名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(9)

« Mon Nara » No 238, 2010年5‐6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(9)

三野博司(副会長)

Comme je l’aurais aimé !
あたしきっと好きになったのに!(1)
(ジロドゥ『オンディーヌ』 1939年)

文学作品に見られる名句となれば,なんといっても数多いのは恋の歓び,いや苦しみや悲しさを表現したものでしょう。今回は,水の精オンディーヌが,幕切れで発する哀切きわまりない一句を取り上げます。
作者のジャン・ジロドゥ Jean Giraudoux (1882-1944) は,高等師範学校に学び,ドイツ文学,とくにロマン派に親しみました。フランス人作家のなかでも有数のドイツ通といってもいいかもしれません。1910年に外務省に入り,40年に退職するまで外務官僚として国の内外で活躍すると同時に精力的な執筆活動をおこないました。小説もいくつか書いていますが,や詩情と幻想性に富んだ戯曲によって名を残しています。
このジロドゥ劇を日本で上演し続けてきたのが劇団四季です。四季といえば,まずミュージカルを思い浮かべますが,そもそもは東京大学と慶應義塾大学の仏文科の学生であった浅利慶太や日下武史が創設した学生演劇集団でした。1953年に創立されたとき,彼らが上演を目指したのが,ジャン・ジロドゥやジャン・アヌイらフランス人作家の書いた戯曲です。なかでもジロドゥの『トロイ戦争は起こらないだろう』と『オンディーヌ』は,劇団四季におけるストレートプレイの代表的なレパートリとして,たびたび再演されています。先に上演されたのは『トロイ戦争は起こらないだろう』で,1957年のこと。結成からわずか数年の四季が若さと情熱を結集させて取り組み,当時としては未曾有の5000人という観客動員を達成し,創立わずか4年目の青年劇団としては空前の記録を打ち立てた記念すべき作品だと,劇団のウェブページには載っています。
物語は,トロイ戦争を知っている人にはおなじみのものです。トロイの王子パリスがギリシアの絶世の美女エレーヌ(ヘレナ)をさらってきたことが発端となります。この弟の軽率な行為がもたらす災禍をなんとか食い止めようと,兄エクトール(ヘクトール)は,エレーヌに帰国を勧めます。しかしながら,トロイの国王プリアムは戦争を望み,詩人デモコスは民衆の戦意をあおろうとするのです。
物語の終結に近い第2幕第13景における,エクトールとユリッス(オデュッセウス)の対決が山場となります。トロイとギリシア,それぞれの英雄による交渉のなかで,ユリッスはこう言います。
「ある国民が運命の機嫌をそこねるのは,罪を犯したからではなく,間違いをしたからだ。軍隊は強く,国庫は豊かで,詩人たちは高らかに歌う。ところがある日,なぜか分からないが,市民がこっそり木を切ったとか,王子が卑劣にも女をさらってきたとか,子供が悪ふざけをしたというだけで,運命に見放されてしまう。国も人間と同じように,ごくわずかな無礼がもとで,亡んでしまうのだ。Les nations, comme les hommes, meurent d’imperceptibles impolitesses.」
ユリッスによれば,運命が戦争をさせるべくギリシアとトロイを選んだのであり,もはや避けられないのです。そしてこのことば通り,一度回避できたかに見えた戦争は,トロイ市民の愚かな行為によって引き起こされてしまいます。
原題は « La guerre de Troie n’aura pas lieu » で,「起こらないだろう」と単純未来形の否定です。ところが,実際にトロイ戦争がなされたことはだれもが知っているし,舞台でもエクトールの尽力にもかかわらず戦争を迎えるところで幕が降ります。「起こらないだろう」は,エクトールの,ひいては作者ジロドゥの強い,しかしはかない希望なのです。
この戯曲が書かれたのは1935年で,ムッソリーニによるエチオピア侵略の年です。またこの2年前の1933年には隣国ドイツでナチスが政権を握り,着々と軍備を増強していた時期です。古代におけるギリシアとトロイの戦争を題材として取り上げながら,そこには迫り来るヨーロッパの戦争が予感されています。ジロドゥ特有のエスプリに富んだ華麗なセリフを駆使し,古代の英雄たちの世界を繰り広げつつ,同時代の悲劇を見据えたドラマが展開されます。
現実の歴史は,ジロドゥの芝居をなぞるように進行します。1938年,ミュンヘン協定によって一度は戦争が回避されたように見えながら,翌39年9月には第二次世界大戦が勃発します。ジロドゥがそこまで予見していたというよりも,むしろ運命というのはしばしばそのようなかたちで人間たちを翻弄するものだということなのでしょう。
劇団四季が『トロイ戦争は起こらないだろう』を初演した翌年の1958
年に,今度は『オンディーヌ』が上演され,これもその後劇団の重要なレパートリーになりました。今回も寄り道をしてしまいましたが,『オンディーヌ』については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

« Mon Nara » No 237, 2010年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(3)
(パスカル『パンセ』 1670年)

