリゼ劇場でスウェーデン舞踊団によって上演された音楽劇です。パリの俯瞰景を背景にして、エッフェル塔の2段目の展望台という設定の舞台で、ファンタジックな結婚式が繰り広げられます。音楽はミヨー、プーランク、オネゲルなど「六人組」のメンバーが担当しています。YouTubeでも、原題で検索すれば、いくつかの演奏を映像付きで見ることができます。
同じ原題 « Les Mariés de la tour Eiffel » をもつシャガールの絵があります。1938年の作で、切手の図柄にもなっている人気作ですが、こちらは訳語が一定せず『エッフェル塔と新婚夫婦(新郎新婦)(恋人たち)』などと訳されているようです。
コクトーとエッフェル塔との縁は深く、塔が建設されたのと同じ年、1889年、彼はパリ郊外の高級住宅地メゾン・ラフィットに生まれました。今日でもしゃれたレストランがある町です。74年の生涯を通じて、彼は、詩、小説、演劇、映画、絵画 の分野で軽妙で多彩な活動を展開しましたが、本質的に自分は詩人であると定義していました。
1919年、コクトーは第一詩集『喜望峰』を発表し視覚の冒険に挑んだあと、その翌年、1920年に短詩をあつめて『ポエジー』と題して刊行しました。感覚的レトリックを駆使して、旅や海辺の詩が多く含まれています。「カンヌ」もそのひとつで、六篇の短詩から成りますが、名句としてとりあげたのは、わずか2行の第5詩です。
Mon oreille est un coquillage/Qui aime le bruit de la mer.
私の耳は貝のから/海の響をなつかしむ
かつてとある仕事で月ごとに東京へ通い、夕方からは暇があればNHKホールのコンサートを聴きに行くという生活を送っていたころ、ホールのロビーにはこのコクトーの句が刻まれた波模様と巻貝を描いた大きなパネルが掲げられていました。海の響きを聴き取ろうとする巻き貝のような耳が音楽に聴き入る耳を連想させるために、この句が選ばれたのでしょうか。
コクトーの詩集『ポエジー』は、彼の伝記などでもほとんど扱われることのないマイナーな作品です。またフランスの引用句辞典Dictionnaire des citationsをひもといても、コクトーのこの詩句は掲載されていません。つまり、日本だけで知られている句のようですが、有名になったのは、堀口大學の訳詩集『月下の一群』で紹介されてからです。
1925年9月、それまで10年間にわたって作られた訳詩のなかから66人の詩人、340篇の詩を選んで編まれたのが『月下の一群』です。「ジャン・コクトオ」と堀口大學は表記していますが、コクトーからは10篇が選ばれ、「耳」という表題でこの2行詩が掲載されています。しかし、この題は原文にはありません。原詩は「カンヌ」という詩で、1から6までの数字が付された短詩からなり、5のところに題名もなくわずか2行のこの詩が掲げられています。aimeを「なつかしむ」と訳すことで、時間のへだたりが表現され、貝殻が夏の思い出となって余韻を残します。なお、耳と貝の結びつきは、コクトーの他の詩にも見られるものです。
おなじく『月下の一群』の大學訳で親しまれるようになったコクトーの「シャボン玉」をあげておきましょう。これも短いです。
シャボン玉のなかへは/庭は這入れません/まはりをくるくる廻つてゐます
Dans la bulle de savon / le jardin n’entre pas. / Il glisse autour.

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

« Mon Nara » No 251, 2012年7 – 8月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る (3)
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

