名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(15)

« Mon Nara » No 244, 2011年5 – 6月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(15)

三野博司(副会長)

Car tout est bien.
なぜならすべては善であるからだ
(ヴォルテール『カンディード』 1759年)

ジロドゥー、スタンダール、ラシーヌ……と、恋にまつわる名句を取り上げてきましたが、今回はしばし中断して、ふたたびヴォルテール『カンディード』の登場です。「名句の花束」第2回において、「Il faut cultiver notre jardin. 私たちの庭を耕さなくてはなりません」という、この哲学コントを締めくくる句を取り上げました。 1759年に発表されたこの作品は、全30章からなる青年カンディードとその家庭教師パングロスによる世界遍歴の物語ですが、第5章の冒頭で、2人がポルトガルのリスボンに上陸する場面があります。船が沈没し、一枚の板にすがり、ようやく浜辺にたどり着いたあと、2人はリスボンをめざして歩きます。ところが……
「2人が町に足を踏み入れると、たちまち足元で大地が揺れるのを感じた。港の海水はあわだって高く盛り上がり、停泊中の船を砕いた。火焔と灰の渦が町の通りや広場を覆いつくし、家々は崩れ落ち、屋根は建物の土台にまで落下し、土台は散乱し、3万人の老若男女の住民が廃墟の下敷きになって押し潰された」
これが、歴史上名高い1755年11月1日のリスボン大地震の描写です。地震の少ないヨーロッパで起ったこの事件は、フランスを始めとする諸国にも大きな衝撃を与えました。ヴォルテールは、当時の雑誌や書籍からの情報に基づいて、この場面を書いたと言われています。
11月1日はカトリックでは諸聖人の祝日であり、この日の朝9時40分、ミサの最中に突如地震が発生しました。これにより基盤がもろくなった建物は、続いて起こった第2の揺れによってたちまち瓦解してしまい、狭い路地も塞がれて、多数の犠牲者を出すことになります。
地震のあとは津波でした。約40分後には高さ6メートルの大津波がリスボンを襲います。入り江は奥にいくほど水深が浅く、水面幅が狭くなるため、そこに入り込んだ津波はいっそう勢いを増大することが知られています。リスボンの街もまた、大西洋に注ぐテージョ川河口から入江状に約12キロメートル入り込んだ場所にあり、そのため津波は大きく高くなったのです。津波は町を2回襲い、死者の数は1万人に上ったといわれます。
さらに大火災が追い打ちをかけます。リスボンの町の至るところで火の手があがり、3日間燃え続け、リスボンは焼き尽くされました。
ヴォルテールは『カンディード』において、死者3万人と書いていますが、別の記録ではリスボンの人口27万5,000人のうち1/3の最大9万人が死亡したと報告されています。敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜカトリックの祝祭日のミサの最中に大地震の直撃を受けて、多くの聖堂もろとも破壊されたのか? この出来事は、当時の多くのヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い衝撃を与えたのです。
ヴォルテールもまた、この世は神の摂理によって最善のものとして作られていると考えるライプニッツ流の楽天主義に対して、不信を抱くようになります。そうして書かれたのが『カンディードまたは最善説』です。
物語の先をたどりましょう。先ほどの地震の描写のあと、翌日2人は瓦礫のなかに潜り込んで食糧を見つけ、体力を回復します。そして、ここでも「この世のすべては最善の状態にある」と信じる家庭教師パングロスは、瓦礫に埋もれてたたずむ被災者たちを見て、事態はそれ以外にはありえないのだと言います。
「なぜならば、こうしたことはどれも最善であるからだ。なぜなら、リスボンに火山があるのは、その火山はほかの地には存在しえなかったからだ。なぜなら、事物が現にいまあるところに存在しないなどということは、ありえないないから。なぜならすべては善であるからだ。Car tout est bien.」
もちろん、このパングロスのことばは、震災と津波の甚大な被害を前にして空疎に響きます。『カンディード』は、そうした楽天的世界観を風刺した小説なのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(14)

« Mon Nara » No 243、 2011年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(14)

三野博司(副会長)

Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く (2)
(ラシーヌ『アンドロマック』 1667年)

