名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

« Mon Nara » No 240, 2010年9‐10月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(11)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (1)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

『恋愛論』などというタイトルの本を書くのは恋愛に失敗した者だけだ、というのが通説ですが、その代表格はスタンダールかもしれません。「愛の結晶作用」というなにやら神秘的響きさえもつ言葉で知られるこの著作は、作者の若き日の失恋体験から生まれました。
本名はアンリ・ベールHenri Beyle。1783年、アルプス山麓の町、グルノーブルに生れました。グルノーブルはスタンダール生誕の町として知られ、4つある大学の一つ(文学系の学部)はスタンダール大学と呼ばれています。3年前、日仏の大学長が集結して大学教育について討議する「日仏高等教育シンポジウム」がグルノーブル大学で開催され、専門委員の1人として出席するため、ひさしぶりにこの町を訪れました。自由時間に町を散策した折りには、かつての記憶を頼りにスタンダール記念館へ向かったのですが、行き着くと扉が閉ざされたままでした。あとで調べたところ、2004年末から閉鎖されているとのことでした。
パリに帰ったあと、ガリマール社を訪れて、作家のロジェ・グルニエさんと再会すると、いつものようにさまざまな文学的逸話を披露してくれました。その一つに、スタンダール記念館開館式のときに、グルノーブルの市長が招待を受けたにもかかわらず出席しなかったという話がありました。自分の生まれ故郷をなつかしく褒め称えて語る作家もいれば、呪詛するかのようにあしざまに描く作家もいます。スタンダールはあきらかに後者で、グルノーブルの悪口をあちこちに書いていますが、そのため市長が招待を断ったというのです。
グルノーブルだけではありません。フランスそのものをスタンダールは好んでいませんでした。そんな彼が熱愛したのがイタリアであり、ミラノです。パリのモンマルトル墓地にあるスタンダールの墓碑には、イタリア語で「アリゴ・ベイル(アンリ・ベールのイタリア語表記)、ミラノの人、書いた、愛した、生きた」と刻まれています。これは一部字の配列を変えているものの、スタンダール本人の書き残した遺書に従っており、彼自身がミラノの人として死ぬことを願っていたわけです。
19歳のとき、パリの理工科学校に入学を許可されたスタンダールは、故郷グルノーブルを去ってパリに向かいました。しかし、結局学校には一度も行かないまま、ナポレオン軍に加わってミラノに進入します。これが最初のミラノ体験であり,「世界にこんなところがあったのか!」と激しい感動に襲われました。彼は「偽善と気取りの国」であるフランスとは対照的な「情熱と自然らしさの国」イタリアを発見したのです。こうした国民性に関する性格付けはあまり根拠のないものでしょうし、奈良日仏協会会員としては全面的に同意するというわけにはいきませんが、それでも「偽善と気取り」は文化の洗練度の高さを示すものであると解釈した上で、スタンダールの言うことに納得できる部分もあります。それに当時イタリアは、ヨーロッパの文化人や知識人の憧憬の的でした。
こうして、スタンダールのイタリアに対する終生変らぬ愛が目ざめるのですが、このときの感動が、後に『パルムの僧院』の美しい冒頭に結晶することになります。最初のミラノ体験のあと、彼は軍職を辞してパリにしばらく滞在し、18l2年にはナポレオンのモスクワ遠征に参加し、火の海となった首都を目前にします。なんとかモスクワを脱出したスタンダールは、パリに戻りますが、帝政の瓦解とともに失職することになりました。しかし、これが彼の二度目のミラノ行きを決定するのです。1814年7月、あこがれの土地であると同時に生活費の安いミラノに移住します。ここから1821年まで、7年間におよぶ彼のミラノ生活が始まります。
ミラノのスタンダールは、音楽と美術を愛するディレッタントとして、さまざまな著作を発表しますが、18l8年には彼が「永遠の女性」と呼んだマチルダ・デンボウスキ夫人(メチルド)にかなわぬ恋をいだくことになります。ミラノ社交界で名をはせたこの貴婦人は、軍人の妻で、スタンダールと出会ったとき28歳でした。この体験が、パリに戻ってから発表した『恋愛論』De l’Amourに結実します。その詳細については次号で。