手元に « Paris : 34 ponts » (パリ34本の橋)というタイトルの小さな本があります。パリ観光案内本の一つで、セーヌの上流から順に34本の橋が写真とともに紹介され、ミラボー橋は最後から3つ目の32番目、アポリネールの詩の冒頭が引用されています。いつ買ったものか記憶が定かではないのですが、写真はすべて白黒で、発行年はと見ると1972年で40年も前。パリのセーヌに架かる橋はその後3本が新設されて、現在では « Les 37 ponts de Paris » という本が刊行されているようです。
渡辺守章著『パリ感覚』(1985年)では、第1章で「橋づくし」とでもいうべき随想が繰り広げられます。シュリー橋に始まり、さまざまな橋についての著者一流の薀蓄が傾けられますが、ミラボー橋については、「かのミラボー橋は、上流の堤防によって二つに分けられたセーヌが、再び一つに合流するところにかかっている」とだけあり、もう今さらこの橋についてアポリネールやローランサンについて語ることもあるまいと言った風情です。
ミラボー橋は、エッフェル塔からさらに下流へ、自由の女神が立つ「白鳥の小路」と呼ばれる堤防のその先にあります。現在では Google earth で 「ミラボー橋」(日本語で可)と打ち込んで検索すれば、たちまち橋の上空へと連れて行ってくれます。
なんの変哲もない鉄製の橋ですが、有名になったのはアポリネールの『アルコール』に収められた詩「Le Pont Mirabeauミラボー橋」がきっかけでした。多くの画家とも交際のあったアポリネールは、ピカソにマリー・ローランサンを紹介され、恋仲となりました。彼は、母親と暮らしていた女流画家の近くのアパートに引っ越して、自宅に帰るときにこの橋を通ったのです。
5年後に2人は別れますが、詩人は過ぎ去った恋を、セーヌの水の流れに託しました。「ミラボー橋の下をセーヌが流れ/ぼくらの恋も流れる」と始まり、川の水のように過ぎ去った時も恋も戻ってはこないと歌われます。「恋はすぎる この流れる水のように/恋は過ぎ去る/人の世の何と歩みのおそいこと/希望ばかりが何と激しく燃えること」といった感傷的な詩句は、現代派のアポリネールとはまた異なった一面を見せています。とりわけ知られているのは、四回繰り返される次の二詩句です。
Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る
前半のVienne, sonne はともに動詞が接続法現在形になっていて、祈願を表しています。また後半の「日々は流れゆき ぼくは残る」は、15世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの『大遺言書』のなかにその原型があるといわれています。
ローランサンには、『アポリネールとその友人たち』と題された絵があります。詩人の作品が2人の関係が破綻したあとに書かれたのに対して、こちらの絵は、恋人同士だったときに制作されました。絵の中央にアポリネールが腰掛けていて、右端にローランサン、あとピカサや友人たち数名が描かれています。アポリネールの右肩奥に小さく見えているのがミラボー橋ですが、橋桁の間隔が狭くて、実際のミラボー橋とは印象がかなり違います。

世界的な風邪の流行が話題になるたびに引き合いに出されるのは、1918年~19年に猛威をふるったスペイン風邪です。アメリカに始まり、ヨーロッパに波及し、さらには世界中に広まりました。感染者6億人、死者4,000~5,000万人というとほうない数字が残っています。著名人も犠牲となりました。ドイツのマックス・ウェーバーのほかに、日本では私たちになじみの奈良ホテルを設計した辰野金吾、そしてフランスではなんとってもアポリネールです。彼が亡くなったのは、「ミラボー橋」発表から5年後、1918年11月9日、第1次世界大戦の休戦条約が結ばれる2日前でした。

名句の花束―フランス文学の庭から(21)

« Mon Nara » No 250, 2012年5 – 6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(21)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る (2)
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

