名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(1)

« Mon Nara » No 230, 2009年1‐2月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(1)

三野博司(副会長)

Le vent se lève. Il faut tenter de vivre !
風が立つ、生きようと試みなければならない!
(ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」 1923年)

かつてテレビドラマや映画にもなり話題をさらった渡辺淳一『失楽園』の最終章では、道ならぬ恋に身を焦がすふたりが死ぬことに心を決めて軽井沢へやって来ます。そこで、久木は突然堀辰雄の『風立ちぬ』の序曲を思いだし、「そんな或る日の午後……不意に、何処からともなく風が立った」と、うろ覚えの文章の先にポール・ヴァレリーの詩句が出てきて。「風立ちぬ、いざ生きめやも」などと呟くのです。
有島武郎と秋子の心中をモデルにして、軽井沢の別荘が死に場所と定められたあと、なぜともなく『風立ちぬ』が思いだされ、お膳立てを整えた禁断の恋の果ては、シャトー・マルゴーの中に青酸カリを入れ薔薇色の死の世界へ旅立っていくという、あまりといえばあまりな設定ではありますが。それはさておき、このヴァレリーの詩句について解説してみましょう。
まずは、『失楽園』では、こう述べています。「しかし、<生きめやも>は、<さあ、生きていこう>というほどの意味で、これからの死の旅へ向かう二人には、必ずしも相応しくはないが、この詠嘆の言葉のなかには、意味とは裏腹に、生気というよりは静かな諦観というか、生も死も見据えた成熟の秋の気配がある」
たしかに、私たちが「Il faut… (~しなければならない)」と、あえて言揚げするときは、ある種の精神の緊張と、ときにはいささかの力みさえともなって、困難な状況に逆らって前進しようとするわけですから、「生きようと試みなければならない」とわざわざ宣言するそのことばの裏には、死への誘惑がすでに潜んでいるといえます。
とはいえ、ヴァレリーの詩にあるのは、「ともに抱き合ったまま、一緒に死ぬにはどうすればいいのか」という『失楽園』の二人が心を砕いた課題ではなく、もっと哲学的な死の瞑想なのです。
Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! とつぶやくとき、目に浮かぶのは、軽井沢の木立の緑色ではなく、燦然とふりそそぐ陽光のもと、はるかに広がる地中海の紺碧色です。
ポール・ヴァレリー Paul Valéryは、1871年、すなわちフランス第三共和制成立の年、南フランスの港町Sète セートに生まれました。同年に誕生したのはマルセル・プルーストであり、2年前の1879年にはアンドレ・ジッドが、3年前の1878年にはポール・クローデルが生まれています。ほぼ同時期に生まれたこの四人は、そろって詩人マラルメの影響下に文学的青春を送り、20世紀のフランス文学の牽引者となっていきます。
ヴァレリーは、21歳のときに「ジェノヴァの一夜」と呼ばれる精神の危機を体験し、愛、詩などいっさいの「愚かしい」ものと絶縁する決心を固め、以後純粋精神の探求へと向かっていきます。このあたり、われわれ凡人にはわかりづらいのですが、高度な知性の持ち主にはこの世のさまざまな現象が「あいまい」で「いい加減な」ものと思われたため、いっそう明晰で厳密なる体系を求めたということでしょうか。
そして、24歳と25歳のときに、二つの散文作品『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』と、『テスト氏との一夜』を発表したあとは、ほとんど何も発表せず、20年間沈黙を守ります。ただ、そのあいだも毎朝「手帖Cahiers」を書き続けて、知性の営みを局限まで追求したところに彼の真骨頂が見られます。どこにも発表せず、だれにも読まれない膨大な原稿を20年間書き続けるなどというのは、並はずれた精神力がなければ不可能でしょう。
