名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

« Mon Nara » No 239, 2010年7‐8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(10)

三野博司(副会長)

Comme je l’aurais aimé !
あたしきっと好きになったのに!(2)
(ジロドゥー『オンディーヌ』 1939年)

『トロイ戦争は起こらないだろう』と並んで劇団四季のレパートリーとなっているジロドゥーの『オンディーヌ』は、前作から4年後の1939年4月27日、パリのアテネ劇場で初演されました。第二次世界大戦勃発の4か月前という緊迫した時期に劇作家が選んだ主題は、迫り来る戦争の予感につらぬかれた前作とは異なったものでした。高まる国際的緊張のなかで、ジロドゥーはむしろ彼の諦念を示すかのように、現実からは遊離したメルヘン仕立ての恋愛悲劇を書いたのです。
この作品は、ドイツ通のジロドゥーらしく、ドイツ・ロマン派の作家ラ・モット・フーケのメルヘン的小説『水の精(ウンディーネ)』に依拠しています。宇宙的精神の権化である水の精オンディーヌと、彼女をついに理解しえなかった人間の騎士ハンスとの悲劇を描いて、メルヘンの世界を人間の越えがたい宿命に支配された悲劇にまで高めました。
人間の男性と水の精の女性との結婚というこの話は、いわゆる異類婚姻譚の一つです。日本の昔話では、「鶴女房」「蛇女房」などのように、人間の男性がある日苦しんでいる動物を助けることになり、そのお返しにと、人間の姿に化身した動物が嫁にやって来るというパターンが多いですが、オンディーヌ伝説では妻となるのは動物ではなく水の精です。異類婚というのは、人間が人間ならぬものと結婚するという話ですが、そこには人間とそうでないものとの間に引かれた越えがたい一線を越えようとする願望、この宇宙の秩序のなかにある牢固とした仕切壁に風穴をあけたいという願望のようなものが感じとれます。そうしたことは物語のなかでこそ可能なのですが、しかし多くの場合は、物語のなかでさえも失敗におわるか、あるいは罰せられるという顛末を迎えます。
『オンディーヌ』の場合も、宇宙の掟に逆らってでも自分の恋をつらぬきたいという水の精(少女)の願望は、挫折することになります。第1幕、ある日、森に迷い込んだ騎士ハンスは、一軒の家を訪れ、もてなしを受けます。そこにあらわれたオンディーヌは、この人間の騎士を愛してしまうのです。第2幕では、人間界の宮廷に行ったオンディーヌが、そこでの生活になじめず、一方ハンスはオンディーヌに飽きて彼女を裏切ることになります。そして第3幕、水界の王は、約束にしたがってハンスの生命を奪い、それと同時にオンディーヌをあわれんで彼女の人間界でのいっさいの記憶を抹消します。
最後は、騎士の亡骸を前にしたオンディーヌの哀切きわまりない台詞によって幕となります。
Quel est ce beau jeune homme, sur ce lit… Qui est-il? […] Qu’il me plaît!…On ne peut pas lui rendre la vie? […] Comme c’est dommage! Comme je l’aurais aimé!
この美しい人は、この寝床の上の…だれなの?[…]あたし、この人好きだわ!…生き返らせてはやれないの?[…]残念だわ。この人が生きていれば、きっと好きになったのに。
オンディーヌは一時的に気を失い、意識を取り戻したときには人間界での記憶をなくしています。目の前に死んで横たわるハンスを見て、好きになりますが、しかし、それが誰であるかは思い出せません。最後のせりふは、Comme で始まる短い感嘆文が2つ続いて終わります。Comme je l’aurais aimé ! のほうは、動詞が条件法過去形に置かれています。仮定を示す条件文が省略された形と考えることができるので、それを補うと Comme je l’aurais aimé s’il avait vécu. となるでしょう。日本語に訳すときは「この人が生きていれば」を補う必要がありますが、フランス語では条件法過去形だけで、そのようなことが実際には不可能であることが示されるのです。
Comme c’est dommage ! 「残念だわ」とオンディーヌは言います。この騎士が死んでしまっていることを惜しむのですが、しかし、悲劇はそこにはありません。騎士とは違って生きながらえている彼女が、かつてこの騎士を愛したというたいせつな記憶をなくしている――それこそが悲劇なのです。