名句の花束

名句の花束ーフランス文学の庭から (49)

« Mon Nara » No 279, 2017年1-2月号 掲載

フランス文学の庭から(49)

名句の花束

三野博司(会長)

 

Carmen sera toujours libre.(2)

カルメンはいつだって自由なのさ。

(プロスペル・メリメ『カルメン』1845年)

 

ビゼーの『カルメン』は、メリメの小説発表から30年後、1875年、オペラ・コミック座で上演されました。これは転換の年でもありました。このときからオペラ・コミックのレパートリーが拡大します。パリ・コミューンで焼失したパリにある別の劇場、テアートル・リリックのレパートリーを取り込んでいくのです。

オペラ化にあたって、原作の小説に台本作者がほどこした改変に注目する必要があります。悲劇的な枠組みを保持しながら、オペラ・コミックの伝統を尊重するため、ミカエラが付け加えられました。このミカエラ、どんな演出家の手になる舞台で見ても、服装はいつも青いスカートで、おさげ髪なのです。それもそのはず、メリメの原作では「青いスカートをはいて肩のうえに編んだおさげ髪をたらした娘」とだけあり、名もない娘です。このわずか一行にも足らない記述から、台本作家は、外見だけは原作に忠実に、ホセを恋い慕うミカエラという少女像を生み出し、彼女に大きな役割を与えました。それに、カルメンがメゾ・ソプラノの奔放自在な女性ですから、これと対照的な清純派のソプラノを配するのは当然でもあるでしょう。

またドン・ホセのテノールに対して、やはりバランスを取るべくバリトンが必要です。原作では最後に少し登場するだけの闘牛士ですが、これがオペラではエスカミーリョとなって、ホセの対抗馬として重要な役割を担うことになります。

ビゼーの音楽は、だれもがそのメロディやリズムが自然と頭のなかに湧き上がってくるほど有名なものになっています。作曲家は、スペイン音楽を取り入れ様式化しただけでなく、運命を表わすモティーフによってドラマに深い統一性を与えています。開幕からあらわれる死のモティーフがところどころで繰り返されて、最後のカルメンの死の場面で最高潮に達します。オペラの幕切れは悲劇です。これはオペラ・コミックとしては異例のことでした。

名句として掲げたのは、カルメンがホセに殺されることを受け入れる場面のセリフです。

Comme mon rom, tu as le droit de tuer ta romi, mais Carmen sera toujours libre. Calli elle est né, calli elle mourra.

あんた、あたしのロム(亭主)だもの、自分のロミ(女房)を殺す権利はあるよ、だけどカルメンはいつだって自由なのさ。カリ(ジプシー)に生まれついた女なんだ、カリ(ジプシー)のまんま死んでってやるよ。

最後までジプシーとしてのアイデンティティを守り、自由であろうとする彼女の生き方がここに集約されています。フランス文学にあらわれるジプシーは、すでに「名句の花束」第33~35回でとりあげたユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』のヒロイン、エスメラルダがいます。ただ、彼女の場合は、実は赤子のときにジプシーにさらわれて育てられた娘であったという落ちがついています。

カルメンというのは、マリアと並んでスペイン人に多い名前のようです。かつてクレルモン=フェラン大学の博士課程に籍をおいていたとき、同時に外国人向けの語学学校の講座にも短期間出席していました。さまざまな国から来た若者たちと出会いましたが、そのなかにカルメンがいました。オペラのヒロインのイメージが強烈だったので、名前から連想する印象とはまるで違っていて、はじめは少しとまどいました。聡明で落ち着いた性格の女子学生でした。ただし、フランス語を話すとき、スペイン語式を持ち込む癖がありました。母音にはさまれたsを「ス」と発音するのです。彼女が話すとき、Vous avezも、Vous savezも同じく「ヴサヴェ」となるので、区別がつかず面食らいました。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から (48)

« Mon Nara » No 278, 2016年11-12月号 掲載

フランス文学の庭から(48)

名句の花束

三野博司(会長)

Carmen sera toujours libre. (1)

カルメンはいつだって自由なのさ。

(プロスペル・メリメ『カルメン』1845年)

 

前回はボーマルシェを取り上げ、その二つの戯曲がオペラ化されて広く知られるようになったと述べました。同様の例として、すでに『名句の花束』第38・39回で、ベルギーの作家メーテルランクの『ペレアスとメリザンド』を紹介しています。これらのように、戯曲をオペラとして上演するにあたっては、翻案に際しての改変は比較的小規模なものにとどまります。他方で、小説のオペラ化となると、作品の構成、とりわけ語りの構造の大きな変更が必要になる場合が多いようです。

