名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(4)

« Mon Nara » No 233, 2009年7‐8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(4)

三野博司(副会長)

Il faut imaginer Sisyphe heureux.
幸福なシーシュポスを思い描かなければならない。(2)
(カミュ『シーシュポスの神話』 1942年)

『シーシュポスの神話 Le Mythe de Sisyphe』において展開されるのは不条理についての考察です。人生に超越的価値を見いだすことなく、生の無意味さそのものから、力業のようにして「反抗」「自由」「情熱」を引きだしたあと、カミュは「シーシュポスの神話」を語るのです。プレイアッド版のカミュ全集では、200頁にわたる哲学的考察に続いて、最後に5頁ほどの印象的なシーシュポスの物語が置かれています。
ギリシア神話のなかでは、人間のなかでもっとも狡猾な人として紹介されるシーシュポスですが、カミュのエッセイ『シーシュポスの神話』によって一挙に不条理の英雄となりました。彼は、神々に反抗したため、岩を山の頂まで繰り返し運び上げるという苦役を課せられます。しかし、オイディプスのように「すべてよし tout est bien」と断言して自らの運命を引き受けることによって、彼は運命を乗り越えるのです。そして、このエッセイは次のように結ばれます。

La lutte elle-même vers les sommets suffit remplir un cœur d’homme. Il faut imaginer Sisyphe heureux.

頂上をめざす闘いそれだけで人間の心を満たすのに十分なのだ。幸福なシーシュポスを想い描かなくてはならない。
このカミュの作品の初訳は1951年に刊行されて、そこでは『シジフォスの神話』と題されていました。フランス語ではシジフSisyphe ですが、シジフォス Sisyphosはローマ字によるギリシア名の転写です。1954年にこの訳は新潮文庫に入り、広く読まれましたが、1970年には他の訳者によって改訳され、そこでは訳題が『シーシュポスの神話』と改められました。シーシュポスはギリシア名をそのまま片仮名表記したものです。現在も新潮文庫には、この改訳が入っています。
ところでこの改訳のときに、Il faut imaginer Sisyphe heureux. は「幸福なシジフォスを思い描かねばならぬ」から、「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」に変更されました。新訳は全体にたいへん入念な仕事ぶりがうかがわれますが、私はかねてより、少なくともこの部分に関しては旧訳のほうが良かったのではないか、と思っています。
今回、何人かのフランス人にもたずねてみました。すなわち Il faut imaginer Sisyphe qui est heureux. なのか、それとも Il faut imaginer que Sisyphe soit heureux. なのかと。もっとも、これには、仏文→日本語訳→仏訳と二重の訳文の問題があり、そのあたりについては説明の補足が必要だったのですが、彼らの答えは、やはりここは旧訳のように訳すのがよいだろうとの返事でした。
新訳との相違をフランス語で明らかに示すため、やむなく旧訳を Sisyphe qui est heureux としましたが、これではやはり説明的すぎると思われます。これは、そのまま Sisyphe heureux でなければなりません。
つまり旧訳のように、「幸福なシジフォスを思い描かねばならぬ」であれば、「Sisyphe heureux 幸福なシジフォス」というものがまず観念的な実体として存在し、その完璧な姿を思い描くことに力を注ぐよう求められます。他方で「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」の場合は、シーシュポスと幸福との間にはまだ若干の距離があり、それを意志の力によって縮める義務が課せられます。新訳では、Sisyphe heureux というものが、一つのまとまりとして提示されないのです。
もうひとつこの句の妙味は imaginer (思い描く・想像する)にあると思います。新訳のように「シーシュポスは幸福なのだと思わなければならない」としてしまうと、imaginer ではなく、penser や croire といった動詞でもよいことになってしまいます。そうではなくて、ここは「幸福なシーシュポス」を、生き生きとした image によって、具体的な姿として作り出すことが重要なのだと思います。そのとき「想像」はまさしく「創造」となるのです。