アポリネールが1913年に発表した詩集『アルコール』には、時代を先取りした彼の前衛性を代表する詩である「地帯」と、古典的で甘美な抒情性をたたえた「ミラボー橋」と、それぞれ異なった性格をもつ詩が収められています。まずは冒頭の一篇「地帯 Zone」から。
A la fin tu es las de ce monde ancien
Bergère tour Eiffel le troupeau des ponts bèle ce matin
とうとうおまえはこの古い世界に飽きてしまった
羊飼いの娘よ おおエッフェル塔 橋の群れはけさめえめえと泣いている
前回述べたように、この詩集ではいっさいの句読点が廃されています。この始まりの二行は、新しい詩のヴィジョンを挑戦的に展開するにふさわしいものです。一行目で「おまえ」と自分に呼びかけてあらたな創造が必要であることを示唆し、二行目ではエッフェル塔に向かって大胆なメタファーを用います。
エッフェル塔は、フランス革命100周年にあたる1889年に開催されたパリ万博のときに建設されました。万博が終われば取り壊される予定であったのが、幸いに生き延びることになります。建設当時、モーパッサンを初めとする当時の作家・芸術家に嫌われたエッフェル塔も、二〇世紀に入って、新精神を標榜する芸術家たちによって歓迎されるようになりました。すでにスーラは、おそらくは建設途中の姿であろうと思われる頂上の部分の欠けたエッフェル塔を描いており、これがもっとも早い時期に描かれたエッフェル塔の絵だといわれています。他にも、ルソーの自画像の背景を構成するパリのモニュメントの一つとして、またシャガールの空中遊泳する恋人たちを祝福する事物の一つとして、エッフェル塔が描き込まれました。
しかし、この塔にもっとも強く惹きつけられた画家はドローネーでした。彼は、連作「窓」や「ブレリオ讃歌」などの画面に塔の姿を描き込んでいますが、そればかりでなく、1909年から二年間にわたってエッフェル塔の連作を制作しています。そこで彼は、光によって解体されたこの塔を、10個の視点と15個の遠近法をもちいて描き、相矛盾する平面の組み合わせによって、300メートルの高度がもたらす眩暈を表現しました。塔は、もはや静止した建造物ではなく、ダイナミズムの表明となったのです。
そして、アポリネールは言葉を塔の形に並べた絵文字の詩までつくっていますが、とりわけ「地帯」の最初の二行が提示するイマージュが鮮烈です。彼は、この新しい建造物である鉄塔を羊飼いの娘に見立てます。そしてセーヌに架かる橋々を羊の群れに、曳き船のサイレンを羊の鳴声にたとえるのです。パリの一日の始まり、それは新しい時代の始まりでもあるのです。
そして、この「地帯」の最終句もまた、印象的なものです。

Soleil cou coup
太陽 首 切られ

声に出して読んでみるとわかるように、cou[k]の音の重なりが効果的で、断頭台の刃が落ちてくるような、突然の荒々しい終結です。古い世界の終焉を告げると同時に、これから詩人によって歌われる新しい世界までが、すでに死を宣告されているかのようです。
ところで、大阪万国博覧会の時に岡本太郎によって設計された「太陽の塔」は、このアポリネールの詩に淵源があるという塚原史氏の卓抜な指摘があります(『人間はなぜ非人間的になれるのか』ちくま新書)。詳細は省きますが、1930年をパリで過ごした岡本太郎が、アポリネールの詩句にならって太陽と斬首を結びつけたバタイユの思想に触れたことがきっかけとなっています。「太陽の塔」とは、首を切られた太陽=女性があらたな太陽=新生児を産み落とそうとしている姿なのです。奇才が作り出したあの異形な建造物の着想が、アポリネールの詩にまで遡ることができるという解釈はたいへん興味深いものです。
『アルコール』に収められたもうひとつの有名な詩「ミラボー橋」については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(20)

« Mon Nara » No 249, 2012年3- 4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(20)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