オペラ化されたフランスの小説で、一番にあげるべきはやはり『カルメン』でしょう。メリメの原作は1845年に発表されました。小説を書くと同時に考古学者・言語学者・史跡監督官でもあった彼の『カルメン』には、作者の体験が裏打ちされています。4つの章に分かれ、まず第1章では、作者の分身とおぼしきフランス人の考古学者が語り手として登場し、その旅物語が始まります。彼はスペインのアンダルシア地方で調査中、怪しげな男ドン・ホセに出会います。続く第2章で、語り手はボヘミアンの女カルメンと遭遇し、彼女に同行して入った部屋でドン・ホセに再会します。その後数か月が経過して、彼はまたもや、今度は囚人となったドン・ホセに面会するのですが、実はこの2度目と3度目の出会いのあいだに、ホセはカルメンを殺しているのです。ホセは自分の悲しい生涯を語りはじめます。続く第3章全体が、ホセが語る数奇な体験の詳細です。このあと、さらに第4章が付加され、語り手がジプシーに関して学者としての蘊蓄を披露します。

ビゼーのオペラは、第3章のホセの物語に基づいていますが、これは小説全体の5割ほどでしかありません。台本作者はオペラ化にあたって大きな伐採を行い、物語の核心部分だけを取り出して、奔放で淫蕩なジプシー女のドラマチックな物語に仕立てあげたのです。そうした要素はもちろん原作にも含まれていたわけですが、メリメの学究的な態度と、抑制された筆致によって、この作品はむしろ古典的ともいえる端正な姿を呈していました。オペラは、そのなかから、強烈な個性をもった不滅のヒロインを引き出したといえるでしょう。

この第3章では、ホセが語り手であり、すべてが彼の視点から語られます。彼は命令に従う兵士であり、カルメンを逮捕しなければなりません。彼はまた家族の秩序に従う息子であり、母や婚約者がいます。さらに彼は19世紀の祉会において男性としてふるまうことを要求されます。しかし、カルメンによって魅惑され、その魔力にとらえられたホセは、こうした社会的秩序から転落していくのです。カルメンは、彼の男性としての優越性を奪い、力関係を転覆させ、相手を懇願する存在へと至らしめます。ホセは、密輸の仕事仲間に加わり、人殺しに手を汚し、ついには嫉妬の果てに山中でカルメンを殺害するに及ぶのです。

ドラマの観点から統一性を与えているのは円環構造です。投げる行為で始まり、同じ動作で終わります。カルメンがアカシアの花を投げてホセを誘惑し、これが彼の転落の始まりとなります。そして、最後はカルメンが、むかしホセからもらった指輪を投げ捨て、相手の怒りを誘います。彼女は、相手を挑発して、自分を殺すようにと導くのです。この二つの場面はメリメの原作にもあるのですが、オペラではとりわけこの投げる動作が強調されて効果をあげています。ここでは、カルメンが初めから終わりまで指導権をもち、ホセを挑発し続けます。しかし、そのカルメンにも自由な選択が許されているわけではありません。死の宿命が彼女を支配しているのです。彼女は何度かカルタ占いを行って、こう言います。「あんたがいつかあたしを殺すことはわかっている。死が待っていることは知っているよ」。こうして、逃れられない悲劇へと向かって二人は突き進んでいきます。

名句の花束-フランス文学の庭から(47)

« Mon Nara » No 277, 2016年9-10月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(47)

 三野博司(会長)

 Tout finit par des chansons. (2)

ものみな歌で終わる

(ボーマルシェ『フィガロの結婚』 1780年)

 

パリのコメディ・フランセーズの正面玄関を入ると、椅子に腰かけてほおづえをつくモリエールの全身像が目を引きます。その手前にはボーマルシェの像もありますが、こっちはずっと小ぶりの胸像です。この建物が建造されたのは1799年、ボーマルシェ死の年であり、『セビリアの理髪師』も『フィガロの結婚』も上演は別の場所でした。

『セビリアの理髪師』の筋立ては、古典的な喜劇の常套に従っています。中年の男が若い養女を育ててやがては妻にしようと虫の良い目論みを立てますが、結局は若い男があらわれて掌中の珠をさらっていくという話。モリエールも同じテーマで『女房学校』を書いています。これだけなら新味はないと言えますが、ただ従者として登場するフィガロに、身分は低いけれども機転がきき、陽気で策略好きという基本的な性格が付与され、芝居を生き生きしたものにしています。

続篇の喜劇『フィガロの結婚』は、18世紀でもっとも成功した芝居です。こんどは主役として登場したフィガロが、縦横無尽に活躍します。彼の口から、当時の特権階級を攻撃するスローガンが発せられると、観客は喝采したといわれています。時代はすでにフランス革命前夜でした。なかでも第5幕第3場、フィガロが観客席に向かって発する長い独白は人口に膾炙されていますが、伯爵を批判する内容のその一部を引用しましょう。生まれの貴賤が一生を決定するという身分制度への批判が、痛快なせりふで語られます。