幕があがると、そこはピリュスの宮殿の一室です。17世紀古典劇においては、悲劇の舞台は王侯貴族の宮殿の一室、喜劇はブルジョワ(市民)の屋敷の一室と決まっており、全5幕を通じて舞台転換はありません。これを場所の単一(unité)と言いますが、他にも時の単一(舞台上で起こる出来事は1日24時間以内)、筋の単一(物語の筋は一本で簡潔)があり、合わせて三つの単一の決まり事がありました。こうした厳しい制約のもとで、次々と傑作が書かれたのです。芸術における形式と内容の微妙なバランスの問題がここにあります。
『アンドロマック』の人物関係をまず整理しておくと、卜ロイ戦争で討ち死にしたエクトールの妻アンドロマックは、息子と共にピリュスのもとにとらわれの身となっています。彼女の愛の対象は亡き夫であり、そして夫の忘れ形見アスチヤナックスです。恋の情念の向かう先を矢印で示すと、(アンドロマック→エクトール=アスチヤナックス)となります。
他方でピリュスは、スパルタの王女エルミオーヌと婚約中であるにもかかわらず、美しい虜囚であるアンドロックに恋心を寄せています。(ピリュス→アンドロマック)。エルミオーヌはピリュスへの愛を抱きつづけますが(エルミオーヌ→ピリュス)、婚約者の不実に気づき始めています。幕が上がり、エクトールの子の引き渡しを求めてギリシア側から派遣されたオレストが登場しますが、実は、彼は愛するエルミオーヌの奪還を企んでいます(オレスト→エルミオーヌ)。
ここまでをまとめて示すと次のようになります。
オレスト→エルミオーヌ→ピリュス→アンドロマック→アスチヤナックス(エクトール)
おわかりのように、みごとな「片思い」の連鎖であり、これでは誰もが絶対幸せにはなれません。悲劇的結末は不可避なのです。
ピリュスは、自分との結婚を受け入れるようにアンドロマックに迫り、承諾しないならばアスチヤナックスをギリシアに引き渡すと脅します。アンドロマックは、「埋葬の儀礼もなされずに不名誉にも/祖国卜ロイの城壁のまわりを引きずりまわされたエクトールのことが忘れられようか?」(3幕)と悩むことになります。追いつめられたアンドロマックが選んだ解決策は、息子を救うために亡き夫への愛を一時的に裏切ること、そしてピリュスとの婚礼のあと自害することでした。こうして、アンドロマックは貞潔を守るために死へと向かい、ピリュスはオレストに殺され、オレストは狂気に陥り、エルミオーヌはみずからを刺して果てることになります。
これらの出来事が、わずか1日のうちに展開します。舞台上で起こる出来事は、太陽が一巡りする時間、すなわち1日24時間を越えてはならないという約束事に従うためです。そのために必要なことは、幕が上がったときに、登場人物たちの白熱した情念が最高度に達していることなのです。閉じられた空間に可燃物質の気体が充満していて、そこへわずかな火花が飛ぶと、たちまち大爆発を起こしてしまう、そういった状態にたとえてもいいでしょう。先ほどの「片思いの連鎖」は、すでにコップに満たされた水のように張りつめていて、あと一滴注がれると、たちまち溢れ出てしまいます。幕があがると、オレストがピリュスの館に到着したところです。これがきっかけとなって、物語は悲劇の結末へと向かって、なだれをうって展開して行くのです。
さて、名句ですが、これは第1幕4場、ピリュスの台詞です。
戦いに敗れ、鉄の鎖につながれて、悔やむ思いにやつれはて、
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く
Vaincu, chargé de fers, de regrets consumé,
Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
トロイ戦争で武勲をたてたピリュスですが、いま彼が苦闘しているのは恋の戦場であり、これはさしもの勇者とて、思うにまかせません。かつて自分がトロイで放った炎よりも、いっそう烈しく燃えさかる恋の情念に身を焦がすことになります。この炎(feux)とは、トロイ落城の火焔であると同時に身を焼くほむらであり、このように本来の意味と比喩的な意味を重ねて用いる「兼用語法Syllepse」の典型例として、この句は知られています。

名句の花束―フランス文学の庭から(13)

« Mon Nara » No 242, 2011年1‐2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(13)

三野博司(副会長)

Brûlé de plus de feux que je n’en allumai.
みずから放った炎よりも烈しい炎がこの身を焼く
(ラシーヌ『アンドロマック』 1667年)

