名句の花束

名句の花束ーフランス文学の庭から(55)

フランス文学の庭から(55)

« Mon Nara » No 285、2018年1-2月号 掲載

名句の花束

三野博司(会長)

Le ciel est, par-dessus le toit

屋根の上なる大空は

(ヴェルレーヌ『叡智』1881年)

1869年、ヴェルレーヌは、10歳年少のマチルド(16歳)と婚約し、翌8月に結婚します。この幸せな婚約時代を反映する詩集が、70年に発表された『よき歌La Bonne chanson』ですが、平穏は長くは続きませんでした。

ヴェルレーヌがパリ、モンマルトルにあるモーテ家に住んでいた187l年9月、そこへやってきてこの幸福な新婚生活を破壊したのがランボーです。ヴェルレーヌは、この美少年に魅了され、一緒に外出、深夜帰宅の生活を繰り返し、醜聞を引き起こすことになります。やがて、二人は放浪の旅に出て、ベルギーで喧嘩し、ヴェルレーヌがランボーに発砲するに至ります。ランボーは手にけがをして、二人の仲は終わり、マチルドも離婚を要求します。これが文学史上に名高い、ランボーとヴェルレーヌの愛情と破綻の顛末です。

この時期、モーテ家におけるランボーとドビュッシーの「ニアミス」というものがあります。つまりかなり接近したけれども、相まみえることはなかったというものです。ヴェルレーヌの妻マチルドの母は、ピアノ教師でした。ランボーがモーテの家にやってきた一か月後、今度は、母親に伴われた10歳の少年がこの家にやってきます。のちの作曲家ドビュッシーであり、彼はモーテ夫人にピアノを習うため、この家に一年間通うことになりました。

ランボーとの関係が破綻したヴェルレーヌは、そのあと2年間の牢獄生活を送りますが、1875年に出獄し、81年には詩集『叡知』が刊行されます。そのなかに標題のない「屋根の上なる大空は」で始まる詩があります。

« Le ciel est, par-dessus le toit, / Si bleu, si calme ! /Un arbre, par-dessus le toit, / Berce sa palme. »   (屋根の上の大空は/青く、静かだ。/屋根の上の棕櫚の樹は/枝を揺すっている)

詩人が独房の小窓から外の景色を眺めています。見えるのは青空、樹木、小鳥、そして聞こえるのは鐘の音。それらは、今の自分にとって、近づくことのできない自由な生活を意味しています。いったいどうしてこんなことになったのかという嘆きで終わる詩です。

この詩に、1894年、フォーレは「牢獄」と題して作曲しました。4つの詩節のうち、第2詩節までは4分の3拍子で、メランコリックな旋律が続きますが、後半の第3詩節「あはれ、彼方よ 人の世は/静かに、清く。Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là / Simple et tranquille.」

からは、音楽はドラマチックなフォルテに転じて高揚し、そのあと最後は深い悲しみを表すように弱音で終わります。

もう20年も前のことですが、奈良女子大学の私の研究室にたずねてきた女性がいました。音大を出て、フランス歌曲の歌手として活動しているとのことでした。これまで音楽の勉強ばかりしてきたので、文学の勉強をしたい、できれば奈良女子大学に編入学したいとのことでした。そのときに彼女は、このヴェルレーヌの詩のことを語りました。フォーレによって作曲されたこの歌を練習した。でも、詩を読んで、奇妙な歌詞だなあと思った。空ばかり見上げている。あとで、これが獄中で作られた詩だと知って、納得した。そのとき、歌だけではだめだ、文学の勉強もしなければならないと感じたと言うのです。

ヴェルレーヌが没したのは、パリのパンテオンのうしろにある建物で、現在は一階がレストランになっており、手ごろな価格なので、かつて学生たちを連れて行き、食事をしたことがあります。恩師のヴィアラネ―先生のアパルトマンもすぐ近く、奥様が亡くなられたあと一人暮らしの先生を何度か訪問しました。

 

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(54)

フランス文学の庭から(54)

« Mon Nara » No 284、2017年11-12月 掲載

名句の花束

三野博司(会長)

De la musique avant toute chose

まず何よりも音楽を

(ヴェルレーヌ「詩法」1884年)

フランス歌曲(Mélodie)にもっとも多くの詩を提供したのは、なんといってもヴェルレーヌでしょう。同じ詩に複数の音楽家が作曲している例も多く、今回とりあげる「月の光」もフォーレとドビュッシーがともに作曲しています。ヴェルレーヌの詩と音楽との近縁を示す詩句としてよく知られているのは、1884年に刊行された詩集『昔と近ごろ』に収められた「Art poétique詩法」の冒頭にある「De la musique avant toute chose まず何よりも音楽を」という宣言です。そのあとは、こう続きます。

「Et pour cela préfère l’Impair / Plus vague et plus soluble dans l’air, / Sans rien en lui qui pèse ou qui pose. そのために奇数脚を好め / いっそう漠として大気に溶け込み / 何ものもとどこおることのない奇数脚を」

奇数脚とは一行の音節の数が奇数である詩句であり、そのため音楽的な律動を得て、感情の細やかな綾を表現することが可能になると言われています。

ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine, l844–96)は、フランス東部の町、メッスに生まれました。生家は、20年ほど前に訪れたときにはその表示があるだけでしたが、現在は記念館として公開されているようです。