「あなたは自分が大貴族だから、うまれつきの才能もたっぷりあると思ってる!……爵位、財産、地位、いくつもの肩書き、全部揃って威張りくさっているんだ! でも、これだけのおいしい結果を手に入れるのに、あんたはいったい何をしたんです? 生れるという骨を折っただけ、後は何もしてないじゃないか。Qu’avez-vous fait pour tant de biens! Vous vous êtes donné la peine de naître, et rien de plus.」(鈴木康司訳)

ル・フィガロ (Le Figaro) は、フランスの日刊紙の名前にもなっています。1826年創刊、現在もなお刊行されて、フランス国内では最も古い歴史を持ちます。政治的色分けとしては保守中道といったところです。紙面では標題の下に次のことばを標語として掲げていますが、これは先にも紹介した第5幕第3場のフィガロの長台詞の中にあります。

« Sans la liberté de blâmer, il n’est point d’éloge flatteur. »

「譴責処分なんてものがなければ、お追従、おべっかもなくなるさ」

ところで、名句に掲げたのは、『フィガロの結婚』最後の句です。フィガロの「どうぞ皆様、私めに嬉しい喝采と名誉をくださいますよう」で大団円を迎えたあとに、音楽付きのヴォードヴィルが続きます。バジールが先導をつとめ、以下、シュザンヌ、フィガロと登場人物たちが順次口上を述べたあと、最後に登場したブリドワゾンが、次の句で締めくくります。

« Tout finit par des chansons. »

往年の辰野隆訳は「唄でおわるが世のならい」、小場瀬卓三訳は「歌でめでたし しめくくり」、最新の鈴木康司訳は「すべては歌でめでたしとなる」となっています。表題に掲げた「ものみな歌で終わる」は、ボーマルシェの芝居を愛した花田清輝の戯曲の題名です。1964年、日生劇場の柿落としのために書かれ、上演されました。「かぶきの誕生に関する一考察」の副題が示すように、佐渡島を舞台に出雲のおくにを描き、フィナーレは京都四条河原。「歌で終わる」というより、これから歌舞伎をはじめようとするところで幕が下ります。

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(46)

« Mon Nara » No 276, 2016年7-8月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(46)

 三野博司(会長)

 

Tout finit par des chansons. (1)

ものみな歌で終わる

(ボーマルシェ『フィガロの結婚』 1780年)

 

オペラ台本の素材を提供した戯曲作家といえば、なんといってもシェイクスピアが筆頭でしょう。若き日のヴェルディが若々しい力あふれるオペラに仕立てあげた『マクベス』、そして晩年の円熟を示す名作『オテロ』と、『ウィンザーの陽気な女房たち』をもとにした『ファルスタッフ』。これだけで3作ですが、さらに他の作曲家たちの手になる『ハムレット』『真夏の夜の夢』『ロメオとジュリエット』もあります。断然第一位ですが、このシェイクスピアに次ぐのは、18世紀フランスのボーマルシェではないでしょうか。彼は人気オペラ作品『セビリアの理髪師』と『フィガロの結婚』の原作者なのです。フィガロ三部作のうち、最後の『罪ある母』は凡作と見なされていますが、前2作は戯曲として成功しただけでなく、オペラ化されて不滅の名声を獲得したといえるでしょう。

この2作のオペラについては、私も映像で見る以外に、パリで何度か実際の舞台に接したことがあります。だが、そこはストライキ好きなフランス人のこと、オペラとて例外ではありません。オーケストラ楽員や合唱団メンバーのストライキではなく、道具方のストだったのがまだしも幸いだったといえるのかもしれません。歌手は衣装をつけて登場し、かんたんな小道具もあるのですが、舞台装置や大道具がありません。なんとも味気ないですが、歌や演奏さえよければそれでもいいとも言えます。むかしはLPレコードで音楽だけを聞いていたわけですから。

映画監督でもあるコリーヌ・セロー演出の『セビリアの理髪師』は、パリで2002年から2012年までたびたび上演されました。2002年にこの初演を見ました。趣向を凝らした楽しい舞台でしたが、数年後に再び見たときは、ストライキのため舞台装置がありませんでした。前回の記憶を必死で想起しながら、殺風景な舞台を想像力で補いました。他方で、『フィガロの結婚』は、1970年代からパリ・オペラ座でジョルジュ・ストレーレル演出による伝統的な舞台を再演し続けています。18世紀の雰囲気あふれる洗練された名演出ですが、これも2回目はストライキに出くわしました。このときも、前回の記憶が頼りでした。他の演目では、パリ・オペラ座のストライキに遭遇したことはありません。なぜこの2作なのか。主人公であるフィガロの反骨精神がストライキを誘発したのかと思ってしまいます。