(承前)パスカルの『パンセ』第一部「神なき人間の悲惨」のなかでも、もっとも有名な句は次のものでしょう。
L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ.だが、それは考える葦である。
まず人間の弱さを「葦」という卓抜なイメージによって提示したあと、 ne … que 「すぎない」と限定し、次には le plus faible 「一番弱い」という最上級によってその「弱さ」を強調します。ところが、mais 「しかし」のあとで、この reseau 「葦」に pensant 「考える」という現在分詞を付加することによってみごとに反転させるのです。
このあとは、次のように続いています。
「これを押しつぶすのに、全宇宙はなにも武装する必要はない.ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すのに十分だ.しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、これを殺すものより尊い.人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからだ.宇宙は、そんなことは何も知らない」
だから、とパスカルは言います。「わたしたちの尊厳のことごとくは、考えるということにあるのだ」。デカルトが「私は考える Je pense 」を存在証明の根拠に置いたように、パスカルもまた人間の尊厳を「考えること pensée 」のなかに見るのです。ただ、パスカルの場合、考えることがすなわちみずから死すべき存在であるのを知っていること――というのは、病弱でつねに死と向き合っていた彼らしいことばです。
もう一つ有名な句に「パスカルの賭」があります。『パンセ』はキリスト教の信仰を持たない人を信仰の道に導きいれることを目的として書かれたと、以前に述べました。そのための術策として、パスカルは「賭け」を提示します。果たして神はいるのか、いないのか、それはにわかには判断も、証明もできないのだから、これは一種の賭けなのです。ただし、この賭けでは「神はいない」と賭けるよりは「神はいる」と賭けた方が良い。なぜなら、そのことによって信仰を得て、心安らかに満ち足りたこの世の生活が送れるからです。ところが、実は「神はいない」かもしれない。しかし、ここからが大事なのですが、パスカルは、そのことによって失うものは何もないのだから、だめでももともとではないか、と言うのです。いわゆる「だめもと」ですが、これについて精神科医の中井久夫氏がたいへん興味深いことを述べています。
「悲観論は一般に容易に反駁されない構造を持っている.すなわち、これ自体が一つの陥穽である.これに対して楽観論というものは、非常に反駁されやすいものである. […] 悲観論が強固な場合は、無理にでも楽観論の立論可能性を探ってみるのがよいと思う.無理にでもというのは、一般に悲観論のほうが、一つの必然として精密に理論化しやすいということがあるからである」(『家族の深淵』)
悲観論に立つのはきわめてかんたんです。楽観論に立つのはむしろむずかしい。ただし、ここで言う楽観論は、現実を知らない、甘い夢想ではないということです。そうではなく、現実の状況をすべて冷静に認識した上で、意志の力によってあえて楽観論に立つこと。つまり気分による楽観論ではなく、意志による楽観論。そうした楽観論が、精神科の医者には必要であると、中井久夫は言います。
「実践的楽観主義というでもいうべきものが治療に必要であるとは、統計の示すところである.分裂病は治ると考えている医師の治癒率は、治らないと考えている医師の治癒率より確かに高い.おそらく、前者は好ましい芽を自説の確証と考え、悪化を一時的現象とみるであろう.後者は、逆に、改善を一時的現象とみるであろう.この違いが長期的には大きな差を生むとしても不思議ではない.これは、神の存在に賭けるほうが利益が大きいと説いたパスカルの賭けと同じ論理である」
たとえだめだとしても、もしそのことによって失うものが何もないのなら、あえてそれに賭けてみよう――この「だめでもともと」というパスカルの賭けには、大きな叡智が宿っているように思われます。

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

« Mon Nara » No 236, 2010年1‐2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(2)
(パスカル『パンセ』 1670年)