身を焦がすほどに燃えさかる恋の情念のほむら、みずからの力では制御できない奔馬のごとき愛の衝動、それらを描いて一級品なのはラシーヌの悲劇でしょう。しかも、本来ことばにならないような感情を、すべて登場人物の「せりふ」だけで表現してしまうところがすごいです。演劇とは元来が総合芸術であって、付随音楽や効果音、照明の変化、舞台美術や小道具といった多様な表現手段を総動員して成り立っているものですが、フランス古典劇は基本的にはせりふだけ、役者の肉体が発するせりふだけに拠っています。
17世紀のフランスは、言語によって世界のすべてが表象できると確信するに至った時代なのです。このことは、ますます精緻になるヴァーチャルな映像の時代に生きている私たちには理解しがたいことかもしれません。手軽な映像が奔流のように溢れる時代には、ことばというものが本来的に有している爆発的な力は見えにくくなってしまっています。
当時のラシーヌ劇の観客たちは、舞台で俳優が発するせりふを聴くだけで、今日の3D映像が与えるよりも遙かに臨場感あふれる感動に身を震わせていた……と想像することができるでしょう。
というわけで、そのせりふ、すなわち台本を味読しましょう。
ジャン・ラシーヌJean Racine (l639-99) が生まれたのは、17世紀ルイ13世の御代です。1歳のとき母を亡くし、下級官吏だった父をも3歳のときに失い孤児となります。10歳からポール=ロワイヤル修道院付属の「小さな学校」で厳しい教育を受け、そこで古代ギリシア語や文学の魅力に目を開かれました。
1667年に上演された第3作目の悲劇『アンドロマック』が大成功を収め、劇作家としての名声が一気に高まります。この主役を演じたのがモリエール一座の名花で、コルネイユもモリエールも恋したといわれる女優マルキーズ・デュ・パルクです。ラシーヌは、彼女をモリエール一座から引き抜き、自分の作品に抜擢したのですが、当然この件によりモリエールとは不仲となりました。
このあたりの話は、ソフィー・マルソー主演の映画『女優マルキーズ』に描かれています。私の「フランス言語文化史概論」という名のフランス文学史を講じる授業は、近年ではまず4月の始めにこの映画の一部を見せることから始まります。
17世紀フランス、モリエールはパリで劇団を立ち上げたものの客入りが悪く、債権者に追われ、一座を引き連れて地方巡業に出かけます。この旅回りは1645年から13年も続くのですが、この修業がモリエール自身と劇団を成長させることになります。映画は、この一座がリヨンを訪れたところから始まります。貧民街に生まれた美しいマルキーズは、街頭で踊って日銭をかせぐ毎日でしたが、モリエール劇団によって見いだされます。幸いに劇団の看板役者グロ・ムネに求婚され、彼女は一座に加えられるのです。1658年モリエールは座長として一座を引き連れ勇躍パリに帰還し、ルーヴル宮殿のルイ14世の前で公演を許されますが、そこにはマルキーズも参加していました。この宮廷で、彼女は新進劇作家のラシーヌと出会うことになります。彼は、夫グロ・ムネの死の機会に乗じて、モリエール劇団の花形女優であったマルキーズを、自作『アンドロマック』に主演させたのです。
アンドロマック(アンドロマケー)とは、トロイ戦争で非業の死を遂げたトロイの英雄ヘクトール(エクトール)の妻の名です。すでに「名句の花束」では、ジロドゥー『トロイ戦争は起こらないだろう』を取り上げたときに、この古代ギリシアの有名な戦いに触れました。ジロドゥーにおいては戦争が始まるまでの交渉と駆け引きがドラマの主筋でしたが、ラシーヌでは戦争の後日譚が展開されます。すなわち戦争に生き残った勝者と敗者の物語なのです。フランス古典劇の伝統に従って舞台は全5幕を通じて変わらず、ギリシア軍の英雄のひとりであったアキレイウスの子ピリュスの宮殿の一室です。この宮殿に、敗軍の亡き戦士の妻であるアンドロマックが美しき囚われ人となっています。そして幕が上がると……詳細は次回に。

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

« Mon Nara » No 241, 2010年11‐12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (2)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

パリに戻ったスタンダールは、1822年『恋愛論De l’Amour』を発表しますが、11年間で17冊しか売れなかったと言われています。それではと、1833年にこんどは表紙を変えて第2版として出しましたが、やはりまったく反応がなかったようです。「この本は神聖なんですかね。誰も相手にしませんよ」と言った出版人のことばを、スタンダールが伝記のなかに記しています。
たしかに神聖だったのかもしれません。この著作の第1章で、スタンダールは恋愛を4種類に分けています。「1、情熱恋愛。2、趣味恋愛。3、肉体恋愛。4、虚栄恋愛」ですが、彼が一番上位に置いたのが、情熱恋愛であることは言うまでもありません。そして、他の三つの恋愛がいかにつまらないかを力説するために、エネルギーを投入するのです。
いよいよ第2章、有名な恋の生成過程を語る箇所があらわれます。
「恋の7つの時期をもう一度要約しよう。1.感嘆。2.(あの人に接吻し、接吻されたらどんなにうれしいだろう云々。)3.希望。4.恋が生まれた。5.最初の結晶作用。6.疑惑があらわれる。7.第2の結晶作用」
ここで、二度にわたってあらわれる「結晶作用cristallisation」について、スタンダールは次のように解説しています。
「ザルツブルクの塩坑で、冬に葉の散った木の1本の小枝を廃坑の奥に投げ込む。2、3か月後に取り出してみると、枝はきらきらした結晶でおおわれている。一番小さな枝、せいぜい四十雀の脚ほどしかない枝までが、ゆれてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はもうわからない」
ザルツブルクはオーストリアの町。モーツアルトの生まれた町であり、毎年夏には有名な音楽祭が開催されます。モーツアルティアン憧れの聖地ですが、私はかつて6月に一度訪れただけです。ミラベル宮殿での小さなコンサートが印象的でした。またここは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった町でもあります。私が訪れたときは、「サウンド・オブ・ミュージック」ツアーなるものに参加して、映画の舞台となった場所をミニ・バスで巡る企画があり、それも楽しいものでした。
Salzburg は、その名の通り「塩 Salz」の「町 Burg」であり、塩坑が近くにあります。かつて海底にあったアルプスが隆起して地上に現れたあと、閉じこめらた海水が蒸発して塩分が地中に蓄積され、それを採掘するために坑道が掘られました。第二次大戦中、ヒトラーはフランスの美術館などから収奪した多くの名画を、この坑道に秘匿しました。温度と湿度が美術品の保管に理想的だったといいます。
ところで、塩坑は恋の思いを育むにも理想的なのかもしれません。相手が目の前にいないときに、目の前にいないからこそ心の中でいくらでも美しく飾り立てることができます。塩の粒にすぎないものが、ダイヤモンドのようなきらめきとなって、恋の想念にまとわりついて、それをまばゆいばかりのイメージに仕立てあげます。これにはもちろん想像力の助けが必要です。さらにこの結晶作用は1度ならず、2度必要です。スタンダールは「疑惑があらわれる」と書いています。結晶作用が1度で完成してしまう幸せな人もいるのかもしれませんが、多くの場合疑惑は避けられません。ところが、その疑惑はさらに強い結晶作用を呼び起こすのです。こうして恋の想念は次第に強固なものとなっていきます。
しかし、スタンダールは恋に破れました。結晶作用はかならずしも恋を成就させる魔法の杖ではなかったのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