昨年の初夏以来、3・11をめぐっていくつかの名句について語りました。この間、平行してひとつの本の編集作業も進めてきました。4月に刊行される『大学の現場で震災を考える』(三野博司編、かもがわ出版)です。「奈良女子大学文学部<まほろば>叢書」の第1巻を飾るもので、文学部教員による8本の論考がおさめられています。私の「震災とフランス文学」は、一見なんのつながりもないと見えるこの二つの主題について考察してみたものです。「名句の花束」でもとりあげた、カミュ、サン=テグジュペリ、ヴォルテール、ルソーについて触れています。
今回からは、恋愛にまつわる名句に戻って、シャンソンでも知られているアポリネール Apollinaireの「ミラボー橋 Le Pont Mirabeau」を取り上げましょう。かつてはレオ・フェレ Léo Ferréの歌がよく知られていました。セーヌ川の流れのようなどこかもの憂くゆったりとしたアコーデオンの調べにのって、とどめようのない時と過ぎさった恋の物語が、少しくぐもったような声で歌われていました。いまでは Youtube で、かんたんにいくつかの歌を聴くことができます。ピアノの高音がパセティックに響いて恋の悲哀をかきたてるセルジュ・レジアーニ Serge Reggianiや、速く軽快なテンポと強いビートを伴って歌われるマルク・ラヴォワーヌ Marc Lavoineなど、レオ・フェレとはずいぶん違ったおもむきがあり、それぞれにおもしろいです。
ギョーム・アポリネールは筆名で、1880年、亡命ポーランド貴族の娘を母とする私生児としてローマに生れました。父親についてはよくわかっていません。少年期をモナコ、カンヌ、ニースですごし、19歳のときに母に連れられてパリに出てきて、さまざまな職業に就きます。この時期、生活のためいくつかの春本も書いています。
第一次大戦の前年である1913年は、フランス文学史において、数々の傑作が出版された年として知られています。まず最初にあげるべきなのは、プルーストの『スワン家の方へ』ですが、他にアラン・フルニエ『グラン・モーヌ』、ラルボー『A.O.バルナブース全集』があり、そしてアポリネールの画期的な2冊の本、詩集『アルコール』と絵画評論『立体派の画家たち』がこの年に刊行されました。前者はいっさいの句読点を排除したアポリネールの代表詩集であり、後者は当時のもっとも革新的な絵画を擁護した書物です。
第1次世界大戦が勃発すると、外国人であるアポリネールは(16年フランスに帰化しています)従軍の義務がなかったにもかかわらず、フランスを愛する気持から志願して、ニームの砲兵隊に入りますが、頭部に戦傷を受けて、2度の切開手術を受けます。アポリネールといえば、頭に包帯を巻いた姿が知られています。大江健三郎の『個人的な体験』では、生まれてきた赤ん坊が頭部手術を受ける場面で、主人公が「アポリネールみたいに頭に包帯を巻いて」と言う一節がありました。これがのちに、『新しい人よ目覚めよ』などの大江文学において、聖なる光を放つ存在イーヨとなるのです。
アポリネールはこの重い傷がいえると、ふたたび活動をはじめて、1903年に書いたシュルレアリスム演劇『ティレジアスの乳房』を舞台にかけます。1917年のことです。これはのちにプーランクによってオペラ化され、1947年、パリのオペラ・コミック座で上演されました。小澤征爾指揮によるCDが出ていて、私の気に入り歌手のひとりでもあるバーバラ・ボニーが歌っています。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(19)

« Mon Nara » No 248, 2012年1- 2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(19)

三野博司(副会長)

Faites attention aux baobabs !
バオバブに気をつけなさい !
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

「3・11」以後、震災をめぐって、ヴォルテールとカミュを取り上げましたが、最後にもう一つ『星の王子さま』について書きたいと思います。この物語が震災に直接かかわるというのではありません。しかし、もともと象徴的意味合いの強い作品ですから、作者のメッセージの射程は広く、人間の災厄についての考察にまで及んでいます。
『星の王子さま』公式サイト(http://www.lepetitprince.com/ フランス語版ですが英語版に切り替えも可)では、2011年3月25日、「王子さまは日本のために泣いている」という見出しで、大きな絵と文が掲載されました。王子さまが自分の星の上に立っているおなじみの絵なのですが、ここではその星が赤く塗りつぶされて、日の丸に見えます。そこに付されたメッセージを日本語に訳して紹介しましょう。
「日本と『星の王子さま』とはとても強い絆で結ばれている。30種もの日本語訳があり、もっとも私たちに身近な存在である三野博司をはじめとして多くの研究者が『星の王子さま』やサン=テグジュペリにたいして著作をささげ、箱根には「星の王子さまミュージアム」があり、最近では寄居パーキングエリアに星の王子さまをテーマとした施設が開設された。日本では『星の王子さま』の世界はしばしば宮崎駿の作品世界と比較されるが、彼はガリマール社が刊行した『サン=テグジュペリ、デッサン集成』に序文を寄せている。[……]だからこそ、星の王子さまの友である私たちは、かくも身近なこの国の不幸に心を痛めているのだ」
私はこのサイトの管理者であるシルバン・ルコワントに会ったことがあり、また自分の名前が出されているからには、これに応答すべきだと考えて、感謝の返事を送りました。以下は、4月13日、「星の王子さま」公式サイトに掲載された仏文の日本語訳です。
「はげましのメッセージをありがとう。私たちは王子さまを泣かせてしまった。古来私たちの列島は幾度も自然災害に襲われており、そうした事態は目新しいものではないとはいえ、この災禍はその前例のない規模の大きさで私たちを震撼させるものだ。しかも今回は、人類が産み出し、統御できない核の炎が問題をいっそう困難にしてしまった。『星の王子さま』の作者は、1945年に日本の2つの都市の上空で炸裂した原子爆弾のことは知らなかった。しかし、その2年前、彼は遺書となった書物のなかでこう書いたのだ。<ところで王子さまの星には恐ろしい種があった。それはバオバブの種だった。星の土壌には種がはびこってしまった>。私たちは、自分たちの列島や地球が放射能によって汚染されないことを望みたい。だからこそ、もう一度、王子さまのことばを想起しなければならないのだ。<バオバブに気をつけなさい!>」
バオバブの話は第5章に出てきます。王子さまは語り手にこう言うのです。「たった一本のバオバブでも、手当てが遅れると、もう根絶することはできない。星全体をふさいでしまう。その根で、星に穴をあけてしまう。そして、もし星がとても小さくて、バオバブの数があまりにも多いときには、星を破裂させてしまうんだ」。バオバブによって破裂する星は、もちろん地球を連想させます。サン=テグジュペリは核戦争までを予想したわけではないにしても、第二次大戦中に書かれたこの物語のなかのバオバブは地球的規模の戦争を暗示しているでしょう。このあと、王子さまは、毎日きちんと仕事をして、バオバブの芽を小さいうちに摘み取っておくことがたいせつなんだと語ります。その助言を受けて、語り手はバオバブの絵を描いて、読者である子どもたちに向かってこう呼びかけるのです。「子どもたちよ! バオバブに気をつけなさい! Enfants ! Faites attention aux baobabs !」