理系の天才だったパスカルは、文系の思想家へと変貌をとげる過程で、ジャンセニスムに出会い、次第にその信仰を深めていきました。ジャンセニスムは、カトリックによって異端とされたキリスト教信仰であり、当時の支配的教権であったイエズス会によって迫害を受けていたのです。パスカルはその短い生涯の晩年、イエズス会の攻撃に対して論戦によって戦いつつ、重い病に苦しみながら、62年8月19日、39歳で世を去ります。
そのとき、彼の枕元には、一千枚におよぶキリスト教弁証論の草稿の束がつみ重ねて残されていました。これは、信仰を持たない人々を信仰の道へと導き入れることを目的として書かれた草稿であり、友人たちによって編集されて『パンセ』Pensée と題され、1670年に初版が刊行されました。
全体は2部にわかれ、第1部は「神なき人間の悲惨」、第2部は「神とともなる人間の至福」を扱います。第l部では、神を見失った世界にさすらう人間というものがいかに惨めであるか、その姿が次々と迫力ある筆致と印象的なイメージによって描かれます。第2部では、神への信仰を得た人間の至福が、神学論の形で述べられます。……で、どちらがおもしろいかというと、天国の記述より地獄の描写のほうが私たちの目を惹きつけるように、やはり第1部に有名な句が多く含まれているようです。ダンテの『神曲』においても、神学論議の天国篇よりは、苦悩する人間たちがうごめく地獄篇のほうが魅力的ですが、それとちょっと似ているようにも思われます。
人間の悲惨を描いた有名な句の一つに、「クレオパトラの鼻」があります。これは「考える葦」とともによく知られており、いくつかの国語辞典に見出し語として掲載されていますが、もとの句は次のようなものです。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう」
Le nez de Cléopâtre, s’il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
クレオパトラは、プトレマイオス朝のエジプトの女王(前69-30)であり、ローマの英雄カエサルを誘惑したあと、将軍アントニウスとも結ばれた絶世の美女として知られています。
このパスカルの言葉の真意は、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、つまり彼女があれほどの美女でなかったなら、カエサルもアントニウスも心惹かれなかっただろうし、そうすれば古代ローマとエジプトの歴史も変わっていただろうというものです。一国の女王の美醜という実にたわいもないことによって、人類の歴史は左右されてしまう。それほど私たちの生きている世界は、不確かな根拠の上に成り立っている。そのことの例として、「クレオパトラの鼻」が持ち出されています。
ところで、この仏文について、2つのコメントを行っておきましょう。まず court という形容詞ですが、フランスでは、低い鼻のことを nez court (短い鼻)といいます。顔の表面からどれだけ突き出しているかの距離を、高低でとらえるか、長短でとらえるかの違いでしょう。次に、eût été は接続法大過去ですが、これは条件法過去第二形と呼ばれています。しかし、かといってこれが条件法過去の代わりに使われているのではなく、直説法大過去の代用なのです。つまりこの文章は次のように書き換えることができます。
s’il avait été plus court, toute la face de la terre aurait changé
過去において実現しなかったことの仮定を表す「Si + 直説法大過去、条件法過去」(もし~だったら、~だっただろうに)の構文において、主節の条件法過去が接続法大過去に置き換えられることがあり、これを条件法過去第二形と呼びます。この文例は多く見受けられます。ところが、同時に、従属節の直説法大過去が接続法大過去に置き換えられることもあり、この場合も同じく条件法過去第二形と呼んでいます(なんともややこしいですが)。しかも、こちらの文例はきわめて数少なく、その代表的なものが、この「クレオパトラの鼻」なのです。
かつては、大学で使われるフランス語の教科書にはきちんとこの「条件法過去第二形」まで載っていました。その後、こちらもどんどん「ゆとり教育」化されて、教科書の内容が簡単になって、今ではほとんど消えています。私の書いた文法参考書でも、『リュミエール』(その後改訂されて『新リュミエール』)ではこの「クレオパトラの鼻」を条件法過去第二形の例としてあげました。しかし、そのあとで作った『プチ・リュミエール』および『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』では省きました。
というわけで、なかなか「考える葦」にたどり着きませんが、以下次号。

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

« Mon Nara » No 235, 2009年11‐12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(1)
(パスカル『パンセ』 1670年)

デカルトの「Je pense, donc je suis われ思う、ゆえにわれあり」のあとは、同じく17世紀の思想家パスカルのこれまた有名な句、「考える葦roseau pensant」を取り上げましょう。ここには共通の動詞 penserが含まれています。デカルトでは「考える penser」が直説法現在一人称単数に活用していますが、パスカルのほうは現在分詞となっていて、これは関係代名詞を使って roseau qui pense とするよりもいっそう簡潔な形で、その分訴える力が強いように思われます。そもそも roseau と言う名詞と、penser という動詞、およそ類縁のない二つの語が並べられて、その意表を突く組み合わせが忘れがたい印象を残すのです。パスカルの巧みなレトリックです。
若き日のパスカルは理数系の天才でした。今日でもパスカルの定理(法則)――密閉した静止流体(液体または気体)は、その一部に受けた圧力を、増減なくすべての部分に伝達する――は、理科の教科書の中で説明されています。また、気圧の単位はかつてはミリバールと言っていましたが、1992年からはヘクトパスカルと呼んでいます。これは、大気圧の存在を証明したパスカルにちなんだ名称です。ガラス管に封じ込めた水銀柱によって、パスカルは真空と大気圧が実在することを証明しようとしました。パリのシャトレ劇場の近くにあるサン=ジャック塔の下にはパスカルの像があります。これは、1648年、パスカルがこの塔の上と下で水銀柱を立てて、高度によって大気圧が異なることを実証しようとしたことに由来します。
ヴォルヴィックVolvic というフランスのミネラル・ウォーターは日本でもあちこちで売られていますが、天頂が少しへこんだ帽子のような奇妙な形の山の絵が描かれています。これはピュイ・ド・ドームという山で、オーヴェルニュ県の、パスカルが生まれた町であるクレルモン=フェランのすぐ近くにあります。この山も、サン¬=ジャック塔と同じく、真空実験の場所でした。当時パリに居たパスカルは、義兄に頼んで、クレルモン=フェランの中央にあるジョド広場横の修道院と、ピュイ・ド・ドームの山頂で水銀柱を立てて、その高さが異なることを示す実験をやってもらったのです。
さて、ブレーズ・パスカル Baise Pascalは、1623年にオーヴェルニュ州のクレルモンに生れました。デカルトより28歳年下ということになります。3歳で母に死別し、姉妹とともに、父の手一つで育てられました。幼時から神童ぶりを示し人びとを感嘆させたといわれています。天才の息子を授かった父親の振る舞いについてはモーツアルトの場合が有名ですが、パスカルの父もそれほどでないとはいえ、やはり息子の才能をたいせつに育てようと、パスカルが6歳の時、一家をあげてパリへと移り住み、高度な教育を受けさせようとしたのです。今日、クレルモン¬=フェラン大学は、ブレーズ・パスカル大学と呼ばれています。しかしパスカルがこの町で過ごしたのは生後の6年だけでした。
パリへ出たパスカルは、一流の数学者・自然学者らと対等に議論を交わし、計算機を発明したり、また今日の乗合バスの原点とも言える乗合馬車を考案したりしました。ただ、この頃から病気がちになり、一生そのために苦しむことになります。
病気の悪化にともない、医者にすすめられ、1650年頃から気ばらしに社交界に出入するようになります。ここで彼は「人間の世界」の豊かさを発見するのです。科学の研究には有用な「幾何学の精神esprit géométrique」もここでは役に立たず、理数では割り切れない人間世界の複雑な現象を理解するためには「繊細の心l’esprit de finesse」が必要であることを痛感したのです。それまで理系の天才であったパスカルが、文系の思想家へと転じる契機がもたらされたと言えるでしょう。
かつて世間を騒がせたある教団の幹部に理系のエリートたちが数多く含まれていたことが話題になりました。「幾何学の精神」において優れていた彼らは、世界を単純に説明してくれる粗雑な教説を鵜呑みにしたのでしょう。しかし、人間の世界はかんたんに正解の出るものではありません。というより、そもそも単一の正解というものがないのであって、そこでは「繊細の心」こそが必要なのです。(以下次号)