« Mon Nara » No 240, 2010年9‐10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (1)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

『恋愛論』などというタイトルの本を書くのは恋愛に失敗した者だけだ、というのが通説ですが、その代表格はスタンダールかもしれません。「愛の結晶作用」というなにやら神秘的響きさえもつ言葉で知られるこの著作は、作者の若き日の失恋体験から生まれました。
本名はアンリ・ベールHenri Beyle。1783年、アルプス山麓の町、グルノーブルに生れました。グルノーブルはスタンダール生誕の町として知られ、4つある大学の一つ(文学系の学部)はスタンダール大学と呼ばれています。3年前、日仏の大学長が集結して大学教育について討議する「日仏高等教育シンポジウム」がグルノーブル大学で開催され、専門委員の1人として出席するため、ひさしぶりにこの町を訪れました。自由時間に町を散策した折りには、かつての記憶を頼りにスタンダール記念館へ向かったのですが、行き着くと扉が閉ざされたままでした。あとで調べたところ、2004年末から閉鎖されているとのことでした。
パリに帰ったあと、ガリマール社を訪れて、作家のロジェ・グルニエさんと再会すると、いつものようにさまざまな文学的逸話を披露してくれました。その一つに、スタンダール記念館開館式のときに、グルノーブルの市長が招待を受けたにもかかわらず出席しなかったという話がありました。自分の生まれ故郷をなつかしく褒め称えて語る作家もいれば、呪詛するかのようにあしざまに描く作家もいます。スタンダールはあきらかに後者で、グルノーブルの悪口をあちこちに書いていますが、そのため市長が招待を断ったというのです。
グルノーブルだけではありません。フランスそのものをスタンダールは好んでいませんでした。そんな彼が熱愛したのがイタリアであり、ミラノです。パリのモンマルトル墓地にあるスタンダールの墓碑には、イタリア語で「アリゴ・ベイル(アンリ・ベールのイタリア語表記)、ミラノの人、書いた、愛した、生きた」と刻まれています。これは一部字の配列を変えているものの、スタンダール本人の書き残した遺書に従っており、彼自身がミラノの人として死ぬことを願っていたわけです。
19歳のとき、パリの理工科学校に入学を許可されたスタンダールは、故郷グルノーブルを去ってパリに向かいました。しかし、結局学校には一度も行かないまま、ナポレオン軍に加わってミラノに進入します。これが最初のミラノ体験であり,「世界にこんなところがあったのか!」と激しい感動に襲われました。彼は「偽善と気取りの国」であるフランスとは対照的な「情熱と自然らしさの国」イタリアを発見したのです。こうした国民性に関する性格付けはあまり根拠のないものでしょうし、奈良日仏協会会員としては全面的に同意するというわけにはいきませんが、それでも「偽善と気取り」は文化の洗練度の高さを示すものであると解釈した上で、スタンダールの言うことに納得できる部分もあります。それに当時イタリアは、ヨーロッパの文化人や知識人の憧憬の的でした。
こうして、スタンダールのイタリアに対する終生変らぬ愛が目ざめるのですが、このときの感動が、後に『パルムの僧院』の美しい冒頭に結晶することになります。最初のミラノ体験のあと、彼は軍職を辞してパリにしばらく滞在し、18l2年にはナポレオンのモスクワ遠征に参加し、火の海となった首都を目前にします。なんとかモスクワを脱出したスタンダールは、パリに戻りますが、帝政の瓦解とともに失職することになりました。しかし、これが彼の二度目のミラノ行きを決定するのです。1814年7月、あこがれの土地であると同時に生活費の安いミラノに移住します。ここから1821年まで、7年間におよぶ彼のミラノ生活が始まります。
ミラノのスタンダールは、音楽と美術を愛するディレッタントとして、さまざまな著作を発表しますが、18l8年には彼が「永遠の女性」と呼んだマチルダ・デンボウスキ夫人(メチルド)にかなわぬ恋をいだくことになります。ミラノ社交界で名をはせたこの貴婦人は、軍人の妻で、スタンダールと出会ったとき28歳でした。この体験が、パリに戻ってから発表した『恋愛論』De l’Amourに結実します。その詳細については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

« Mon Nara » No 239, 2010年7‐8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

三野博司(副会長)

Comme je l’aurais aimé !
あたしきっと好きになったのに!(2)
(ジロドゥー『オンディーヌ』 1939年)

