名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

« Mon Nara » No 259, 2013年11-12月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(30)

三野博司(副会長)

フランスでぼくの好きな地方は …
Le pays de France que je préfère est …
(カミュ「シャールへの手紙」1947年)

アルジェリア生まれのカミュは、第2次大戦勃発後、1940年3月からパリでジャーナリストとして働きはじめ、その後一時帰国を経て、1943年11月以降パリに居を定めます。しかし、大都会の生活は肌に合わず、彼は早くから南仏に家をもちたいと願っていました。そこならまだしも、故郷の北アフリカに風土が似ているような気がしたのです。1947年には、友人で詩人のルネ・シャールに宛てて、「ところで、フランスでぼくの好きな地方は、あなたの住んでいるところ、より正確には、リュベロン山麓、リュール山、ローリス、ルールマランのあたりです。Or le pays de France que je préfère est le vôtre, et plus précisément le pied du Luberon, la montagne de Lure, Lauris, Lourmarin, etc」と書いています。シャールが住んでいたのは、リル=シュル=ラ=ソルグという小さな町で、私は2011年に訪れました。そのときのデッサンを掲げておきましょう。
シャールへの手紙を書いたあと、カミュは実際に別荘探しを行いますが、適当な物件を見つけることができませんでした。1958年9月になってようやく、彼は、シャールへの手紙で名前をあげているルールマランに念願の別荘を購入します。前年に受賞したノーベル文学賞の賞金が、その経済的余裕をもたらしたといわれています。閑静な環境にあるこの家で、1959年を通じて、彼は自伝的な長編小説『最初の人間』の執筆に専念することができました。しかし1960年1月4日、パリへ向かう途中、不慮の自動車事故が彼の命を奪います。享年46歳でした。ルーマランの別荘を購入してから、一年半も経っていませんでした。
ルールマランは、南仏エクサン=プロヴァンスの北40キロ、アヴィニョンの東70キロに位置する小さな村です。かつては、これらの町からバスの便がありましたが、今では車がないと行くことが困難です。村のはずれの墓地にはカミュが眠り、彼が購入した家には娘のカトリーヌさんが住んでいます。
私はルールマランを4度訪れました。最初は1980年7月、エクサン=プロヴァンスでひと月の研修を受けていたときです。案内所で路線バスの時刻を調べ、直通バスがないので途中で乗り換え、村に着いて、カミュの墓詣でを行いました。
2度目のルールマラン訪問は、1996年、トゥールーズ大学教授であったジャン・サロッキさん(私の博士論文の審査員でもありましたが)の夏の別荘に招かれたときです。サン=レミ=ド=プロヴァンスからサロッキさんの車で、ルールマランまで運んでもらいました。幸いこのときには、カミュの家を訪れて、応接間に案内され、娘のカトリーヌ・カミュさんと少し話すことができました。
三度目は2007年、ルールマランでのカミュ学会に出席したときです。獨協大学のフィリップ・ヴァネさんとエクサン=プロヴァンスで落ち合って、彼が運手する車に乗り込みました。挿絵はこのときに描いたものです。
そして四度目が、今年、2013年11月でした。エクサン=プロヴァンスで行われているカミュ学会に参加して、その仲間たちと一緒に、貸し切りバスに乗って訪れました。ルールマランの城館で開催されたカミュ生誕100年記念の講演会に出席すると、会場でカトリーヌ・カミュさんが私の姿を見つけて、自宅に来いと声をかけてくれました。ただ、バスの出発時刻が17時と決まっており、それを逃すとエクサン=プロヴァンスに戻る手立てがありません。残念ながら二度目のカミュ家訪問は断念することになりました。