ところが、ヴァレリーは縁あって1917年に長詩『若きパルク』を刊行することになり、賛辞とともに詩人として復帰したあと、続いて1922年に詩集『魅惑Charmes』を発表します。このなかに収められた「海辺の墓地Le Cimetière marin」は、ヴァレリーの詩のなかでもっともよく知られたものです。詩人が生まれ育ったセートの墓地を舞台に、そこから望む正午の海を前にして、生と死についての瞑想が展開されます。
この詩の冒頭には、ピンダロスの一句「愛する魂よ、不滅の生をねがうな、力およぶことをきわめよ」が掲げられています。のちにアルベール・カミュがこの同じ句を、哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』の冒頭に掲げることになりますが、彼らはともに、偶像と不滅を否定しこの世の生への意志を力強くうたいあげるのです。
「海辺の墓地」は24節からなる詩篇です。「鳩たちが歩んでいる、この静かな屋根は」と、うたいだされますが、「屋根」とは細かに波うつ海面であり、「鳩」はそこにむらがる漁船です。詩人は正午の地中海を眺めつつ、墓地に眠る死者たちへ思いをはせ、死の哲学的瞑想にふけります。しかしながら、最後にはうつろいゆく存在としての己れの運命を受け入れ、現世と現在時に生きようと決意するのです。そのとき、その決意に呼応するかのように、にわかにまき起こった風と波が、生の賛歌となって〈非在〉をうち破ります。
Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! 風が立つ、生きようと試みなければならない!
墓地においてこそ生への意志をうたいあげるこの詩には、Il faut… という表現がきわめてふさわしく感じられます。
現在、ヴァレリーの生地セートには、港町のはずれ、海を見下ろす丘の上に「海辺の墓地」と呼ばれる墓地があり、詩人自身もここに眠っています。私は、かつて二度、そこを訪れたことがあります。
二度目は1992年、夏季フランス語研修に参加した日本人グループの引率として、近くの大学都市モンペリエに滞在した折でした。週末に、ほとんどが東京の女子高校生と女子大生からなる18名を案内して、海辺の墓地を訪れました。彼女たちは、お墓に入るならこんなところに埋めて欲しいな……などと言いながら、ヴァレリーの墓詣ではかんたんにすませて、地中海をうっとりと眺めやるのでした。
一度目は、その4年前の1988年、ひとりでラングドック地方を旅したときのことです。日の暮れかかる時刻に、海岸線をたどるようにして歩き続けたあと、裏門から墓地に入り、ヴァレリーの墓がどこにあるかわからず迷っていると、声をかけてくれた老婦人がありました。教えられるままに小径をたどって、目的の墓へとたどりつき、さて町のほうへ帰ろうすると、まだとある墓の前にたたずんでいたその老婦人とふたたび出会ったのです。
「町へ帰るんでしょう? 一緒に行きましょう」と、彼女は声をかけてくれました。自己紹介まじりの世間話のような会話を交わしたあと、やがて婦人はこんな話をしてくれたのです。
彼女は夫と一緒に、フランス中部の大都市リヨンに住んでいました。でも、南フランスのこの地中海沿いの小さな町セートがとても気に入って、定年になって仕事をやめたら、ここに移り住もうと約束を交わして、そのことを楽しみにしてコツコツをお金をためていたのでした……。ところが、定年を前にして夫が先に亡くなってしまいます。彼女は夫の亡骸を、彼があれほど住むことを望んでいた町にある、この海辺の墓地に埋葬しました。そして、普段はリヨンに住みながら、夏のヴァカンスのあいだだけ、この町に家を借りて住み、毎日墓参に訪れているのでした。
そんな話を聴きながら、町なかに着くと、私は婦人と別れて、駅前の小さなホテルに戻りました。翌朝目覚めると、この町を去るまえにもう一度だけ海辺の墓地を訪れたくなって、列車の発車時刻を気にしながら、海辺へと急ぎました。墓地の門をくぐり抜けると、目にとびこんできたのは地中海の青い色、そして今朝も墓地の前にたたずむ婦人の姿でした。