『トロイ戦争は起こらないだろう』と並んで劇団四季のレパートリーとなっているジロドゥーの『オンディーヌ』は、前作から4年後の1939年4月27日、パリのアテネ劇場で初演されました。第二次世界大戦勃発の4か月前という緊迫した時期に劇作家が選んだ主題は、迫り来る戦争の予感につらぬかれた前作とは異なったものでした。高まる国際的緊張のなかで、ジロドゥーはむしろ彼の諦念を示すかのように、現実からは遊離したメルヘン仕立ての恋愛悲劇を書いたのです。
この作品は、ドイツ通のジロドゥーらしく、ドイツ・ロマン派の作家ラ・モット・フーケのメルヘン的小説『水の精(ウンディーネ)』に依拠しています。宇宙的精神の権化である水の精オンディーヌと、彼女をついに理解しえなかった人間の騎士ハンスとの悲劇を描いて、メルヘンの世界を人間の越えがたい宿命に支配された悲劇にまで高めました。
人間の男性と水の精の女性との結婚というこの話は、いわゆる異類婚姻譚の一つです。日本の昔話では、「鶴女房」「蛇女房」などのように、人間の男性がある日苦しんでいる動物を助けることになり、そのお返しにと、人間の姿に化身した動物が嫁にやって来るというパターンが多いですが、オンディーヌ伝説では妻となるのは動物ではなく水の精です。異類婚というのは、人間が人間ならぬものと結婚するという話ですが、そこには人間とそうでないものとの間に引かれた越えがたい一線を越えようとする願望、この宇宙の秩序のなかにある牢固とした仕切壁に風穴をあけたいという願望のようなものが感じとれます。そうしたことは物語のなかでこそ可能なのですが、しかし多くの場合は、物語のなかでさえも失敗におわるか、あるいは罰せられるという顛末を迎えます。
『オンディーヌ』の場合も、宇宙の掟に逆らってでも自分の恋をつらぬきたいという水の精(少女)の願望は、挫折することになります。第1幕、ある日、森に迷い込んだ騎士ハンスは、一軒の家を訪れ、もてなしを受けます。そこにあらわれたオンディーヌは、この人間の騎士を愛してしまうのです。第2幕では、人間界の宮廷に行ったオンディーヌが、そこでの生活になじめず、一方ハンスはオンディーヌに飽きて彼女を裏切ることになります。そして第3幕、水界の王は、約束にしたがってハンスの生命を奪い、それと同時にオンディーヌをあわれんで彼女の人間界でのいっさいの記憶を抹消します。
最後は、騎士の亡骸を前にしたオンディーヌの哀切きわまりない台詞によって幕となります。
Quel est ce beau jeune homme, sur ce lit… Qui est-il? […] Qu’il me plaît!…On ne peut pas lui rendre la vie? […] Comme c’est dommage! Comme je l’aurais aimé!
この美しい人は、この寝床の上の…だれなの?[…]あたし、この人好きだわ!…生き返らせてはやれないの?[…]残念だわ。この人が生きていれば、きっと好きになったのに。
オンディーヌは一時的に気を失い、意識を取り戻したときには人間界での記憶をなくしています。目の前に死んで横たわるハンスを見て、好きになりますが、しかし、それが誰であるかは思い出せません。最後のせりふは、Comme で始まる短い感嘆文が2つ続いて終わります。Comme je l’aurais aimé ! のほうは、動詞が条件法過去形に置かれています。仮定を示す条件文が省略された形と考えることができるので、それを補うと Comme je l’aurais aimé s’il avait vécu. となるでしょう。日本語に訳すときは「この人が生きていれば」を補う必要がありますが、フランス語では条件法過去形だけで、そのようなことが実際には不可能であることが示されるのです。
Comme c’est dommage ! 「残念だわ」とオンディーヌは言います。この騎士が死んでしまっていることを惜しむのですが、しかし、悲劇はそこにはありません。騎士とは違って生きながらえている彼女が、かつてこの騎士を愛したというたいせつな記憶をなくしている――それこそが悲劇なのです。

名句の花束―フランス文学の庭から(9)

« Mon Nara » No 238, 2010年5‐6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(9)

三野博司(副会長)

Comme je l’aurais aimé !
あたしきっと好きになったのに!(1)
(ジロドゥ『オンディーヌ』 1939年)

