名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

« Mon Nara » No 251, 2012年7 – 8月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(22)

三野博司(副会長)

Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る (3)
(アポリネール「ミラボー橋」1913年)

手元に « Paris : 34 ponts » (パリ34本の橋)というタイトルの小さな本があります。パリ観光案内本の一つで、セーヌの上流から順に34本の橋が写真とともに紹介され、ミラボー橋は最後から3つ目の32番目、アポリネールの詩の冒頭が引用されています。いつ買ったものか記憶が定かではないのですが、写真はすべて白黒で、発行年はと見ると1972年で40年も前。パリのセーヌに架かる橋はその後3本が新設されて、現在では « Les 37 ponts de Paris » という本が刊行されているようです。
渡辺守章著『パリ感覚』(1985年)では、第1章で「橋づくし」とでもいうべき随想が繰り広げられます。シュリー橋に始まり、さまざまな橋についての著者一流の薀蓄が傾けられますが、ミラボー橋については、「かのミラボー橋は、上流の堤防によって二つに分けられたセーヌが、再び一つに合流するところにかかっている」とだけあり、もう今さらこの橋についてアポリネールやローランサンについて語ることもあるまいと言った風情です。
ミラボー橋は、エッフェル塔からさらに下流へ、自由の女神が立つ「白鳥の小路」と呼ばれる堤防のその先にあります。現在では Google earth で 「ミラボー橋」(日本語で可)と打ち込んで検索すれば、たちまち橋の上空へと連れて行ってくれます。
なんの変哲もない鉄製の橋ですが、有名になったのはアポリネールの『アルコール』に収められた詩「Le Pont Mirabeauミラボー橋」がきっかけでした。多くの画家とも交際のあったアポリネールは、ピカソにマリー・ローランサンを紹介され、恋仲となりました。彼は、母親と暮らしていた女流画家の近くのアパートに引っ越して、自宅に帰るときにこの橋を通ったのです。
5年後に2人は別れますが、詩人は過ぎ去った恋を、セーヌの水の流れに託しました。「ミラボー橋の下をセーヌが流れ/ぼくらの恋も流れる」と始まり、川の水のように過ぎ去った時も恋も戻ってはこないと歌われます。「恋はすぎる この流れる水のように/恋は過ぎ去る/人の世の何と歩みのおそいこと/希望ばかりが何と激しく燃えること」といった感傷的な詩句は、現代派のアポリネールとはまた異なった一面を見せています。とりわけ知られているのは、四回繰り返される次の二詩句です。
Vienne la nuit sonne l’heure /Les jours s’en vont je demeure
夜よ来い 時よ鳴れ/日々は流れゆき ぼくは残る
前半のVienne, sonne はともに動詞が接続法現在形になっていて、祈願を表しています。また後半の「日々は流れゆき ぼくは残る」は、15世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの『大遺言書』のなかにその原型があるといわれています。
ローランサンには、『アポリネールとその友人たち』と題された絵があります。詩人の作品が2人の関係が破綻したあとに書かれたのに対して、こちらの絵は、恋人同士だったときに制作されました。絵の中央にアポリネールが腰掛けていて、右端にローランサン、あとピカサや友人たち数名が描かれています。アポリネールの右肩奥に小さく見えているのがミラボー橋ですが、橋桁の間隔が狭くて、実際のミラボー橋とは印象がかなり違います。

世界的な風邪の流行が話題になるたびに引き合いに出されるのは、1918年~19年に猛威をふるったスペイン風邪です。アメリカに始まり、ヨーロッパに波及し、さらには世界中に広まりました。感染者6億人、死者4,000~5,000万人というとほうない数字が残っています。著名人も犠牲となりました。ドイツのマックス・ウェーバーのほかに、日本では私たちになじみの奈良ホテルを設計した辰野金吾、そしてフランスではなんとってもアポリネールです。彼が亡くなったのは、「ミラボー橋」発表から5年後、1918年11月9日、第1次世界大戦の休戦条約が結ばれる2日前でした。