名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

« Mon Nara » No 241, 2010年11‐12月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(12)

三野博司(副会長)

Cristallisation 結晶作用 (2)
(スタンダール『恋愛論』 1822年)

パリに戻ったスタンダールは、1822年『恋愛論De l’Amour』を発表しますが、11年間で17冊しか売れなかったと言われています。それではと、1833年にこんどは表紙を変えて第2版として出しましたが、やはりまったく反応がなかったようです。「この本は神聖なんですかね。誰も相手にしませんよ」と言った出版人のことばを、スタンダールが伝記のなかに記しています。
たしかに神聖だったのかもしれません。この著作の第1章で、スタンダールは恋愛を4種類に分けています。「1、情熱恋愛。2、趣味恋愛。3、肉体恋愛。4、虚栄恋愛」ですが、彼が一番上位に置いたのが、情熱恋愛であることは言うまでもありません。そして、他の三つの恋愛がいかにつまらないかを力説するために、エネルギーを投入するのです。
いよいよ第2章、有名な恋の生成過程を語る箇所があらわれます。
「恋の7つの時期をもう一度要約しよう。1.感嘆。2.(あの人に接吻し、接吻されたらどんなにうれしいだろう云々。)3.希望。4.恋が生まれた。5.最初の結晶作用。6.疑惑があらわれる。7.第2の結晶作用」
ここで、二度にわたってあらわれる「結晶作用cristallisation」について、スタンダールは次のように解説しています。
「ザルツブルクの塩坑で、冬に葉の散った木の1本の小枝を廃坑の奥に投げ込む。2、3か月後に取り出してみると、枝はきらきらした結晶でおおわれている。一番小さな枝、せいぜい四十雀の脚ほどしかない枝までが、ゆれてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はもうわからない」
ザルツブルクはオーストリアの町。モーツアルトの生まれた町であり、毎年夏には有名な音楽祭が開催されます。モーツアルティアン憧れの聖地ですが、私はかつて6月に一度訪れただけです。ミラベル宮殿での小さなコンサートが印象的でした。またここは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった町でもあります。私が訪れたときは、「サウンド・オブ・ミュージック」ツアーなるものに参加して、映画の舞台となった場所をミニ・バスで巡る企画があり、それも楽しいものでした。
Salzburg は、その名の通り「塩 Salz」の「町 Burg」であり、塩坑が近くにあります。かつて海底にあったアルプスが隆起して地上に現れたあと、閉じこめらた海水が蒸発して塩分が地中に蓄積され、それを採掘するために坑道が掘られました。第二次大戦中、ヒトラーはフランスの美術館などから収奪した多くの名画を、この坑道に秘匿しました。温度と湿度が美術品の保管に理想的だったといいます。
ところで、塩坑は恋の思いを育むにも理想的なのかもしれません。相手が目の前にいないときに、目の前にいないからこそ心の中でいくらでも美しく飾り立てることができます。塩の粒にすぎないものが、ダイヤモンドのようなきらめきとなって、恋の想念にまとわりついて、それをまばゆいばかりのイメージに仕立てあげます。これにはもちろん想像力の助けが必要です。さらにこの結晶作用は1度ならず、2度必要です。スタンダールは「疑惑があらわれる」と書いています。結晶作用が1度で完成してしまう幸せな人もいるのかもしれませんが、多くの場合疑惑は避けられません。ところが、その疑惑はさらに強い結晶作用を呼び起こすのです。こうして恋の想念は次第に強固なものとなっていきます。
しかし、スタンダールは恋に破れました。結晶作用はかならずしも恋を成就させる魔法の杖ではなかったのです。