文学作品に見られる名句となれば,なんといっても数多いのは恋の歓び,いや苦しみや悲しさを表現したものでしょう。今回は,水の精オンディーヌが,幕切れで発する哀切きわまりない一句を取り上げます。
作者のジャン・ジロドゥ Jean Giraudoux (1882-1944) は,高等師範学校に学び,ドイツ文学,とくにロマン派に親しみました。フランス人作家のなかでも有数のドイツ通といってもいいかもしれません。1910年に外務省に入り,40年に退職するまで外務官僚として国の内外で活躍すると同時に精力的な執筆活動をおこないました。小説もいくつか書いていますが,や詩情と幻想性に富んだ戯曲によって名を残しています。
このジロドゥ劇を日本で上演し続けてきたのが劇団四季です。四季といえば,まずミュージカルを思い浮かべますが,そもそもは東京大学と慶應義塾大学の仏文科の学生であった浅利慶太や日下武史が創設した学生演劇集団でした。1953年に創立されたとき,彼らが上演を目指したのが,ジャン・ジロドゥやジャン・アヌイらフランス人作家の書いた戯曲です。なかでもジロドゥの『トロイ戦争は起こらないだろう』と『オンディーヌ』は,劇団四季におけるストレートプレイの代表的なレパートリとして,たびたび再演されています。先に上演されたのは『トロイ戦争は起こらないだろう』で,1957年のこと。結成からわずか数年の四季が若さと情熱を結集させて取り組み,当時としては未曾有の5000人という観客動員を達成し,創立わずか4年目の青年劇団としては空前の記録を打ち立てた記念すべき作品だと,劇団のウェブページには載っています。
物語は,トロイ戦争を知っている人にはおなじみのものです。トロイの王子パリスがギリシアの絶世の美女エレーヌ(ヘレナ)をさらってきたことが発端となります。この弟の軽率な行為がもたらす災禍をなんとか食い止めようと,兄エクトール(ヘクトール)は,エレーヌに帰国を勧めます。しかしながら,トロイの国王プリアムは戦争を望み,詩人デモコスは民衆の戦意をあおろうとするのです。
物語の終結に近い第2幕第13景における,エクトールとユリッス(オデュッセウス)の対決が山場となります。トロイとギリシア,それぞれの英雄による交渉のなかで,ユリッスはこう言います。
「ある国民が運命の機嫌をそこねるのは,罪を犯したからではなく,間違いをしたからだ。軍隊は強く,国庫は豊かで,詩人たちは高らかに歌う。ところがある日,なぜか分からないが,市民がこっそり木を切ったとか,王子が卑劣にも女をさらってきたとか,子供が悪ふざけをしたというだけで,運命に見放されてしまう。国も人間と同じように,ごくわずかな無礼がもとで,亡んでしまうのだ。Les nations, comme les hommes, meurent d’imperceptibles impolitesses.」
ユリッスによれば,運命が戦争をさせるべくギリシアとトロイを選んだのであり,もはや避けられないのです。そしてこのことば通り,一度回避できたかに見えた戦争は,トロイ市民の愚かな行為によって引き起こされてしまいます。
原題は « La guerre de Troie n’aura pas lieu » で,「起こらないだろう」と単純未来形の否定です。ところが,実際にトロイ戦争がなされたことはだれもが知っているし,舞台でもエクトールの尽力にもかかわらず戦争を迎えるところで幕が降ります。「起こらないだろう」は,エクトールの,ひいては作者ジロドゥの強い,しかしはかない希望なのです。
この戯曲が書かれたのは1935年で,ムッソリーニによるエチオピア侵略の年です。またこの2年前の1933年には隣国ドイツでナチスが政権を握り,着々と軍備を増強していた時期です。古代におけるギリシアとトロイの戦争を題材として取り上げながら,そこには迫り来るヨーロッパの戦争が予感されています。ジロドゥ特有のエスプリに富んだ華麗なセリフを駆使し,古代の英雄たちの世界を繰り広げつつ,同時代の悲劇を見据えたドラマが展開されます。
現実の歴史は,ジロドゥの芝居をなぞるように進行します。1938年,ミュンヘン協定によって一度は戦争が回避されたように見えながら,翌39年9月には第二次世界大戦が勃発します。ジロドゥがそこまで予見していたというよりも,むしろ運命というのはしばしばそのようなかたちで人間たちを翻弄するものだということなのでしょう。
劇団四季が『トロイ戦争は起こらないだろう』を初演した翌年の1958
年に,今度は『オンディーヌ』が上演され,これもその後劇団の重要なレパートリーになりました。今回も寄り道をしてしまいましたが,『オンディーヌ』については次号で。

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

« Mon Nara » No 237, 2010年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(3)
(パスカル『パンセ』 1670年)