名句の花束―フランス文学の庭から(5)

« Mon Nara » No 234, 2009年9‐10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(5)

三野博司(副会長)

Je pense, donc je suis.
我思う、故に我あり。
(デカルト『方法序説』 1637年)

いきなりヴァレリーの詩句から、やや高尚な趣で始まった「名句の花束」ですが、三つの Il faut + 不定詞のあとで、少し趣向を変えて、誰でも知っている有名な句をいくつか取り上げることにしましょう。
有名な句の定義をどこに置くかというのが問題となりますが、とりあえずは『広辞苑』や『広辞泉』に見出し語として掲げられているものということにしましょう。そこで、まずデカルトのこの句から。
『広辞苑』『広辞泉』ともに、「我思う、故に我あり」はラテン語の Cogito, ergo sum の訳であると説明され、さらに『広辞泉』には、「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」と、簡潔にして的確な説明がなされています。また、『広辞苑』『広辞泉』ともに、「コギト エルゴ スム」もまた見出し語として出ています。
ところが、こうしてラテン語とその日本語訳が広く認知されているのに対して、フランス語の Je pense, donc je suis. のほうは、なおざりにされたままなのです。そもそも、この句がフランス語によって初めて記されたということもあまり知られてはいません。
フランス語の初級文法を習い始めると、すぐにも登場する第1群基本動詞の一つである penserと基本動詞の être――その二つの動詞が直説法現在の一人称単数に活用していて、間に接続詞の donc があるだけ。なんとも単純な構造の文章ですが、しかし、単純なものほど深淵であるというのは、ここでも本当なのです。
デカルトはポワチエ大学の法学士となったあと、「世間という書物」で学ぶために旅に出て、オランダに居を定めて、1637年に3編の科学論文に添えて、その序文として『方法序説』Le Discours de la Méthode を発表します。Discours とは、ここでは論文と言うほどの意味ですが、つまりは Méthode (方法)についての論文。で、何の方法なのかというと、これが学問のための方法なのです。序文には、彼の意図が明確に示されています。「理性をよく導き、諸学において心理を見い出す」ための方法なのです。
さらに、デカルトはこう言い添えています。「婦女子にも理解のできる」生活の言葉で語ろうとしたのだと。この「婦女子にも理解のできる」言葉というのが、つまりはフランス語のことです。それまで学術書はラテン語で書くのが通例であったのが、デカルトはここではフランス語を用いて、フランス語が思想表現の器としても充分な力を有していることを実例をもって示したのです。
『方法序説』第l部は、このような宜言によって始まります。
「良識は、この世でいちばん公平に分け与えられているものである Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée.」
良識 bon sensとは、物事を正しく判断できる能力、すなわち理性のことであり、この理性をできるだけ完全に働かせて、そこに「明晰・判明」clair et distinctにうつる事柄だけを真と認めて、一歩一歩着実に進もうとするのがデカルトです.
何が真であるのかを吟味するため、すべてのものを疑った末に、デカルトが発見したのは次のことです。「このようにすべてが偽であると考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならない」。すなわち思考する自己の存在だけは疑い得ない確かなものであることを発見して、彼はこう述べるのです。「Je pense, donc je suis.私は考える、ゆえに私は存在する」
Je pense こそが Je suis の根拠となるのですが、この Je pense はいろいろ他のものに置き換えることもできるしょう。感覚の解放を発見した18世紀人なら「 Je sens, donc je suis. 私は感じる、ゆえに私は存在する」と言うかもしれませんし、人間の無意識さえも言語的に構造化されていると気づいた20世紀人なら「Je parle, donc je suis. 私は語る、ゆえに私は存在する」と言うかもしれません。
『星の王子さま』に登場する小惑星の住民ならどう言うでしょうか。王様なら「J’ordonne, donc je suis. わしは命令する、よってわしは存在するのじゃ」、呑んべえであれば「Je bois, donc je suis. おれは酒を飲む、だからおれは存在する」、そしてビジネスマンは「Je compte, donc je suis. おれは計算する、したがっておれは存在する」、また点灯夫は「J’allume, donc je suis. 僕は明かりを灯す、それで僕は存在している」……などと、言うことになるでしょう。
で、あなたは何と言いますか? Je , donc je suis. (問い:任意の動詞を直説法現在1人称単数に活用させて下線部に書き入れなさい)

