名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

« Mon Nara » No 255, 2013年3-4月号 掲載 

名句の花束―フランス文学の庭から(26)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

今年は『星の王子さま』出版70周年となります。すでにあちこちに書きましたが、まずはその出版いたる経緯をかんたんに紹介します。
第二次大戦がはじまるとサン=テグジュペリはアメリカに亡命することになります。船でニューヨークに到着したのは1940年12月31日の大晦日です。滞在はこのあと二年以上に及びましたが、アメリカ嫌いの彼にとっては、ニューヨークでの生活は不満の多いものでした。そんな状況で、1942夏『星の王子さま』の執筆が開始されました。それまで彼は、手紙や本の献辞を記したページ、数式の間、レストランのテーブルクロスに、王子さまとおぼしき少年の絵をいたずら書きのように描いていました。友人の編集者たちは、その少年を主人公にして「子ども向けの本」を書けば、サン=テグジュペリの気も紛れるのではないかと思って執筆を提案したのです。 こうして1943年4月6日、ニューヨークのレイナル&ヒッチコック社から『星の王子さま』が刊行されることになりました。ただし、この日に出たのはキャサリン・ウッドによる英訳本で、フランス語版も時をおかずに売り出されたのですが、こちらは正確な日付はわかっていません。
サン=テグジュペリは、1929年の『南方郵便機』を皮切りに、以後1931年『夜間飛行』、1939年『人間の大地』を、それぞれガリマール社から刊行しました。実は1929年、彼は将来にわたる作品はすべて同社から出版するという契約を結んでいたのです。ところが第二次大戦勃発後、アメリカに渡った彼は、『戦う操縦士』と『星の王子さま』をレイナル&ヒッチコック社から刊行し、このときその版権をこのアメリカの出版社に与えてしまいます。そのため、戦後になってガリマール社とのあいだに版権をめぐっての訴訟がもちあがりました。このもめごとを調停する役を果たしたのが、カミュでした。戦後ガリマール社の人気作家となった彼は、1946年アメリカに講演旅行に招待されます。このとき、ガリマール家の友人たちから版権問題を解決するための任務もまた託されていたのです。
現在のフランス語版を出版しているのはガリマール社ですが、フランスでの刊行は第二次大戦後、1946年4月のことです。2006年はその60周年ということで、数々の催しものや出版の企画があいつぎました。今年の70周年は、アメリカでの出版を記念する年ということですが、それでも初版の記念ということで、フランスでもお祝いの行事が開催されます。
ちょうど私のところに、サン=テグジュペリの子孫であるオリビエ・ダゲ氏が代表を務める 「サン=テグジュペリ権利継承者事務所」から封書がとどきました。『星の王子さま』刊行70周年を記念する行事への招待状です。4月9日20時からカクテルおよび夕食パーティ、10日には展覧会、11日には、スジリエ、ラクロワ、タナズといったおなじみのメンバーによるシンポジウム。3日間にわたる催しです。残念ながら、新学期早々にパリへ飛ぶこともできず、この招待に対しては欠席の返事を、ダゲおよびラクロワ宛てにメールで出すことになりました。この祝祭の様子については、いずれ『星の王子さま』公式HPに紹介されるでしょうから、それを待ちたいと思います。
日本でも、4月末に河出書房新社が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』と題した170頁ほどの本を出版します。私を含む10数名の執筆陣が、さまざまな角度から『星の王子さま』とその作者について、新たな光をあてる予定です。ちなみに拙稿のタイトルは「飛ぶ男と住む女-サン=テグジュペリの世界」で、12頁のエッセイです。(以下次号)