 

名句の花束―フランス文学の庭から(18)

« Mon Nara » No 247, 2011年11- 12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(18)

三野博司(副会長)

L’essentiel est de bien faire son métier
いちばんたいせつなことは自分の務めを果たすことだ (2)
(カミュ『ペスト』1947年)

「名句の花束」(2)および(3)において紹介した『シーシュポスの神話』は、「幸福なシーシュポスを思い描かねばならない」という句によって結ばれていました。しかし、たとえシーシュポスがみずからの反抗を通じて幸福を獲得したとしても、それは彼ひとりだけのものであり、孤独な幸福にとどまっています。『ペスト』において、カミュはそこから一歩を踏み出すのです。1942年、ナチス・ドイツ占領下のパリで『異邦人』と『シーシュポスの神話』が刊行され、29歳のカミュは一躍文壇に名が知られるようになりますが、このとき、彼はすでにペストを主題とした小説の構想をあたためていたのです。
その3年後、レジスタンスの体験を経て、1945年に発表された『反抗に関する考察』において、カミュは、反抗の動きは個人的運命を越え人間の連帯へと達するものであり、そのとき「これまで、たったひとりの人間が感じていた悪が集団的ペストとなる」と書いています。やがて完成される小説のなかに、集団的ペストとなった悪にたいする堅忍不抜の反抗と、この反抗を通じて獲得された人間の連帯が描かれることになります。
一九四六年八月、『ペスト』が完成し、翌四七年六月に刊行されるとベストセラーとなり、批評家賞を受賞しました。この病疫に襲われた町の物語において、構想段階からペストは戦争のアレゴリとしてあらわれていました。ナチズムは当時「褐色のペスト peste brune」と呼ばれていたのです。のちにカミュ自身が、この物語は「ナチズムにたいするヨーロッパの抵抗の闘いを明白な内容としている」と述べています。だが、それだけではありません。これはあらゆる専制政治に対するレジスタンスの物語であり、人間を襲うすべての災禍と悪に対する不撓不屈の闘争の物語なのです。
『ペスト』が提示しているのは、平時ではなく戦時のモラルです。人類が巨大な災禍と闘うとき、どのようなモラルが可能なのか、その思考実験の作品であるということもできます。そのモラルは、主としてこの物語の語り手でもある医師リユーによって体現されますが、彼自身は、新聞記者ランベール、社会運動家タルー、神父パヌルーといった人物たちとの対話を通じて、自分の立場を確認していくのです。
名句として掲げたのは、全五部から成るこの小説の第一部第四章、アルジェリアの町オランにペストが蔓延しはじめる時期におけるリユーのことばです。これからの困難な闘いにたいする心構えの表明であると言えます。
同じ内容のことばを、リユーはもう一度、第二部第九章において、今度はランベールを前にして言うことになります。この2人の対話では、個人の幸福と集団への責務のどちらが優先されるのかが問われています。オランの町から抜け出してパリの恋人のもとに戻ろうと執拗な試みを続けるランベールは、ヒロイズムを信じないと言います。それに対してリユーは、彼らが力を合わせて、生命の危険を冒してペストと闘うのは、ヒロイズムとは関わりのないことだ応じます。
リユーによれば、「ペストと闘う唯一の方法、それは誠実さ la seule façon de lutter contre la peste, c’est l’honnêteté」であり、彼の場合には「誠実さとは自分の務めを果たすことだ elle consiste à faire mon métier)」と述べるのです。
このあと、ランベールは、町から脱出する手立てを見つけるまで、リユーたちと一緒に保健隊で働くことを申し出ることになります。彼もまた自分の果たすべき務めを発見したのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(17)

