名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(3)

« Mon Nara » No 232, 2009年5‐6月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(3)

三野博司(副会長)

Il faut imaginer Sisyphe heureux.
幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。
(カミュ『シーシュポスの神話』 1942年)

どうしてシーシュポスが幸福なのか、よくわからない気もするのですが、そうした曖昧さを越えて、ともかく幸福を力づくでも引き寄せようとする若きカミュの決意のようなものが感じられて、昔から好きな句です。
1970年代から90年代にかけて、京都で活動していた「関西モーツアルト協会」(浄守志郎会長)は、初期のころ、「モーツアルト」と題した機関誌を発行していました。そこに二つのエッセイを発表したことがあります。一つは「モーツアルトの白い光」と題して、特に『魔笛』を論じたものですが、その冒頭部分はこんな風でした。
「人はどうしても幸福に生きねばならない、と思われる瞬間がだれにでもある」
当時はあまり意識していませんでしたが、今から考えると、多分にカミュの句に影響されているような気がします。このエッセイは、そのあと川面にふりそそぐ陽光の描写を経て、『魔笛』に見いだされる白い光へと、かなり唐突に展開してしまいます。
このエッセイを書いたのは20歳前半でした。機関誌「モーツアルト」は5号まで出たあと消えてしまいましたが、その後も関西モーツアルト協会は存続して活動を続け、私も運営委員のひとりとしてわずかながら浄守会長のお手伝いをしたことがありました。ところが、1990年代に入ると、運営を一人で支えてきた会長が高齢となって、体調が思わしくなく、ついに協会は活動を停止するに至りました。それからにさらに数年が経過したころ、90年代の終わりだったと思います、ある日とつぜん、会長から電話がかかってきました。
浄守さんは、電話口でいきなり「わし、あんたのあの文章、モーツアルトの白い光、あのはじめの部分、暗唱しとんのや」と言われたのです。ながらく病床にあった彼は、春のうららかな陽光にさそわれて、娘さんの手を借りてそとへ出たのです。空からやさしく川面にふりそそぐ光を見て、私の文章が思い出されたというのです。
私のエッセイの主題は、死の世界から降りそそいでくる白い光、それをモーツアルトがみずからの死をまえにして作曲したオペラのなかに見いだそうとするものでした。20歳前半の若者が書いた死と救済に関するいかにも観念的な考察で、私はながいあいだ読み返すこともなく、すっかりそれを忘れてしまっていました。しかし、書いた本人がすでに過去のものとして忘却していたその文章を、人生においてさまざまな体験を経てきたあと、いま病苦と闘う老人がおぼえていて、電話をかけてきてくれたのです。私はありがたいと思うと同時に、とまどいを覚えました。
「人はどうしても幸福に生きねばならない、と思われる瞬間がだれにでもある。」
浄守さんも、そうした瞬間を実感されたのでしょうか。もし、私の拙い文章に、浄守さんの心のなかにとどまりつづけるだけの力あったとしたのなら、それはカミュから受け取ったものかもしれない……とも、私は考えたのです。
Il faut imaginer Sisyphe heureux. 幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。
これは、シーシュポスでなくてもかまわないのだろうと思います。Il faut imaginer …. heureux. だれでもいい、幸福なだれかを思い描かなければならない。それも自分のちからの及ぶかぎり、この世のあらゆる不幸にあらがって……、そうした力がこの句には感じられます。
アルベール・カミュ (Albert Camus, 1913-1960) は、フランス植民地時代のアルジェリアに生まれています。生後一年で第一次大戦が勃発し、父は動員され、マルヌの会戦で頭に砲弾を受けて29歳の若さで死亡します。母は残された2人の幼い息子を抱えて、アルジェの貧民街にある祖母の家へと身を寄せ、家政婦をして働きながら子どもを育てました。
父が不在の貧しい少年時代を過ごしましたが、そんな彼にとって地中海の燦然と輝く光が財産でした。そして、援助の手をさしのべてくれる人が現れます。小学校時代の恩師であるジェルマン先生は、少年カミュに中学校進学への道を開いてくれました。カミュはその後、アルジェ大学で哲学を学んだあと、さまざま職業に就きながら、文化運動に参加し、執筆活動を始めます。
第2次大戦が勃発した直後の1940年、彼はアルジェを去ってパリに赴き、「パリ・ソワ−ル」紙の記者となります。そして、1942年、ナチス占領下のパリで『異邦人』が刊行され、数か月後には哲学エッセイ『シーシュポスの神話』が発表されました。この2冊は大きな反響を呼び、無名の若者を一気に有名にしたのです。