舞台で機略縦横の活躍を見せるフィガロは、波瀾万丈の生涯を送ったボーマルシェ自身の姿だと言われています。先に書かれたのは『セビリアの理髪師』で、1775年です。大当たりを取ったので続編『フィガロの結婚』が書かれ、1780年に完成したものの上演許可がおりず、初演は1784年でした。このパリでの評判を聞きつけたダ・ポンテがイタリア語の台本を書き、モーツアルトが作曲して、早くも1786年にはウィーンで上演されました。登場人物名もイタリア語化され、原作のシュザンヌがオペラではスザンナ、シェリバンがケルビーノといった具合です。全編これ名曲といえますが、「手紙の二重唱」の美しさは比類がありません。

他方で、『セビリアの理髪師』のほうは、19世紀に入ってから、1816年、ロッシーニ作曲によってオペラになりました。多作であったロッシーニのオペラは、いまでは世界中で上演されていますが、その再評価が始まる1970年前後までは、『セビリアの理髪師』が唯一の代表作でした。お涙頂戴ものが多いイタリアオペラの中では、少数派の明朗喜劇です。メゾ・ソプラノが主役になるオペラは数少なく、『カルメン』と『サムソンとデリダ』が代表的な作品ですが、『セビリアの理髪師』は、同じロッシーニの『チェネレントラ』と並んで、ヒロインはメゾ・ソプラノです。ロジーナが歌うカヴァティーナ「ある声が今しがた」がやはり耳に残ります。(以下次号)

 

 

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(45)

« Mon Nara » No 275, 2016年5-6月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(45)

 三野博司(会長)

 

Quand finira la comédie ?  (2)

いつ終わるんですか、この芝居は?

(マリヴォー『愛と偶然の戯れ』 1730年)

 

前号でシルビアの台詞を紹介しました。「Quand finira la comédie ? いつ終わるんですか、この芝居は?」ところが、父親は簡単に終わらせようとはしません。彼にはこの芝居が最後には良い結果をもたらすという確信があるようです。双方が変装して化かし合っているわけですが、このゲームでは耐えきれなくなって先に正体を明かしたほうが負けなのです。父親はそのことも十分にわきまえていて、娘にじっと我慢させて、相手が降参するのを待たせるのです。

この変装をいっそう複雑にしているのが、マリヴォー風文体marivaudageと呼ばれる陰影に富む微妙な台詞です。召使いに変装したシルヴィアは召使として語っているのか、あるいは自分の本心を漏らしてしまっているのかあいまいです。そこへ傍白が加わって、台詞が示す心理の層はさらに複雑になります。モリエールの芝居のような古典主義的な簡明さをもたないために、登場人物の解釈も多義的でニュアンスとふくらみをもつものとなります。

マリヴォーの有名なことばがあります。「私は恋心が身をひそめていそうな穴を注意深く見張った。私の喜劇の一つ一つは,そういう穴から恋を引き出して見せることにある」。このような微細な心理の綾を分析することにかけて、彼は卓越した技量を見せました。しかし18世紀は哲学思想の時代でもあるので、たとえばヴォルテールのように批判する人もあらわれました。「私はむしろ彼にさまざまの感情をあまりにも細かく分析し、時には人心の大道からそれて、いささか曲がりくねった小道を取ったことを咎める」。果たして人心の大道からそれているのか、このような微細こそが人心ではないか、という気もします。

『愛と偶然の戯れ』は、冒頭で、男女双方において主人と召使が変装して入れ替わるという手法を用いていますが、その5年前、1725年にマリヴォーは同じような身分転倒の芝居『奴隷の島』を書いています。島というのは孤立した小宇宙であり、独自の文化・文明をもっていることがあります。そこへ外界からヨーロッパ人がやってきて、奇想天外な体験をするという「島もの」は、当時流行したようです。『奴隷の島』には主人と召使の身分が逆転するという規則があり、そこへ漂着した2組の主人と召使の喜劇が繰り広げられます。ただし、身分が入れ替わっても、最後にもとに戻るところは『愛と偶然の戯れ』と同じです。この半世紀後に勃発するフランス革命のように、実際に階級転覆が起こるわけではありません。

『奴隷の島』はコメディー・フランセーズではなく、ずいぶん昔にモンパルナスの小劇場で見たことがあります。劇場の入り口で料金を払うとき、こんなやりとりをしたのを覚えています。「学生ですか?―いいえ」、「失業者ですか?―いいえ」、「大家族ですか?―いいえ」、「じゃあ正規料金で、40フランです」。ユーロではなく、まだフランの時代でした。いまでは学生と間違われることはないのでこんな質問は受けませんが、かといって窓口で「失業者ですか」とたずねられたのはこのときだけです。「大家族ですか」と質問されたことも、他には一度もありません。フランスの鉄道SNCFでは、3人以上の子どもを連れて乗車するときは大家族 famille nombreuse 割引になるようですが、私が劇場に行ったときはひとりでした。この劇場のウェブサイトを見ると、学割、失業者割引は現在もあるようですが、大家族割引料金はありません。いつまであったのでしょうか。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(44)

« Mon Nara » No 274, 2016年3-4月号 掲載

名句の花束—フランス文学の庭から(44)

三野博司(会長)

 

Quand finira la comédie ? (1)

いつ終わるんですか、この芝居は?