名句の花束―フランス文学の庭から(4)

« Mon Nara » No 233, 2009年7‐8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(4)

三野博司(副会長)

Il faut imaginer Sisyphe heureux.
幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。(2)
(カミュ『シーシュポスの神話』 1942年)

『シーシュポスの神話 Le Mythe de Sisyphe』において展開されるのは不条理についての考察です。人生に超越的価値を見いだすことなく、生の無意味さそのものから、力業のようにして「反抗」「自由」「情熱」を引きだしたあと、カミュは「シーシュポスの神話」を語るのです。プレイアッド版のカミュ全集では、200頁にわたる哲学的考察に続いて、最後に5頁ほどの印象的なシーシュポスの物語が置かれています。
ギリシア神話のなかでは、人間のなかでもっとも狡猾な人として紹介されるシーシュポスですが、カミュのエッセイ『シーシュポスの神話』によって一挙に不条理の英雄となりました。彼は、神々に反抗したため、岩を山の頂まで繰り返し運び上げるという苦役を課せられます。しかし、オイディプスのように「すべてよし tout est bien」と断言して自らの運命を引き受けることによって、彼は運命を乗り越えるのです。そして、このエッセイは次のように結ばれます。

La lutte elle-même vers les sommets suffit remplir un cœur d’homme. Il faut imaginer Sisyphe heureux.

頂上をめざす闘いそれだけで人間の心を満たすのに十分なのだ。幸福なシーシュポスを想い描かなくてはならない。
このカミュの作品の初訳は1951年に刊行されて、そこでは『シジフォスの神話』と題されていました。フランス語ではシジフSisyphe ですが、シジフォス Sisyphosはローマ字によるギリシア名の転写です。1954年にこの訳は新潮文庫に入り、広く読まれましたが、1970年には他の訳者によって改訳され、そこでは訳題が『シーシュポスの神話』と改められました。シーシュポスはギリシア名をそのまま片仮名表記したものです。現在も新潮文庫には、この改訳が入っています。
ところでこの改訳のときに、Il faut imaginer Sisyphe heureux. は「幸福なシジフォスを思い描かねばならぬ」から、「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」に変更されました。新訳は全体にたいへん入念な仕事ぶりがうかがわれますが、私はかねてより、少なくともこの部分に関しては旧訳のほうが良かったのではないか、と思っています。
今回、何人かのフランス人にもたずねてみました。すなわち Il faut imaginer Sisyphe qui est heureux. なのか、それとも Il faut imaginer que Sisyphe soit heureux. なのかと。もっとも、これには、仏文→日本語訳→仏訳と二重の訳文の問題があり、そのあたりについては説明の補足が必要だったのですが、彼らの答えは、やはりここは旧訳のように訳すのがよいだろうとの返事でした。
新訳との相違をフランス語で明らかに示すため、やむなく旧訳を Sisyphe qui est heureux としましたが、これではやはり説明的すぎると思われます。これは、そのまま Sisyphe heureux でなければなりません。
つまり旧訳のように、「幸福なシジフォスを思い描かねばならぬ」であれば、「Sisyphe heureux 幸福なシジフォス」というものがまず観念的な実体として存在し、その完璧な姿を思い描くことに力を注ぐよう求められます。他方で「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」の場合は、シーシュポスと幸福との間にはまだ若干の距離があり、それを意志の力によって縮める義務が課せられます。新訳では、Sisyphe heureux というものが、一つのまとまりとして提示されないのです。
もうひとつこの句の妙味は imaginer (思い描く・想像する)にあると思います。新訳のように「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」としてしまうと、imaginer ではなく、penser や croire といった動詞でもよいことになってしまいます。そうではなくて、ここは「幸福なシーシュポス」を、生き生きとした image によって、具体的な姿として作り出すことが重要なのだと思います。そのとき「想像」はまさしく「創造」となるのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(3)

« Mon Nara » No 232, 2009年5‐6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(3)

三野博司(副会長)

Il faut imaginer Sisyphe heureux.
幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。
(カミュ『シーシュポスの神話』 1942年)

