名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

« Mon Nara » No 257, 2013年7-8月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(28)

三野博司(副会長)

L’essentiel est invisible pour les yeux.
いちばん大切なものは目に見えないんだ。(3)
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』1943年)

前号で、2011年12月ニューヨークの見知らぬ人から英語のメールが突然送られてきたと書きました。それは作家の草稿をあつかう業務を行っているA氏からのもので、「自分の顧客が『星の王子さま』のタイプ原稿を売りたいと言っている。箱根の「星の王子さまミュージアム」に話をもちかけたいと思うが、それについてあなたの助言をもらえないだろうか」、という内容でした。
「星の王子さまミュージアム」は、2002年以来TBSの経営下にあり、その担当者とはかねてから面識がありました。そこで私が仲立ちして、A氏とTBSの交渉が始まりましたが、結局金額の点で折り合いがつかず、この話は流れました。ただ、A氏とのやりとりによって、いくつかの興味深い情報を得ることができました。
拙著『「星の王子さま」事典』(大修館書店)にも書きましたが、『星の王子さま』には手書き原稿の他にタイプライター原稿が三つ残されています。そのうち一つはパリ国立図書館、もう一つはテキサス大学にあります。3番目は、現在の時点で行方不明です。そして、今回のニューヨークの業者からの話は、この3番目のもののようなのです。
このタイプ原稿は、寡婦となったコンスエロが所有していた一連の草稿・デッサン類のなかに含まれていたようです。そして、彼女が1979年に亡くなると、それらの遺産は、1986年ジュネーブで売却されました。その後、1989年ロンドンで競売にかけられたという記録があります。そしてさらに売却がおこなわれ、現在の所有者の手に渡ったと推定されます。
サン=テグジュペリは、手書き原稿にもとづいて三つのタイプ原稿を作らせ、そのうち二つを保管しておき(これがパリ版とテキサス版)、3番目を自分の仕事のため使用し、これをもとに加筆をおこなったらしいのです。A氏からは、この原稿の13頁におよぶ売り立て用カタログも送ってもらいました。それを検討すると、第21章の有名なキツネのことばは、タイプ原稿でこうなっています。
Ce qui est le plus important, c’est ce qui ne se voit pas.
いちばん大事なもの、それは見えないものなんだ。
そして、この部分に棒線が引かれて、抹消された文字の上の行間に、サン=テグジュペリの自筆で記された次の文を読み取ることができます。
« On ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。)
『星の王子さま』といえばだれもがすぐに思い浮かべるこの有名な句は、この3番目のタイプ原稿おいてはじめて、著者によって書き込まれたものだとわかります。
以上のことについては、より詳しい顛末を、フランス文学・文化の小冊子『流域』(青山社)第70号に書きました。すると、意外なところから反響があったのです。大江健三郎氏により、岩波書店の『図書』(2012年10月号)で、「短いがすぐに忘れがたいものとなるはずの指摘」として紹介されました。