« Mon Nara » No 246, 2011年9 – 10月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(17)

三野博司(副会長)

L’essentiel est de bien faire son métier
いちばんたいせつなのは自分の務めを果たすことだ (1)
(カミュ『ペスト』1947年)

3月11日の震災の直後、まず頭に浮かんだのは、カミュが『ペスト』において描いた災厄との闘いでした。
地震のあと、その報道はただちにフランスにも伝わり、国際カミュ学会会長のアニェス・スピケルさんを始めとして、10名を越える理事会のメンバーから、日本カミュ研究会に所属する仲間たちの身を案ずるメールが次々と届きました。始めの時点では仙台在住の会員との連絡が取れなかったのですが、そのひとりを除いてひとまず他の全員の無事が確認できた時点で、私は理事会に宛ててその旨を伝える短い報告を送り、同時に、この非常時にあって『ペスト』のなかの一つのことばを思い出すと書き添えました。それは病疫の災禍のなかで、医師リユーが発する「いちばんたいせつなことは自分の務めを果たすことだ」ということばです。あまりにも単純ですが、単純であるだけに力強いメッセージとなりうる、そうした類のことばであるように思われたのです。
ところで、震災直後にカミュの『ペスト』のことを考えた人は、他にも大勢いました。
辺見庸氏は3月16日、共同通信を通じて全国の新聞に配信されている「水の透視画法」で、「非情無比にして荘厳なもの」と題して震災による日常の崩壊を語っています。そこで、カミュが『ペスト』において医師リユーに語らせたモラル、すなわちこの世に生きる不条理はどうあっても避けられないが、それでもなおひたすら誠実であることのかけがえのなさを取り上げて、これは「あきれるばかりに単純な命題」であるが、「いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である」と述べました。(『水の透視画法』共同通信社、2011年6月に再録)
鹿島茂氏は、3月23日『毎日新聞』東京版の朝刊において、3・11以前の日本はサルトルの『嘔吐』の世界であったが、いまや際限なく続く敗北であることを知りながら闘うことをやめない『ペスト』のリユーのことばをこそ、人々は理解するだろうと指摘しています。
また吉川一義氏は岩波文庫版『失われた時を求めて』第2巻の「訳者あとがき」(2011年3月某日)で、「このような惨事を生き延びるには、当座はカミュの『ペスト』のような連帯の文学が必要とされるのかもしれない。連帯と希望がなくては、生きていけないからである」と記しています。
さらに、竹森俊平氏は5月25日発行の『日本経済復活まで、大震災からの実感と提言』(中央公論社)のなかで、震災直後に『ペスト』を読み返したときの感想として、「(カミュは)日本が経験しているような悲劇の巨大さを、あますところなく伝えることのできる、唯一の作家ではないだろうか」と述べて、この小説に示されたカミュの洞察の「あまりの鋭さ、仮借なさに感服し、たじろいでしまう」と述懐しています。
だが、それだけではありませんでした。インターネットの個人のブログで、カミュの『ペスト』について書いている人が、ずいぶんと大勢いたのです。だれもが、壊滅的被害のなかでの悲惨と混乱を前にして、カミュが主人公リュウに託したメッセージを真にリアルなものとして受けとめていました。
かつてカミュのモラルは、フランスにおいて「赤十字のモラル」と揶揄する人もありました。しかし、このモラルは第二次大戦という人類にとっての非常事態において生まれ、鍛え抜かれたものなのです。繁栄を謳歌し、浮かれ騒いでいる時代にはこのモラルは微温的で、物足りないものと目に映るでしょう。しかし、いまや戦時のモラルこそが必要なのではないでしょうか。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(16)