どうしてシーシュポスが幸福なのか、よくわからない気もするのですが、そうした曖昧さを越えて、ともかく幸福を力づくでも引き寄せようとする若きカミュの決意のようなものが感じられて、昔から好きな句です。
1970年代から90年代にかけて、京都で活動していた「関西モーツアルト協会」(浄守志郎会長)は、初期のころ、「モーツアルト」と題した機関誌を発行していました。そこに二つのエッセイを発表したことがあります。一つは「モーツアルトの白い光」と題して、特に『魔笛』を論じたものですが、その冒頭部分はこんな風でした。
「人はどうしても幸福に生きねばならない、と思われる瞬間がだれにでもある」
当時はあまり意識していませんでしたが、今から考えると、多分にカミュの句に影響されているような気がします。このエッセイは、そのあと川面にふりそそぐ陽光の描写を経て、『魔笛』に見いだされる白い光へと、かなり唐突に展開してしまいます。
このエッセイを書いたのは20歳前半でした。機関誌「モーツアルト」は5号まで出たあと消えてしまいましたが、その後も関西モーツアルト協会は存続して活動を続け、私も運営委員のひとりとしてわずかながら浄守会長のお手伝いをしたことがありました。ところが、1990年代に入ると、運営を一人で支えてきた会長が高齢となって、体調が思わしくなく、ついに協会は活動を停止するに至りました。それからにさらに数年が経過したころ、90年代の終わりだったと思います、ある日とつぜん、会長から電話がかかってきました。
浄守さんは、電話口でいきなり「わし、あんたのあの文章、モーツアルトの白い光、あのはじめの部分、暗唱しとんのや」と言われたのです。ながらく病床にあった彼は、春のうららかな陽光にさそわれて、娘さんの手を借りてそとへ出たのです。空からやさしく川面にふりそそぐ光を見て、私の文章が思い出されたというのです。
私のエッセイの主題は、死の世界から降りそそいでくる白い光、それをモーツアルトがみずからの死をまえにして作曲したオペラのなかに見いだそうとするものでした。20歳前半の若者が書いた死と救済に関するいかにも観念的な考察で、私はながいあいだ読み返すこともなく、すっかりそれを忘れてしまっていました。しかし、書いた本人がすでに過去のものとして忘却していたその文章を、人生においてさまざまな体験を経てきたあと、いま病苦と闘う老人がおぼえていて、電話をかけてきてくれたのです。私はありがたいと思うと同時に、とまどいを覚えました。
「人はどうしても幸福に生きねばならない、と思われる瞬間がだれにでもある。」
浄守さんも、そうした瞬間を実感されたのでしょうか。もし、私の拙い文章に、浄守さんの心のなかにとどまりつづけるだけの力あったとしたのなら、それはカミュから受け取ったものかもしれない……とも、私は考えたのです。
Il faut imaginer Sisyphe heureux. 幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。
これは、シーシュポスでなくてもかまわないのだろうと思います。Il faut imaginer …. heureux. だれでもいい、幸福なだれかを思い描かなければならない。それも自分のちからの及ぶかぎり、この世のあらゆる不幸にあらがって……、そうした力がこの句には感じられます。
アルベール・カミュ (Albert Camus, 1913-1960) は、フランス植民地時代のアルジェリアに生まれています。生後一年で第一次大戦が勃発し、父は動員され、マルヌの会戦で頭に砲弾を受けて29歳の若さで死亡します。母は残された2人の幼い息子を抱えて、アルジェの貧民街にある祖母の家へと身を寄せ、家政婦をして働きながら子どもを育てました。
父が不在の貧しい少年時代を過ごしましたが、そんな彼にとって地中海の燦然と輝く光が財産でした。そして、援助の手をさしのべてくれる人が現れます。小学校時代の恩師であるジェルマン先生は、少年カミュに中学校進学への道を開いてくれました。カミュはその後、アルジェ大学で哲学を学んだあと、さまざま職業に就きながら、文化運動に参加し、執筆活動を始めます。
第2次大戦が勃発した直後の1940年、彼はアルジェを去ってパリに赴き、「パリ・ソワ−ル」紙の記者となります。そして、1942年、ナチス占領下のパリで『異邦人』が刊行され、数か月後には哲学エッセイ『シーシュポスの神話』が発表されました。この2冊は大きな反響を呼び、無名の若者を一気に有名にしたのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(2)

« Mon Nara » No 231, 2009年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(2)

三野博司(副会長)

Il faut cultiver notre jardin.
私たちの庭を耕さなくてはなりません。
(ヴォルテール『カンディード』 1859年)

