名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

« Mon Nara » No 235, 2009年11‐12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(6)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(1)
(パスカル『パンセ』 1670年)

デカルトの「Je pense, donc je suis われ思う、ゆえにわれあり」のあとは、同じく17世紀の思想家パスカルのこれまた有名な句、「考える葦roseau pensant」を取り上げましょう。ここには共通の動詞 penserが含まれています。デカルトでは「考える penser」が直説法現在一人称単数に活用していますが、パスカルのほうは現在分詞となっていて、これは関係代名詞を使って roseau qui pense とするよりもいっそう簡潔な形で、その分訴える力が強いように思われます。そもそも roseau と言う名詞と、penser という動詞、およそ類縁のない二つの語が並べられて、その意表を突く組み合わせが忘れがたい印象を残すのです。パスカルの巧みなレトリックです。
若き日のパスカルは理数系の天才でした。今日でもパスカルの定理(法則)――密閉した静止流体(液体または気体)は、その一部に受けた圧力を、増減なくすべての部分に伝達する――は、理科の教科書の中で説明されています。また、気圧の単位はかつてはミリバールと言っていましたが、1992年からはヘクトパスカルと呼んでいます。これは、大気圧の存在を証明したパスカルにちなんだ名称です。ガラス管に封じ込めた水銀柱によって、パスカルは真空と大気圧が実在することを証明しようとしました。パリのシャトレ劇場の近くにあるサン=ジャック塔の下にはパスカルの像があります。これは、1648年、パスカルがこの塔の上と下で水銀柱を立てて、高度によって大気圧が異なることを実証しようとしたことに由来します。
ヴォルヴィックVolvic というフランスのミネラル・ウォーターは日本でもあちこちで売られていますが、天頂が少しへこんだ帽子のような奇妙な形の山の絵が描かれています。これはピュイ・ド・ドームという山で、オーヴェルニュ県の、パスカルが生まれた町であるクレルモン=フェランのすぐ近くにあります。この山も、サン¬=ジャック塔と同じく、真空実験の場所でした。当時パリに居たパスカルは、義兄に頼んで、クレルモン=フェランの中央にあるジョド広場横の修道院と、ピュイ・ド・ドームの山頂で水銀柱を立てて、その高さが異なることを示す実験をやってもらったのです。
さて、ブレーズ・パスカル Baise Pascalは、1623年にオーヴェルニュ州のクレルモンに生れました。デカルトより28歳年下ということになります。3歳で母に死別し、姉妹とともに、父の手一つで育てられました。幼時から神童ぶりを示し人びとを感嘆させたといわれています。天才の息子を授かった父親の振る舞いについてはモーツアルトの場合が有名ですが、パスカルの父もそれほどでないとはいえ、やはり息子の才能をたいせつに育てようと、パスカルが6歳の時、一家をあげてパリへと移り住み、高度な教育を受けさせようとしたのです。今日、クレルモン¬=フェラン大学は、ブレーズ・パスカル大学と呼ばれています。しかしパスカルがこの町で過ごしたのは生後の6年だけでした。
パリへ出たパスカルは、一流の数学者・自然学者らと対等に議論を交わし、計算機を発明したり、また今日の乗合バスの原点とも言える乗合馬車を考案したりしました。ただ、この頃から病気がちになり、一生そのために苦しむことになります。
病気の悪化にともない、医者にすすめられ、1650年頃から気ばらしに社交界に出入するようになります。ここで彼は「人間の世界」の豊かさを発見するのです。科学の研究には有用な「幾何学の精神esprit géométrique」もここでは役に立たず、理数では割り切れない人間世界の複雑な現象を理解するためには「繊細の心l’esprit de finesse」が必要であることを痛感したのです。それまで理系の天才であったパスカルが、文系の思想家へと転じる契機がもたらされたと言えるでしょう。
かつて世間を騒がせたある教団の幹部に理系のエリートたちが数多く含まれていたことが話題になりました。「幾何学の精神」において優れていた彼らは、世界を単純に説明してくれる粗雑な教説を鵜呑みにしたのでしょう。しかし、人間の世界はかんたんに正解の出るものではありません。というより、そもそも単一の正解というものがないのであって、そこでは「繊細の心」こそが必要なのです。(以下次号)