(マリヴォー『愛と偶然の戯れ』 1730年)

 

『タルチュフ』は偽善者に翻弄される父親によって引き起こされた一家の危難を描いていました。この父親の名前はオルゴンでした。愚昧でありながら、家父長としての権力を振りかざし、愛娘をタルチュフに嫁がせようとし、息子に向かっては勘当するぞと脅します。およそ尊敬されるべき父親像とはほど遠いです。

同じオルゴンという名でありながら、マリヴォー『愛と偶然の戯れ』に登場する父親は、ずっと思慮深くて、明察の持ち主です。この名前の一致は偶然ではなく、作者はモリエールの傑作を十分に意識して命名したのだと言われています。『タルチュフ』から66年後、1730年に上演されました。ルイ14世の絶対王政の時代が過ぎて、18世紀に入り、家族のありかたが変化しているように思われますが、実際はそうでもなく、この物分かりの良い父親像はこの時代でも例外的だったようです。

マリヴォー  Marivaux はl688年、裕福な貴族の息子としてパリに生れました。パリの法学部で学びますが、法律の勉強をなおざりにして、文筆家の道を選びます。1720年に発表した喜劇『恋にみがかれたアルルカン』により名声を得て、以後30数篇の喜劇を書きます。なかでも恋愛喜劇が有名であり、恋の発生およびその後の恋に対する主人公の揺れ動く心理を描くのを得意としました。

3幕散文喜劇の『愛と偶然の戯れ』は彼の代表作です。『タルチュフ』については、かつてNHK-BSで放映されたコメディー・フランセーズによる上演を授業で紹介したと書きましたが、同じ時期にやはりBSで放映された『愛と偶然の戯れ』も楽しい舞台なので、毎年のように授業で見せていました。18世紀の裕福な市民の館が再現されて、いかにもロココ趣味の芝居に仕上がっています。他方で4年前パリに滞在したときに見たコメディー・フランセーズの舞台は、ずっとシンプルで様式化された装置が設えられ、現代的な演出でした。父親がやや滑稽に描かれて、変装した娘のゲームを楽しんでいる風だったり、それぞれの人物の演技が過剰で性格付けが強調されていたり、マリヴォー劇に対する新しい解釈がそこに反映しているのでしょうか。色で言うと、やや原色が目立つという感じです。ただ授業で見せたいと思うのは、単に自分の感覚が古いだけなのかも知れませんが、やはりかつての優美なパステルカラー色の演出です。

物語は、オルゴンの娘と、このオルゴン家にやってきた田舎に住む青年の恋ですが、2人はたがいに相手の人物を見きわめようと、召使いと役割を取り変えます。ここでは、変装 déguisementが重要な主題となります。登場人物6人のうち4人が第1幕冒頭で変装して、そのまま芝居が進行します。これにより人物それぞれの性格が二重になり、人間関係も複雑化します。コミュニケーションは不透明になり、幾重ものヴェールで覆い隠されて、どこに真実があるのかわからず、人物たちはついには自分のアイデンティティまでも疑い始めます。他人を演じることは、結局自分自身の正体について自問することになるのです。ここには、変装のもつ二重性があざやかに示されています。変装することによって自分自身を隠し、自由にふるまうことができる。しかし、その自由は結局もう一つ別の檻に入ることであり、今度はそこから抜け出すことが困難になります。

引用句は、第2幕第11場、父親に頼み込んで変装ゲーム始めたシルヴィアが、とうとう耐えきれなくなって父に問う場面です。「Quand finira la comédie ?  いつ終わるんですか、この芝居は?」(以下次号)

名句の花束ーフランス文学の庭から(43)

« Mon Nara » No 273, 2016年1-2月号 掲載

名句の花束―フランス文学の庭から(43)

 三野博司(会長)

 

C’est à vous d’en sortir.  出ていくのはおまえだ。(2)

(モリエール『タルチュフ』1664年)

 幕が上がると、オルゴン家の広間。主人の留守中に家族がタルチュフのうわさをしています。そこへ帰宅したオルゴンが登場しますが、加減の悪い妻を気遣うこともなく、「留守中、タルチュフさんはどうだった?」と繰り返すばかり。第2幕では、オルゴンが愛娘をタルチュフに嫁がせようと目論んで、家族の猛反発を受けます。さんざんタルチュフが話題になるのに、いっこうに舞台に姿を見せません。こうして観客の好奇心をそそっておいて、第3幕にいたって、ようやくこの偽善者がいかにも敬虔な信仰家の顔つきで登場します。この手法をゲーテは称賛したと言われています。

