名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

« Mon Nara » No 237, 2010年3‐4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(8)

三野博司(副会長)

L’homme …. est un roseau pensant.
人間は……考える葦である。(3)
(パスカル『パンセ』 1670年)

(承前)パスカルの『パンセ』第一部「神なき人間の悲惨」のなかでも、もっとも有名な句は次のものでしょう。
L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ.だが、それは考える葦である。
まず人間の弱さを「葦」という卓抜なイメージによって提示したあと、 ne … que 「すぎない」と限定し、次には le plus faible 「一番弱い」という最上級によってその「弱さ」を強調します。ところが、mais 「しかし」のあとで、この reseau 「葦」に pensant 「考える」という現在分詞を付加することによってみごとに反転させるのです。
このあとは、次のように続いています。
「これを押しつぶすのに、全宇宙はなにも武装する必要はない.ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すのに十分だ.しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、これを殺すものより尊い.人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからだ.宇宙は、そんなことは何も知らない」
だから、とパスカルは言います。「わたしたちの尊厳のことごとくは、考えるということにあるのだ」。デカルトが「私は考える Je pense 」を存在証明の根拠に置いたように、パスカルもまた人間の尊厳を「考えること pensée 」のなかに見るのです。ただ、パスカルの場合、考えることがすなわちみずから死すべき存在であるのを知っていること――というのは、病弱でつねに死と向き合っていた彼らしいことばです。
もう一つ有名な句に「パスカルの賭」があります。『パンセ』はキリスト教の信仰を持たない人を信仰の道に導きいれることを目的として書かれたと、以前に述べました。そのための術策として、パスカルは「賭け」を提示します。果たして神はいるのか、いないのか、それはにわかには判断も、証明もできないのだから、これは一種の賭けなのです。ただし、この賭けでは「神はいない」と賭けるよりは「神はいる」と賭けた方が良い。なぜなら、そのことによって信仰を得て、心安らかに満ち足りたこの世の生活が送れるからです。ところが、実は「神はいない」かもしれない。しかし、ここからが大事なのですが、パスカルは、そのことによって失うものは何もないのだから、だめでももともとではないか、と言うのです。いわゆる「だめもと」ですが、これについて精神科医の中井久夫氏がたいへん興味深いことを述べています。
「悲観論は一般に容易に反駁されない構造を持っている.すなわち、これ自体が一つの陥穽である.これに対して楽観論というものは、非常に反駁されやすいものである. […] 悲観論が強固な場合は、無理にでも楽観論の立論可能性を探ってみるのがよいと思う.無理にでもというのは、一般に悲観論のほうが、一つの必然として精密に理論化しやすいということがあるからである」(『家族の深淵』)
悲観論に立つのはきわめてかんたんです。楽観論に立つのはむしろむずかしい。ただし、ここで言う楽観論は、現実を知らない、甘い夢想ではないということです。そうではなく、現実の状況をすべて冷静に認識した上で、意志の力によってあえて楽観論に立つこと。つまり気分による楽観論ではなく、意志による楽観論。そうした楽観論が、精神科の医者には必要であると、中井久夫は言います。
「実践的楽観主義というでもいうべきものが治療に必要であるとは、統計の示すところである.分裂病は治ると考えている医師の治癒率は、治らないと考えている医師の治癒率より確かに高い.おそらく、前者は好ましい芽を自説の確証と考え、悪化を一時的現象とみるであろう.後者は、逆に、改善を一時的現象とみるであろう.この違いが長期的には大きな差を生むとしても不思議ではない.これは、神の存在に賭けるほうが利益が大きいと説いたパスカルの賭けと同じ論理である」
たとえだめだとしても、もしそのことによって失うものが何もないのなら、あえてそれに賭けてみよう――この「だめでもともと」というパスカルの賭けには、大きな叡智が宿っているように思われます。