« Mon Nara » No 245, 2011年7 – 8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(16)

三野博司(副会長)

Quel crime, quelle faute ont commis ces enfants
この子たちがどんな罪を、どんな過ちをおかしたというのか
(ヴォルテール「リスボンの災厄についての詩」序 1756年)

1755年のリスボン大地震が、4年後に発表された『カンディード』執筆動機の一つであったと前回述べました。しかし、それよりいち早く、ヴォルテールは、地震を知ってすぐに一篇の詩を書いて、「この世はすべて最善のものとして作られている」とするライプニッツ流の楽天主義に不信を抱き、神の摂理に対して疑問を投げかけます。それが地震の翌年1756年3月に発表された「リスボンの災厄についての詩 Poème sur le désastre de Lisbonne」です。
詩の冒頭から、ヴォルテールは「すべては善である Tout est bien」と叫ぶ人々を攻撃し、そうした態度を愚かで、臆病な自己満足だと批判します。「<すべては善である>という語を厳密な意味で、しかも未来の希望もなく把握すると、これはわれわれの人生の苦しみに対する侮辱にほかならない……」。神が自由で、正義を行い、慈悲に満ちているなら、そうした公正な支配者のもとにあって、どうして私たちが苦しむことになるのか。そして伝え聞いたリスボン大地震の惨状について、こう問いかけるのです。
「この子たちがどんな罪を、どんな過ちをおかしたというのか
(Quel crime, quelle faute ont commis ces enfants)
母の胸の中で押しつぶされ血まみれのこの子たちが、今はなきリスボンが、
歓楽におぼれるロンドンやパリにもまさる悪徳の巷であったというのか」
こうして、ヴォルテールは従来の楽天主義を捨てて、すべては悪であるという立場を採用するに至ります。
他方で、この詩篇を読んだルソーは、1756年8月、「ヴォルテール氏への手紙」において、逆に摂理を擁護する立場を明らかにします。彼は、被害の原因のほとんどは、都市の構造や、住まい方、そして市民の貪欲さにあると述べるのです。人間社会の悪を産み出したのは人間自身であると『人間不平等起源論』以来の彼の持論を展開します。
「私は、大部分の物質的な悪はやはり私たちの産物であることを証明したと思っています。リスボンに関するあなたの主題から離れずに言えば、たとえば、自然のほうからすれば、なにもそこに6階や7階建ての家を2万軒も集合させることはまったくなかったことを考えてみてください」
すなわち、彼は大都市に人が密集するから惨禍がひどくなるのだと、反都市=反文明の立場から反駁します。第1回目の地震のときに全住民が安全な場所に逃げ出していたなら、被害ははるかに少なかっただろう。しかし、人々は自分の財産や持ち物に執着して、その場を離れなかった。
「この大震災で、ある者は服、他の者は書類を、別の者は金を、持ちだしたいがために、どれほど多くの人々が不幸にも命を失ったことでしょうか」
のちになって、ルソーは自伝『告白』のなかにおいても、「ヴォルテールへの手紙」について触れています。そこで彼は、ヴォルテールのような栄光と幸福に包まれた人間が、自分自身は災厄をまぬがれているのに、その災厄の恐ろしい光景を描き出して、神は人に害を与えることだけを楽しみにしているなどと主張するのはいかにも不条理だと書いています。他方で不幸な境遇にある自分は、人間のあらゆる不幸を吟味して、公平に検討したと、ルソーは言うのです。
「あらゆる不幸のうちで、神の摂理に罪があるような不幸は一つもなく、不幸の源は自然そのもののなかにあるよりは、人間がその能力を乱用したことにある」
このことばに従えば、原子力もまた人間の能力の乱用の結果だということになるでしょう。
ヴォルテールとルソー、18世紀のフランス思想における2人の巨人が、こうしてリスボン大震災に対する態度によっても、その相違を際立たせ、このあと両者は決定的な対立関係に入るのです。

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