名句の花束

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

« Mon Nara » No 261, 2014年3-4月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(32)

三野博司(会長)

天に向かって伸びていく谷間の百合
LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel
(バルザック『谷間の百合』1836年)

ベルニー夫人との恋 (1822-32年)の思い出から生まれた小説『谷間の百合Le lys dans la vallée』は、1836年に発表されました。生涯にたくさんの小説を書き残したバルザックですが、そのなかでも、美しい自然のなかで育まれる至純の愛の物語であるこの作品は多くの読者を獲得しています。フェリックスが新たな恋人に向かって、自分の過去の恋を語るという一人称の語りも、読者の物語への没入を容易にしています。そのフェリックスの独りよがりで、ときには感傷過剰な語りも、最後に置かれたモルソフ夫人の手紙、さらにはとどめを刺すようなナタリーの手紙で相対化されて、作品としての均衡を保っています。
原題のValléeには「谷間」の意味もありますが、ここでは広やかな川の流域を意味します。とはいえ、さすがに「流域の百合」とは訳せないので、「谷間の百合」で定着しています。バルザックの愛した豊穣なアンドル川(ロワール川の支流)の流域が舞台です。
孤独な青年フェリックスは、トゥールの町の舞踏会でたまたま出会った女性への恋慕にとらわれます。ふたたび会いたいと強い望みを抱いて、トゥーレーヌ地方の館という館をすべて探索しようと心に決めて歩きはじめるのです。アンドル川流域を見晴らすことのできる場所まで来て、甘美な驚きに打たれて、こう考えます。「女性のなかの花であるあの人がこの世のどこかに住んでいるとしたら、ここに違いない」。そして、1本のくるみの木の下で足を休めて、恋する夫人に思いをはせるのです。「天に向かって伸びてゆきながら、その美徳の香気によってこの谷間を満たしている谷間の百合 LE LYS DE CETTE VALLÉE où elle croissait pour le ciel, en la remplissant du parfum de ses vertus」
ついに出会った貞潔な人妻アンリエット・ド・モルソフ夫人は、横暴な夫と病弱な子どものそばで、苦悩多い生活を送っていました。しかし青年は熱烈に夫人を愛し、夫人のほうでも母親のような精神的な愛でこれに応えます。やがて、フェリックスはパリへ行き、グッドレー夫人と官能的な恋に落ちます。モルソフ夫人危篤の知らせを受けて、フェリックスは夫人と再会し、遺書として書かれた手紙を受け取ります。そこには、夫人の、貞淑であろうとして満たされなかった恋の恨みが記されていました。
バルザックの小説はいくつか映画化されています。リベット監督の『美しき諍い女』(1992年)と『ランジェ公爵夫人』(2008年)を始めとして、『シャベール大佐の帰還』(1995年)『従妹ベット』(1998年)『ゴリオ爺さん』(2004年)などです。『谷間の百合』に関しては、1970年に制作された2時間のテレビ映画があります。インターネットでは、Ina.frが有料(5ユーロ)で提供しています。原作を忠実にたどっただけの映画ですが、フェリックスとモルソフ夫人がボートで周遊するアンドル川、そして散歩する流域の風景が美しいです。
『谷間の百合』とそこに描かれたアンドル川を語るときに、忘れてならないのがサッシェの城館です。作家となったバルザックは、ときおりパリを逃れて、故郷トゥーレーヌ地方に帰り、知り合いの貴族マルゴンヌが所有するサッシェの城館の一室を借りて執筆を行いました。ここで『谷間の百合』『ゴリオ爺さん』などが書かれました。現在はバルザック記念館になっています。車がないと簡単に行くことができませんが、1981年、当時トゥールに住んでいた友人が、アンドル川を遡行してサッシェの城館まで連れて行ってくれました。Youtubeでは、« Balzac au château de Saché » と題した4分半ほどの紹介映像を見ることができます。フランスの田舎の美しいシャトーの雰囲気がよく伝わってきます。案内役の女の子の笑顔がいいです。彼女のフランス語を聴くのも心地良いです。