第4幕、テーブルの下に隠れてタルチュフの化けの皮をはがすといういかにも笑劇めいた場面を経て、オルゴンは目覚めますがあとの祭り。タルチュフに全財産を譲渡するという書類をすでに書いてしまっています。「出ていけ」というオルゴンに対して、「出ていくのはおまえだ」とタルチュフが居直るセルフが、上に掲げた句です。「軒を貸して母屋を取られる」というやつですね。「恩を仇で返す」とも言えます。自分にとって役に立つ、益になりそうだと思って内部に招じ入れると、こいつが手に負えない代物で、結局は自分の命取りになるというパターンですが、これは私たちの身の回りでもいろいろな場面でありそうです。

『タルチュフ』の場合は、第5幕、偽善者のたくらみが成功する直前に、国王の使者による救済の手がのべられて、一件落着となります。いかにもあっけない幕切れですが、これはモリエールにはよくあること。彼の劇については、筋の展開は二の次で、時代の風俗や性格の描写にこそ真骨頂があるのだと言われています。

大学の授業で見せていたビデオは、1973年ジャック・シャロン演出のコメディ・フランセーズ版です。この舞台映像が、ずっとのちになって、1980年代にNHK・BS放送から日本語字幕付で放映されました。それを録画したものを毎年授業で使っていました。17世紀の町人の屋敷を再現した舞台装置が臨場感を高め、タルチュフを始めとしてそれぞれがはまり役という感じで完成度の高い舞台だと思います。数年前からは、コメディ・フランセーズ、モリエール・コレクション DVD-BOX、全15作品、日本語字幕付が発売されています。ただ、このシリーズは、舞台は狭くて装置はないというに等しく、『タルチュフ』も登場人物がのっぺりした壁の前で演技するだけ、その演技も薄っぺらく感じられます。

パリへ行くたびに、しばしばコメディ・フランセーズ劇場に足を運びます。ごく最近では、2015年11月にマリヴォー『二重の不実』を見たばかりですが、この劇場での最初の観劇体験は、1980年9月の『タルチュフ』でした。たぶんシャロン演出だったと思いますが、細部はあまりよく覚えていません。初めて入った劇場の伝統ある格調高い雰囲気だけが強い印象として残っています。

ただ『タルチュフ』の舞台を始めて見たのは、その前年の1979年、TNP(フランス国立民衆劇場)の来日公演です。フランスの劇団の引っ越し公演が大阪で見られるなどというのはもう今では考えられないですが、かつての大阪厚生年金会館中ホールで見た舞台は、ロジェ・プランション演出でした。タルチュフを若い男性に設定する演出が当時話題になっていたと記憶しています。オルゴンは、町でみかけたタルチュフを優れた聖職者だと信じ込んで、わが家に招き入れるのですが、そこにオルゴンの隠れた欲望を読み取るというものです。つまりオルゴンは同性愛者であり、性的たくらみをもって、若い美貌のタルチュフに近づき、自分の家に住まわせるのです。まあ、そういう解釈もありかな、という感じではありますが。

名句の花束ーフランス文学の庭から(42)

« Mon Nara » No 272, 2015年11-12月号 掲載

フランス文学の庭から(42)—名句の花束

 三野博司(会長)

 C’est à vous d’en sortir.  出ていくのはおまえだ。(1)

(モリエール『タルチュフ』1664 年)

 

この3月で奈良女子大学を定年退職し、4月から同大学キャンパス内にある放送大学奈良学習センターに勤務しています。各都道府県にある学習センターの所長は、事務長の補佐を得てセンターの管理運営を請け負いますが、同時に放送大学特任教授でもあるので、管理職と研究職を兼ねています。研究のほうはこれまでと変わりませんが、所長の仕事は、大学での文学部長の仕事などとはずいぶん違うという感じでした。が、それも半年で慣れました。

強く実感したのは、奈良には勉強熱心な高齢者の人が多い、ということです。実際、奈良学習センターに所属している学生の年齢分布では、65歳以上の割合が全国平均を上回っています。そして、学習センターの周辺人口を調査してみると、奈良では10万人以上の都市はわずか4市(奈良市、橿原市、生駒市、大和郡山市)しかありませんが、これよりはるかに大きな人口の都市を多く抱えるセンターは全国にいくらもあります。ところが、奈良学習センターの学生数は、地域人口比から見るとかなり高率です。競合する文化教室などが少ないとか、奈良には遊ぶところがないので勉強するしかないとか、いろいろ理由は考えられるかもしれませんが、やはり奈良の人は勉強熱心で、生涯学習熱が高いのだろうと思います。