「名句の花束」という看板を掲げて始めたこの連載ですが、そもそも「名句」とは何でしょうか。古来「名句」として人口に膾炙している句は、短いまとまりをもつ一文が人生や世界についての真理を簡潔に要約して言い当てたり、作者の思想や作品のエッセンスを凝縮して表出していたり……と、すべからく名句となるにふさわしい資格を有してますが、それらを眺めていると、Il faut+不定詞の形を取るものがいくつか気がつきます。
なるほど、Il faut + 不定詞「~しなければならない」という、いわば定言的命令といった形式は、その反対の Il ne faut pas + 不定詞「~してはならない」という禁止命令とともに、むかしから掟、戒律、格率、箴言といったかたちで、私たちの行動を律する規範となってきました。
個人的なことを言うと、私としては「Il faut + 不定詞」は好きです。あまりそれにとらわれすぎて行動と判断の自在性を失ってはいけませんが、しかしともあれ、「Il faut +不定詞」は、さしあたっての生きていくべき方向性を示してくれます。
前回の Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! は、二つの句から成っていますが、この前段はいくらでも他の表現に置き換えることができます。風が立とうと、朝日が昇ろうと、小鳥がさえずろうと……、ちょっとした他人の親切に心動かされようと、きっかけはなんでもいいのです。ようするに、そのことが、後段の Il faut tenter de vivre ! を引き出す動因となれば、それでいいのですね。
で、今回とりあげるのは、18世紀の思想家ヴォルテールの哲学的コント『カンディード』の結びの句です。
Cela est bien dit, répondit Candide, mais il faut cultiver notre jardin.
「お説ごもっとも」とカンディードは答えた。「でもともかく、私たちの庭を耕さなくてなりません」
Voltaire ヴォルテールは筆名ですが、彼は17世紀末の1694年にパリの公証人の末子として生れました。そして、フランス大革命勃発11年前の1778年に亡くなっています。18世紀の大半を生き抜いて、あらゆるジャンルにおよぶ膨大な著作を残しましたが、50歳をすぎてから執筆した一連の短篇小説は俗に「哲学的コント」と呼ばれていて、今でも多くの読者に迎え入れられています。これは、彼が自分の思想をわかりやすく読者大衆に伝えるために好んで用いた形式で、難解な思想を風刺とイロニーに満ちた物語に託して表現することに成功しています。その代表作が、1759年に発表された『カンディードまたは最善説』です。
主人公の名前カンディード Candide は、フランス語で「純真な、無邪気な」を意味する形容詞に基づいています。ライプニッツの楽天主義を信じて疑わない家庭教師パングロスに「この世のすべては最善の状態にある」と教えこまれた純心な青年カンディードは、そのことを確かめるべく、恋人のキュネゴンドと一緒に世界を遍歴しますが、各地で幾多の辛酸をなめることになります。友人の哲学者マルティノンが「理屈を言わずに働きましょう。それだけが人生を耐えられるものにする唯一の途です」と言うように、人生おいてはけっして「すべては最善の状態」ではないけれど、勤勉がそれを耐えられるものにするのです。
そして、物語の最後では、庭の果物を売って平和に暮らすトルコの老人の姿にヒントを得て、カンディードは、「各人が自分の庭を耕やす」という悟りをえることになります。
ここには、作者ヴォルテール自身の社会観が読み取れます。私たちがなさねばならないこと(Il faut)は、私たちの庭(notre jardin)、すなわち身近な社会を、地道に改良すること(cultiver)なのです。私たちの庭であって、他人の庭ではありません。他人の庭まで耕すことは、無用なお節介というものなのでしょう。フランス革命まであと11年というときにヴォルテールは亡くなりましたが、彼が目指したのは、他人の庭まで耕してしまうような社会の根底的な変革、すなわち革命ではなくて、まずは自分の庭を耕すこと、自分の持ち場の外へと出ることなく、その範囲内での改良なのでしょう。
また、自分の庭を耕すというのは、王侯貴族のように他人に自分の庭を耕せてみずからは安逸な生活を送ることでもなければ、農奴のように他人の庭を耕すことを強いられて搾取されることでもありません。各自が自分の持ち場をしっかり管理するという、市民社会のモラルがそこに読み取れます。

名句の花束―フランス文学の庭から(1)

« Mon Nara » No 230, 2009年1‐2月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(1)

三野博司(副会長)

Le vent se lève. Il faut tenter de vivre !
風が立つ、生きようと試みなければならない!
(ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」 1923年)