(承前)パスカルの『パンセ』第一部「神なき人間の悲惨」のなかでも、もっとも有名な句は次のものでしょう。
L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ.だが、それは考える葦である。
まず人間の弱さを「葦」という卓抜なイメージによって提示したあと、 ne … que 「すぎない」と限定し、次には le plus faible 「一番弱い」という最上級によってその「弱さ」を強調します。ところが、mais 「しかし」のあとで、この reseau 「葦」に pensant 「考える」という現在分詞を付加することによってみごとに反転させるのです。
このあとは、次のように続いています。
「これを押しつぶすのに、全宇宙はなにも武装する必要はない.ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すのに十分だ.しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、これを殺すものより尊い.人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからだ.宇宙は、そんなことは何も知らない」
だから、とパスカルは言います。「わたしたちの尊厳のことごとくは、考えるということにあるのだ」。デカルトが「私は考える Je pense 」を存在証明の根拠に置いたように、パスカルもまた人間の尊厳を「考えること pensée 」のなかに見るのです。ただ、パスカルの場合、考えることがすなわちみずから死すべき存在であるのを知っていること――というのは、病弱でつねに死と向き合っていた彼らしいことばです。
もう一つ有名な句に「パスカルの賭」があります。『パンセ』はキリスト教の信仰を持たない人を信仰の道に導きいれることを目的として書かれたと、以前に述べました。そのための術策として、パスカルは「賭け」を提示します。果たして神はいるのか、いないのか、それはにわかには判断も、証明もできないのだから、これは一種の賭けなのです。ただし、この賭けでは「神はいない」と賭けるよりは「神はいる」と賭けた方が良い。なぜなら、そのことによって信仰を得て、心安らかに満ち足りたこの世の生活が送れるからです。ところが、実は「神はいない」かもしれない。しかし、ここからが大事なのですが、パスカルは、そのことによって失うものは何もないのだから、だめでももともとではないか、と言うのです。いわゆる「だめもと」ですが、これについて精神科医の中井久夫氏がたいへん興味深いことを述べています。
「悲観論は一般に容易に反駁されない構造を持っている.すなわち、これ自体が一つの陥穽である.これに対して楽観論というものは、非常に反駁されやすいものである. […] 悲観論が強固な場合は、無理にでも楽観論の立論可能性を探ってみるのがよいと思う.無理にでもというのは、一般に悲観論のほうが、一つの必然として精密に理論化しやすいということがあるからである」(『家族の深淵』)
悲観論に立つのはきわめてかんたんです。楽観論に立つのはむしろむずかしい。ただし、ここで言う楽観論は、現実を知らない、甘い夢想ではないということです。そうではなく、現実の状況をすべて冷静に認識した上で、意志の力によってあえて楽観論に立つこと。つまり気分による楽観論ではなく、意志による楽観論。そうした楽観論が、精神科の医者には必要であると、中井久夫は言います。
「実践的楽観主義というでもいうべきものが治療に必要であるとは、統計の示すところである.分裂病は治ると考えている医師の治癒率は、治らないと考えている医師の治癒率より確かに高い.おそらく、前者は好ましい芽を自説の確証と考え、悪化を一時的現象とみるであろう.後者は、逆に、改善を一時的現象とみるであろう.この違いが長期的には大きな差を生むとしても不思議ではない.これは、神の存在に賭けるほうが利益が大きいと説いたパスカルの賭けと同じ論理である」
たとえだめだとしても、もしそのことによって失うものが何もないのなら、あえてそれに賭けてみよう――この「だめでもともと」というパスカルの賭けには、大きな叡智が宿っているように思われます。

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

« Mon Nara » No 236, 2010年1‐2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(2)
(パスカル『パンセ』 1670年)

理系の天才だったパスカルは、文系の思想家へと変貌をとげる過程で、ジャンセニスムに出会い、次第にその信仰を深めていきました。ジャンセニスムは、カトリックによって異端とされたキリスト教信仰であり、当時の支配的教権であったイエズス会によって迫害を受けていたのです。パスカルはその短い生涯の晩年、イエズス会の攻撃に対して論戦によって戦いつつ、重い病に苦しみながら、62年8月19日、39歳で世を去ります。
そのとき、彼の枕元には、一千枚におよぶキリスト教弁証論の草稿の束がつみ重ねて残されていました。これは、信仰を持たない人々を信仰の道へと導き入れることを目的として書かれた草稿であり、友人たちによって編集されて『パンセ』Pensée と題され、1670年に初版が刊行されました。
全体は2部にわかれ、第1部は「神なき人間の悲惨」、第2部は「神とともなる人間の至福」を扱います。第l部では、神を見失った世界にさすらう人間というものがいかに惨めであるか、その姿が次々と迫力ある筆致と印象的なイメージによって描かれます。第2部では、神への信仰を得た人間の至福が、神学論の形で述べられます。……で、どちらがおもしろいかというと、天国の記述より地獄の描写のほうが私たちの目を惹きつけるように、やはり第1部に有名な句が多く含まれているようです。ダンテの『神曲』においても、神学論議の天国篇よりは、苦悩する人間たちがうごめく地獄篇のほうが魅力的ですが、それとちょっと似ているようにも思われます。
人間の悲惨を描いた有名な句の一つに、「クレオパトラの鼻」があります。これは「考える葦」とともによく知られており、いくつかの国語辞典に見出し語として掲載されていますが、もとの句は次のようなものです。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう」
Le nez de Cléopâtre, s’il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
クレオパトラは、プトレマイオス朝のエジプトの女王(前69-30)であり、ローマの英雄カエサルを誘惑したあと、将軍アントニウスとも結ばれた絶世の美女として知られています。
このパスカルの言葉の真意は、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、つまり彼女があれほどの美女でなかったなら、カエサルもアントニウスも心惹かれなかっただろうし、そうすれば古代ローマとエジプトの歴史も変わっていただろうというものです。一国の女王の美醜という実にたわいもないことによって、人類の歴史は左右されてしまう。それほど私たちの生きている世界は、不確かな根拠の上に成り立っている。そのことの例として、「クレオパトラの鼻」が持ち出されています。
ところで、この仏文について、2つのコメントを行っておきましょう。まず court という形容詞ですが、フランスでは、低い鼻のことを nez court (短い鼻)といいます。顔の表面からどれだけ突き出しているかの距離を、高低でとらえるか、長短でとらえるかの違いでしょう。次に、eût été は接続法大過去ですが、これは条件法過去第二形と呼ばれています。しかし、かといってこれが条件法過去の代わりに使われているのではなく、直説法大過去の代用なのです。つまりこの文章は次のように書き換えることができます。
s’il avait été plus court, toute la face de la terre aurait changé
過去において実現しなかったことの仮定を表す「Si + 直説法大過去、条件法過去」(もし~だったら、~だっただろうに)の構文において、主節の条件法過去が接続法大過去に置き換えられることがあり、これを条件法過去第二形と呼びます。この文例は多く見受けられます。ところが、同時に、従属節の直説法大過去が接続法大過去に置き換えられることもあり、この場合も同じく条件法過去第二形と呼んでいます(なんともややこしいですが)。しかも、こちらの文例はきわめて数少なく、その代表的なものが、この「クレオパトラの鼻」なのです。
かつては、大学で使われるフランス語の教科書にはきちんとこの「条件法過去第二形」まで載っていました。その後、こちらもどんどん「ゆとり教育」化されて、教科書の内容が簡単になって、今ではほとんど消えています。私の書いた文法参考書でも、『リュミエール』(その後改訂されて『新リュミエール』)ではこの「クレオパトラの鼻」を条件法過去第二形の例としてあげました。しかし、そのあとで作った『プチ・リュミエール』および『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』では省きました。
というわけで、なかなか「考える葦」にたどり着きませんが、以下次号。

