名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

« Mon Nara » No 236, 2010年1‐2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(7)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(2)
(パスカル『パンセ』 1670年)

理系の天才だったパスカルは、文系の思想家へと変貌をとげる過程で、ジャンセニスムに出会い、次第にその信仰を深めていきました。ジャンセニスムは、カトリックによって異端とされたキリスト教信仰であり、当時の支配的教権であったイエズス会によって迫害を受けていたのです。パスカルはその短い生涯の晩年、イエズス会の攻撃に対して論戦によって戦いつつ、重い病に苦しみながら、62年8月19日、39歳で世を去ります。
そのとき、彼の枕元には、一千枚におよぶキリスト教弁証論の草稿の束がつみ重ねて残されていました。これは、信仰を持たない人々を信仰の道へと導き入れることを目的として書かれた草稿であり、友人たちによって編集されて『パンセ』Pensée と題され、1670年に初版が刊行されました。
全体は2部にわかれ、第1部は「神なき人間の悲惨」、第2部は「神とともなる人間の至福」を扱います。第l部では、神を見失った世界にさすらう人間というものがいかに惨めであるか、その姿が次々と迫力ある筆致と印象的なイメージによって描かれます。第2部では、神への信仰を得た人間の至福が、神学論の形で述べられます。……で、どちらがおもしろいかというと、天国の記述より地獄の描写のほうが私たちの目を惹きつけるように、やはり第1部に有名な句が多く含まれているようです。ダンテの『神曲』においても、神学論議の天国篇よりは、苦悩する人間たちがうごめく地獄篇のほうが魅力的ですが、それとちょっと似ているようにも思われます。
人間の悲惨を描いた有名な句の一つに、「クレオパトラの鼻」があります。これは「考える葦」とともによく知られており、いくつかの国語辞典に見出し語として掲載されていますが、もとの句は次のようなものです。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう」
Le nez de Cléopâtre, s’il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
クレオパトラは、プトレマイオス朝のエジプトの女王(前69-30)であり、ローマの英雄カエサルを誘惑したあと、将軍アントニウスとも結ばれた絶世の美女として知られています。
このパスカルの言葉の真意は、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、つまり彼女があれほどの美女でなかったなら、カエサルもアントニウスも心惹かれなかっただろうし、そうすれば古代ローマとエジプトの歴史も変わっていただろうというものです。一国の女王の美醜という実にたわいもないことによって、人類の歴史は左右されてしまう。それほど私たちの生きている世界は、不確かな根拠の上に成り立っている。そのことの例として、「クレオパトラの鼻」が持ち出されています。
ところで、この仏文について、2つのコメントを行っておきましょう。まず court という形容詞ですが、フランスでは、低い鼻のことを nez court (短い鼻)といいます。顔の表面からどれだけ突き出しているかの距離を、高低でとらえるか、長短でとらえるかの違いでしょう。次に、eût été は接続法大過去ですが、これは条件法過去第二形と呼ばれています。しかし、かといってこれが条件法過去の代わりに使われているのではなく、直説法大過去の代用なのです。つまりこの文章は次のように書き換えることができます。
s’il avait été plus court, toute la face de la terre aurait changé
過去において実現しなかったことの仮定を表す「Si + 直説法大過去、条件法過去」(もし~だったら、~だっただろうに)の構文において、主節の条件法過去が接続法大過去に置き換えられることがあり、これを条件法過去第二形と呼びます。この文例は多く見受けられます。ところが、同時に、従属節の直説法大過去が接続法大過去に置き換えられることもあり、この場合も同じく条件法過去第二形と呼んでいます(なんともややこしいですが)。しかも、こちらの文例はきわめて数少なく、その代表的なものが、この「クレオパトラの鼻」なのです。
かつては、大学で使われるフランス語の教科書にはきちんとこの「条件法過去第二形」まで載っていました。その後、こちらもどんどん「ゆとり教育」化されて、教科書の内容が簡単になって、今ではほとんど消えています。私の書いた文法参考書でも、『リュミエール』(その後改訂されて『新リュミエール』)ではこの「クレオパトラの鼻」を条件法過去第二形の例としてあげました。しかし、そのあとで作った『プチ・リュミエール』および『「星の王子さま」で学ぶフランス語文法』では省きました。
というわけで、なかなか「考える葦」にたどり着きませんが、以下次号。