かつてテレビドラマや映画にもなり話題をさらった渡辺淳一『失楽園』の最終章では、道ならぬ恋に身を焦がすふたりが死ぬことに心を決めて軽井沢へやって来ます。そこで、久木は突然堀辰雄の『風立ちぬ』の序曲を思いだし、「そんな或る日の午後……不意に、何処からともなく風が立った」と、うろ覚えの文章の先にポール・ヴァレリーの詩句が出てきて。「風立ちぬ、いざ生きめやも」などと呟くのです。
有島武郎と秋子の心中をモデルにして、軽井沢の別荘が死に場所と定められたあと、なぜともなく『風立ちぬ』が思いだされ、お膳立てを整えた禁断の恋の果ては、シャトー・マルゴーの中に青酸カリを入れ薔薇色の死の世界へ旅立っていくという、あまりといえばあまりな設定ではありますが。それはさておき、このヴァレリーの詩句について解説してみましょう。
まずは、『失楽園』では、こう述べています。「しかし、<生きめやも>は、<さあ、生きていこう>というほどの意味で、これからの死の旅へ向かう二人には、必ずしも相応しくはないが、この詠嘆の言葉のなかには、意味とは裏腹に、生気というよりは静かな諦観というか、生も死も見据えた成熟の秋の気配がある」
たしかに、私たちが「Il faut… (~しなければならない)」と、あえて言揚げするときは、ある種の精神の緊張と、ときにはいささかの力みさえともなって、困難な状況に逆らって前進しようとするわけですから、「生きようと試みなければならない」とわざわざ宣言するそのことばの裏には、死への誘惑がすでに潜んでいるといえます。
とはいえ、ヴァレリーの詩にあるのは、「ともに抱き合ったまま、一緒に死ぬにはどうすればいいのか」という『失楽園』の二人が心を砕いた課題ではなく、もっと哲学的な死の瞑想なのです。
Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! とつぶやくとき、目に浮かぶのは、軽井沢の木立の緑色ではなく、燦然とふりそそぐ陽光のもと、はるかに広がる地中海の紺碧色です。
ポール・ヴァレリー Paul Valéryは、1871年、すなわちフランス第三共和制成立の年、南フランスの港町Sète セートに生まれました。同年に誕生したのはマルセル・プルーストであり、2年前の1879年にはアンドレ・ジッドが、3年前の1878年にはポール・クローデルが生まれています。ほぼ同時期に生まれたこの四人は、そろって詩人マラルメの影響下に文学的青春を送り、20世紀のフランス文学の牽引者となっていきます。
ヴァレリーは、21歳のときに「ジェノヴァの一夜」と呼ばれる精神の危機を体験し、愛、詩などいっさいの「愚かしい」ものと絶縁する決心を固め、以後純粋精神の探求へと向かっていきます。このあたり、われわれ凡人にはわかりづらいのですが、高度な知性の持ち主にはこの世のさまざまな現象が「あいまい」で「いい加減な」ものと思われたため、いっそう明晰で厳密なる体系を求めたということでしょうか。
そして、24歳と25歳のときに、二つの散文作品『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』と、『テスト氏との一夜』を発表したあとは、ほとんど何も発表せず、20年間沈黙を守ります。ただ、そのあいだも毎朝「手帖Cahiers」を書き続けて、知性の営みを局限まで追求したところに彼の真骨頂が見られます。どこにも発表せず、だれにも読まれない膨大な原稿を20年間書き続けるなどというのは、並はずれた精神力がなければ不可能でしょう。
ところが、ヴァレリーは縁あって1917年に長詩『若きパルク』を刊行することになり、賛辞とともに詩人として復帰したあと、続いて1922年に詩集『魅惑Charmes』を発表します。このなかに収められた「海辺の墓地Le Cimetière marin」は、ヴァレリーの詩のなかでもっともよく知られたものです。詩人が生まれ育ったセートの墓地を舞台に、そこから望む正午の海を前にして、生と死についての瞑想が展開されます。
この詩の冒頭には、ピンダロスの一句「愛する魂よ、不滅の生をねがうな、力およぶことをきわめよ」が掲げられています。のちにアルベール・カミュがこの同じ句を、哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』の冒頭に掲げることになりますが、彼らはともに、偶像と不滅を否定しこの世の生への意志を力強くうたいあげるのです。
「海辺の墓地」は24節からなる詩篇です。「鳩たちが歩んでいる、この静かな屋根は」と、うたいだされますが、「屋根」とは細かに波うつ海面であり、「鳩」はそこにむらがる漁船です。詩人は正午の地中海を眺めつつ、墓地に眠る死者たちへ思いをはせ、死の哲学的瞑想にふけります。しかしながら、最後にはうつろいゆく存在としての己れの運命を受け入れ、現世と現在時に生きようと決意するのです。そのとき、その決意に呼応するかのように、にわかにまき起こった風と波が、生の賛歌となって〈非在〉をうち破ります。
Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! 風が立つ、生きようと試みなければならない!
墓地においてこそ生への意志をうたいあげるこの詩には、Il faut… という表現がきわめてふさわしく感じられます。
現在、ヴァレリーの生地セートには、港町のはずれ、海を見下ろす丘の上に「海辺の墓地」と呼ばれる墓地があり、詩人自身もここに眠っています。私は、かつて二度、そこを訪れたことがあります。
二度目は1992年、夏季フランス語研修に参加した日本人グループの引率として、近くの大学都市モンペリエに滞在した折でした。週末に、ほとんどが東京の女子高校生と女子大生からなる18名を案内して、海辺の墓地を訪れました。彼女たちは、お墓に入るならこんなところに埋めて欲しいな……などと言いながら、ヴァレリーの墓詣ではかんたんにすませて、地中海をうっとりと眺めやるのでした。
一度目は、その4年前の1988年、ひとりでラングドック地方を旅したときのことです。日の暮れかかる時刻に、海岸線をたどるようにして歩き続けたあと、裏門から墓地に入り、ヴァレリーの墓がどこにあるかわからず迷っていると、声をかけてくれた老婦人がありました。教えられるままに小径をたどって、目的の墓へとたどりつき、さて町のほうへ帰ろうすると、まだとある墓の前にたたずんでいたその老婦人とふたたび出会ったのです。
「町へ帰るんでしょう? 一緒に行きましょう」と、彼女は声をかけてくれました。自己紹介まじりの世間話のような会話を交わしたあと、やがて婦人はこんな話をしてくれたのです。
彼女は夫と一緒に、フランス中部の大都市リヨンに住んでいました。でも、南フランスのこの地中海沿いの小さな町セートがとても気に入って、定年になって仕事をやめたら、ここに移り住もうと約束を交わして、そのことを楽しみにしてコツコツをお金をためていたのでした……。ところが、定年を前にして夫が先に亡くなってしまいます。彼女は夫の亡骸を、彼があれほど住むことを望んでいた町にある、この海辺の墓地に埋葬しました。そして、普段はリヨンに住みながら、夏のヴァカンスのあいだだけ、この町に家を借りて住み、毎日墓参に訪れているのでした。
そんな話を聴きながら、町なかに着くと、私は婦人と別れて、駅前の小さなホテルに戻りました。翌朝目覚めると、この町を去るまえにもう一度だけ海辺の墓地を訪れたくなって、列車の発車時刻を気にしながら、海辺へと急ぎました。墓地の門をくぐり抜けると、目にとびこんできたのは地中海の青い色、そして今朝も墓地の前にたたずむ婦人の姿でした。