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

« Mon Nara » No 235, 2009年11‐12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(1)
(パスカル『パンセ』 1670年)

デカルトの「Je pense, donc je suis われ思う、ゆえにわれあり」のあとは、同じく17世紀の思想家パスカルのこれまた有名な句、「考える葦roseau pensant」を取り上げましょう。ここには共通の動詞 penserが含まれています。デカルトでは「考える penser」が直説法現在一人称単数に活用していますが、パスカルのほうは現在分詞となっていて、これは関係代名詞を使って roseau qui pense とするよりもいっそう簡潔な形で、その分訴える力が強いように思われます。そもそも roseau と言う名詞と、penser という動詞、およそ類縁のない二つの語が並べられて、その意表を突く組み合わせが忘れがたい印象を残すのです。パスカルの巧みなレトリックです。
若き日のパスカルは理数系の天才でした。今日でもパスカルの定理(法則)――密閉した静止流体(液体または気体)は、その一部に受けた圧力を、増減なくすべての部分に伝達する――は、理科の教科書の中で説明されています。また、気圧の単位はかつてはミリバールと言っていましたが、1992年からはヘクトパスカルと呼んでいます。これは、大気圧の存在を証明したパスカルにちなんだ名称です。ガラス管に封じ込めた水銀柱によって、パスカルは真空と大気圧が実在することを証明しようとしました。パリのシャトレ劇場の近くにあるサン=ジャック塔の下にはパスカルの像があります。これは、1648年、パスカルがこの塔の上と下で水銀柱を立てて、高度によって大気圧が異なることを実証しようとしたことに由来します。
ヴォルヴィックVolvic というフランスのミネラル・ウォーターは日本でもあちこちで売られていますが、天頂が少しへこんだ帽子のような奇妙な形の山の絵が描かれています。これはピュイ・ド・ドームという山で、オーヴェルニュ県の、パスカルが生まれた町であるクレルモン=フェランのすぐ近くにあります。この山も、サン¬=ジャック塔と同じく、真空実験の場所でした。当時パリに居たパスカルは、義兄に頼んで、クレルモン=フェランの中央にあるジョド広場横の修道院と、ピュイ・ド・ドームの山頂で水銀柱を立てて、その高さが異なることを示す実験をやってもらったのです。
さて、ブレーズ・パスカル Baise Pascalは、1623年にオーヴェルニュ州のクレルモンに生れました。デカルトより28歳年下ということになります。3歳で母に死別し、姉妹とともに、父の手一つで育てられました。幼時から神童ぶりを示し人びとを感嘆させたといわれています。天才の息子を授かった父親の振る舞いについてはモーツアルトの場合が有名ですが、パスカルの父もそれほどでないとはいえ、やはり息子の才能をたいせつに育てようと、パスカルが6歳の時、一家をあげてパリへと移り住み、高度な教育を受けさせようとしたのです。今日、クレルモン¬=フェラン大学は、ブレーズ・パスカル大学と呼ばれています。しかしパスカルがこの町で過ごしたのは生後の6年だけでした。
パリへ出たパスカルは、一流の数学者・自然学者らと対等に議論を交わし、計算機を発明したり、また今日の乗合バスの原点とも言える乗合馬車を考案したりしました。ただ、この頃から病気がちになり、一生そのために苦しむことになります。
病気の悪化にともない、医者にすすめられ、1650年頃から気ばらしに社交界に出入するようになります。ここで彼は「人間の世界」の豊かさを発見するのです。科学の研究には有用な「幾何学の精神esprit géométrique」もここでは役に立たず、理数では割り切れない人間世界の複雑な現象を理解するためには「繊細の心l’esprit de finesse」が必要であることを痛感したのです。それまで理系の天才であったパスカルが、文系の思想家へと転じる契機がもたらされたと言えるでしょう。
かつて世間を騒がせたある教団の幹部に理系のエリートたちが数多く含まれていたことが話題になりました。「幾何学の精神」において優れていた彼らは、世界を単純に説明してくれる粗雑な教説を鵜呑みにしたのでしょう。しかし、人間の世界はかんたんに正解の出るものではありません。というより、そもそも単一の正解というものがないのであって、そこでは「繊細の心」こそが必要なのです。(以下次号)

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