名句の花束

名句の花束ーフランス文学の庭から(45)

« Mon Nara » No 275, 2016年5-6月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(45)

 三野博司(会長)

 

Quand finira la comédie ?  (2)

いつ終わるんですか、この芝居は?

(マリヴォー『愛と偶然の戯れ』 1730年)

 

前号でシルビアの台詞を紹介しました。「Quand finira la comédie ? いつ終わるんですか、この芝居は?」ところが、父親は簡単に終わらせようとはしません。彼にはこの芝居が最後には良い結果をもたらすという確信があるようです。双方が変装して化かし合っているわけですが、このゲームでは耐えきれなくなって先に正体を明かしたほうが負けなのです。父親はそのことも十分にわきまえていて、娘にじっと我慢させて、相手が降参するのを待たせるのです。

この変装をいっそう複雑にしているのが、マリヴォー風文体marivaudageと呼ばれる陰影に富む微妙な台詞です。召使いに変装したシルヴィアは召使として語っているのか、あるいは自分の本心を漏らしてしまっているのかあいまいです。そこへ傍白が加わって、台詞が示す心理の層はさらに複雑になります。モリエールの芝居のような古典主義的な簡明さをもたないために、登場人物の解釈も多義的でニュアンスとふくらみをもつものとなります。

マリヴォーの有名なことばがあります。「私は恋心が身をひそめていそうな穴を注意深く見張った。私の喜劇の一つ一つは,そういう穴から恋を引き出して見せることにある」。このような微細な心理の綾を分析することにかけて、彼は卓越した技量を見せました。しかし18世紀は哲学思想の時代でもあるので、たとえばヴォルテールのように批判する人もあらわれました。「私はむしろ彼にさまざまの感情をあまりにも細かく分析し、時には人心の大道からそれて、いささか曲がりくねった小道を取ったことを咎める」。果たして人心の大道からそれているのか、このような微細こそが人心ではないか、という気もします。

『愛と偶然の戯れ』は、冒頭で、男女双方において主人と召使が変装して入れ替わるという手法を用いていますが、その5年前、1725年にマリヴォーは同じような身分転倒の芝居『奴隷の島』を書いています。島というのは孤立した小宇宙であり、独自の文化・文明をもっていることがあります。そこへ外界からヨーロッパ人がやってきて、奇想天外な体験をするという「島もの」は、当時流行したようです。『奴隷の島』には主人と召使の身分が逆転するという規則があり、そこへ漂着した2組の主人と召使の喜劇が繰り広げられます。ただし、身分が入れ替わっても、最後にもとに戻るところは『愛と偶然の戯れ』と同じです。この半世紀後に勃発するフランス革命のように、実際に階級転覆が起こるわけではありません。

『奴隷の島』はコメディー・フランセーズではなく、ずいぶん昔にモンパルナスの小劇場で見たことがあります。劇場の入り口で料金を払うとき、こんなやりとりをしたのを覚えています。「学生ですか?―いいえ」、「失業者ですか?―いいえ」、「大家族ですか?―いいえ」、「じゃあ正規料金で、40フランです」。ユーロではなく、まだフランの時代でした。いまでは学生と間違われることはないのでこんな質問は受けませんが、かといって窓口で「失業者ですか」とたずねられたのはこのときだけです。「大家族ですか」と質問されたことも、他には一度もありません。フランスの鉄道SNCFでは、3人以上の子どもを連れて乗車するときは大家族 famille nombreuse 割引になるようですが、私が劇場に行ったときはひとりでした。この劇場のウェブサイトを見ると、学割、失業者割引は現在もあるようですが、大家族割引料金はありません。いつまであったのでしょうか。