奈良学習センターでは、「フランス文学の名作を楽しむ」と題した「所長ゼミ」を月に一回を開いています。「名句の花束」のゼミ版みたいなものですが、 Mon Naraの読者は大半がフランス通の人たちであるのに対して、このゼミの受講生のほうは、これまでフランスにも、文学にも縁がなかったけれど、とにかくさまざまな新しいことを学びたいという学習意欲を持つ人たちが多いです。4月に着任して、5月が第一回目の所長ゼミでした。モリエールの『タルチュフ』を取り上げましたが、理由は単純で、大学で担当していたフランス文学史の講義において、やはり毎年4月にモリエールから始めていたからです。劇作家とその時代について簡単に解説したあと、『タルチュフ』のあらすじを話して、コメディー・フランセーズの舞台(日本語字幕付き)を見せました。

まったく偶然の一致なのですが、1月のフランス・アラカルトで、奈良女子大学名誉教授の山本邦彦先生が『タルチュフ』について講演されることになりました。芝居を語れば余人の追随を許さない専門家の奥深い話をぜひお聞きください。というわけで、ここでは簡単に名句を解説するにとどめます。「名句の花束」第13回(2011年1-2月号)でラシーヌを取り上げたとき、彼がモリエール一座の名花であった女優マルキーズ・デュ・パルクを引き抜いて自作『アンドロマック』(1667年)に抜擢したため、モリエールの恨みを買ったことに触れました。その3年前の1664年、当時国王ルイ14世はヴェルサイユ宮殿建設中でしたが、その一部完成を祝う大祭典「極楽島の歓楽」の6日目の出し物として『タルチュフ』が上演されたのです。

修辞学でantonomaseと呼ばれている技法があります。「換称」あるいは「代称」と訳されていますが、固有名詞を普通名詞として使う、あるいはその逆の方法です。たとえば、ラスチニャック(バルザック『ゴリオ爺さん』などの登場人物)といえば「野心家」を意味し、コゼット(ユゴー『レ・ミゼラブル』のヒロイン)といえば不幸な女の子を指します。いくつもの「典型」を生み出したモリエールの戯曲では、アルパゴンと言えば「吝嗇家」、ドン・ジュアンといえば「猟色家」ですが、なんといっても有名なのはタルチュフ=「偽善者」でしょう。だまされるオルゴンは確かに愚かで滑稽に見えますが、他方でタルチュフの徹底した偽善者ぶりは、これだけみごとならだまされるのもむべなるかな、と思わせるほどです。(以下次号)

 

 

名句の花束-フランス文学の庭から(41)

« Mon Nara » No 271, 2015年9-10月号 掲載
名句の花束-フランス文学の庭から(41)

三野博司(会長)

― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front
二人並んでは通れないくらい狭いのです(2)
(ジッド『狭き門』1909年)

15歳のころからジッドは従姉マドレーヌ・ロンドーを愛していました。22歳のときに発表した処女作『アンドレ・ワルテルの手記』に語られたエマニュエルヘの愛は、そのままマドレーヌヘの愛の言葉でした。それは肉欲とは無縁な、神秘的なまでに純粋な愛の物語なのです。そのマドレーヌと結婚したあと、2年前に強烈な太陽のもとで生命の蘇生を感じたアルジェリアを、1995年に今度は妻を伴って再訪します。このとき、彼は少年愛のなかにみずからの解放を見いだすことになります。妻となった女性への純化された愛と、北アフリカの少年に対する激しい情欲と、やはりジッドは複雑な人です。
1909年に発表された『狭き門』の題名は、ルカによる福音書第13章24節「力を尽くして狭き門より入れ」に基づいています。作者の分身とみなすことができるジェロームが「私」として語り、彼の目からアリサの言動が描かれ、二人がやりとりした手紙もふんだんに引用されます。アリサは、ジッドの従姉で妻となったマドレーヌがモデルとなっています。彼女はジェロームとの結婚を拒み続け、世俗的な愛の望みを退け、神へ至る道はただ一人しか赴けないと言って、最後は療養所で孤独のうちに死ぬことになります。ジッド自身のプロテスタント心性がアリサに投影され、そのアリサの悲劇を描いて、プロテスタントの精神を批判したといわれています。このあたりも手が込んでいるという感じです。
ジェロームの目にとって、自分を避け続けるアリサの言動は不可解に映りますが、小説の末尾にはアリサの「日記」が置かれ、彼女の心情がいくぶんかは明らかにされます。その日記には表題「狭き門」を連想させる次の一節があります。
La route que vous nous enseignez, Seigneur, est une route étroite ― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front. (主よ、あなたが示したまう その道は狭いのです ― 二人並んでは通れないほど狭いのです。)
ここだけを読むと、アリサの物語は、神への愛をまっとうするために地上の愛を断念した聖女の物語になってしまいます。けれども、この小説はそれほど単純に書かれてはいません。アリサをそんな悲劇へ追いやったのは、ジェロームにも責任の一端があるでしょう。ジェローム自身が、いくぶんかはそれに気づいていました。次第に開いていくアリサとの溝がもう取り返しのつかないものになったと思われたとき、彼はこう語るのです。「僕はアリサを徐々に高い場所に祭り上げ、自分好みの附属品で飾り立て、彼女を偶像に仕立てあげたのだが、その作業の結果残ったのは、疲労だけではなかったか?」
確かにアリサにとって不幸だったのは、ジェロームがあまりにも自分を理想化していると感じ、そのイメージに追いつくことができなかったことでしょう。それが彼女には神へと逃げる理由になったともいえます。しかしまた、アリサのような人はどんな状況にあっても幸福になれないようにも思われます。彼女は幸福になることを恐れる心性の持ち主であり、その点で、どんな環境にあってもそこに自分なりの幸福を見出していく妹ジュリエットとは対照的です。ジッドは二人を描きわけて、この小説を「アリサの日記」で終わらせるのでなく、最後はジュリエットのたくましい姿で結んでいます。

名句の花束ーフランス文学の庭から(40) 

« Mon Nara » No 270, 2015年7-8月号 掲載

名句の花束—フランス文学の庭から(40)

三野博司(会長)

― étroite à n’y pouvoir marcher deux de front
二人並んでは通れないくらい狭いのです
(ジッド『狭き門』1909年)

 前回までに「美女と野獣 騎士と妖精」の主題で三つの作品を紹介しましたが、その前に取り上げたのはバルザック『谷間の百合』でした。モルソフ夫人ことアンリエットが、フェリックスとの地上での愛を断念し、天上を憧憬しつつ死を迎える物語でした。今回取り上げるジッド『狭き門』のヒロインもまた、やや似た経緯をたどって、現世での愛を遠ざけて病死してしまいます。モルソフ夫人は貞淑な人妻にして二児の母。フェリックスとの愛をかなえるには困難な状況にあります。他方でこちらのヒロインであるアリサはもっと自由な身であり、すべては彼女の意志で決定できるように思われます。ところが、プロテスタントの厳正な信仰が彼女の愛の障害となるのです。
アリサはもちろん西洋人の名前で、若いころ私が初めて『狭き門』を読んだときには周囲にそのような名前の女性はいませんでした。ところが、20年ほど前に授業でこの作品を取り上げたとき、ひとりの女子学生が「私も有里紗」ですと言って、これが日本人の名前になっているのに気づきました。そしていまではもう珍しい名前ではありません。亜理沙、愛梨沙、ありさ……。
作者のジッドは1869年パリに生まれました。リュクサンブール公園のすぐ北、現在のエドモン・ロスタン広場2番地、ダロワイヨのあるところです。彼は好んで自分を「2つの血筋、2つの地方、2つの宗教の果実」と呼んでいました。父は南仏出身でカトリック、母は北仏出身でプロテスタント。この二つの要素が自分のなかで混交していると自覚していましたが、ただ宗教的にはとりわけ厳格なプロテスタントの母に育てられ、11歳の時父を失ってからはいっそうその支配を強く受けました。
フランスはカトリックの国であり、プロテスタント教徒は、カトリック教徒、イスラム教徒に次ぐ第3位で、人口のわずか3パーセントを占めるにすぎません。歴史的には15世紀末、アンリ4世がナントの勅令を発して信教の自由を認めたことで勢いを得ましたが、ほぼ一世紀後にルイ14世がこれをフォンテーヌブローの勅令で取り消したことも手伝って、フランスでは少数派になってしまいました。
「宗教改革」を意味するRéformeという名を冠したプロテスタント系週刊新聞があります。第二次大戦後に発刊され、現在も続いています。私の博士論文の指導教授であったヴィアラネー先生は、大学を早期退職後、1984年から数年間Réformeの編集長を務めておられました。事務所は、パリ、モンパルナスのメーヌ通り43番地にあり、何度か編集長室を訪れました。
博士論文を書きあげたあと、先生からの求めに応じて、数年にわたりこの新聞に日本文化紹介エッセイを書いたことがあります。プロテスタント系の新聞ということで、日本人の spiritualité に触れるような文章を心がけました。生まれてから30年京都に住んでいたので、春の桜、秋の菊、おけら参り、金閣寺などなど、主として京都の風物を紹介しながら日本文化と日本人の精神生活に触れました。やはりプロテスタントであり、 Réformeの読者であったモンペリエ大学教授のジャック・プルースト氏から感想を認めた手紙をもらったのもなつかしいです。
のちにこれらの文章をまとめて中級フランス語の教科書を作りました。タイトルは Les Saisons nipponnes et leurs signes です。自分自身が授業で何度か用いたほかに、他大学でも教科書として採用してくれる人があり、さらにはこの中の文章を仏文科の大学院の入試問題に使わせて欲しいという依頼もありました。東京の知られた私立大学でしたが、「大学院の入試レベルとして最適なんです」とのことでした。
また話がわき道に逸れましたが、ジッドについては次回に。