1865年、父の死の年に、最初の詩集『土星びとの歌(サチュルニヤン詩集)』を発表します。そのなかに収められた「秋の歌Chanson d’automne」は、上田敏の訳によって知られています(1905年、訳詩集『海潮音』)。幾人かの作曲家によって歌曲になっていますが、むしろレオ・フェレやブラッサンスのシャンソンのほうが親しまれています。原詩の内容からいっても、シャンソンのほうが似合いそうです。ボードレールにも「秋の歌」と訳されるている詩があり、若き日のフォーレが作曲していますが、原題はChant d’automneです。Chantは荘重な歌曲を指すことが多いのに対して、Chansonのほうは通俗的な歌すべてを指します。同じ「秋の歌」でも、ボードレールの死を連想させる暗さに対して、ヴェルレーヌのほうは憂愁の情趣にたっぷりひたっているという感じです。

1867年、ヴェルレーヌの初恋の人エリザが亡くなり、2年後に発表されたのが、この従姉への秘めた愛を歌った典雅な詩集『雅なる宴La Fête galante』です。18世紀ロココ時代のフランスの画家ワトー(Antonie Watteau 1684-1721)の描いた典型として、「雅なる宴」の絵と呼ばれる一連の作品があります。田園や庭園に集った複数の男女が愛を語り合う、その様子を描いたものであり、ヴェルレーヌはこのワトー的な世界を歌いあげようとしました。

1887年、フォーレはヴェルレーヌを発見し、詩集『雅なる宴』の冒頭に置かれた「月の光」に曲を付けました。共通の美意識をもった二人の芸術家の幸福な出会いです。「月の光」はいままでの歌曲の概念を変える最初の曲のひとつで、ピアノと声がそれぞれ独立しています。前奏でピアノがメヌエットを奏でます。メヌエットは古い舞曲で、ゆるやかな3拍子。1拍目にアクセントが置かれ、優雅に踊られる宮廷舞曲です。やや安定感を欠いたピアノの音が、どこかはかなげでもの憂く、かつ典雅な気分をみごとに表現しています。それはまさに月の光の下で繰り広げられるかつての「雅なる宴」を幻想的にイメージさせてくれます。一度聴いたら忘れれないメヌエットですが、そこへ声がそっと加わります。とはいえ、ピアノは平然として演奏し続け、声も独自に歌います。それぞれが独立しながらも、二つのパートが緊密に融和しているという不思議な印象を与えます。ボードレールの詩に作曲された「秋の歌」は、フォーレの初期作品であり、ロマン主義的な雰囲気が残っていて、他の作曲家たちの影響も感じられます。「月の光」に至って、フォーレは、他の追随を許さない独自の世界を完成したといえるでしょう。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(53)

フランス文学の庭から(53)

« Mon Nara » No 283、2017年9-10月号 掲載

名句の花束

三野博司(会長)

豪奢、静けさ、逸楽

Luxe, calme et volupté

(ボードレール『悪の華』1861年)

「旅への誘い」はボードレールの詩のなかでもとりわけ有名なものです。旅行企画会社のキャッチフレーズのようなこの表題を見ると、旅心が目覚め、そわそわして、目の前の仕事(たとえば「名句の花束」の原稿を書くとか)を放り出して、ふらっと出かけたくなります。ただ、ボードレールの場合は一人旅ではありません。これは恋人を旅に誘う詩であり、詩人はマリー・ドーブランとオランダに行くことを考えて、二人だけで暮らす夢想を美しい詩に残したのです。

ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱Le Spleen de Paris』には、同じ「旅への誘い」と題した詩が収められており、その最初の数行では、恋人と一緒に訪れたいと願うこの国について、いっそう具体的に書かれています。

「類稀な国、黄金郷と人の呼ぶ国がある。私が古くからの女友達と訪れたいと夢見ている国だ。不思議な国、ヨーロッパの北方の霧に沈み、西洋における東洋と、ヨーロッパにおけるシナと、人は呼ぶことも出来るだろう。それほどに生彩ある、気紛れな幻想が恣(ほしいまま)に成長し、巧緻微妙な植物を配置して、この国を丹念に、執拗に、飾り立てている」(福永武彦訳)

マチスが点描画法で描いたコート・ダジュールの風景とは、まさに対極ですね。ヨーロッパの北方の霧に包まれた理想郷、詩人が想像の中で実現した二人だけの国なのです。

『悪の華』に収められた韻文詩のほうの「旅への誘い」では、後にヴェルレーヌが多用することになる奇数脚のリズム、すなわち7音節と5音節を交互に繰り返しつつ、微妙な感情の揺れ動きを表現しています。それぞれ12行からなる3つの詩節では、5,5,7の音節が4度繰り返されて、流動的な印象を与え、2行のリフレインでは7,7と同じ音節数を並置して、逆に静的な印象を与えます。この対比、そして、3度繰り返されるリフレイン « Là, tout n’est qu’ordre et beauté, Luxe, calme et volupté. » が、音楽的リズムを生み出します。

この音楽性を完璧に表現したのが、アンリ・デュパルク(Henri Duparc, 1848-1933)です。若くしてピアノを修め、やがて作曲を始め、1870年、普仏戦争の最中に「旅への誘い」を発表します。しかし、デュパルクは、38歳で病気のため作曲不能となり、その後自分の作品を焼却したので、わずか17の歌曲が残るだけです。なかでも「旅への誘い」は代表作であり、他の作曲家たちもこの詩に基づいて作曲を試みましたが、デュパルクほどの成功をおさめることはありませんでした。

デュパルクは第2節を省略して、第1節と第3節のみに作曲しました。全体にゆったりとしたテンポで、夢見る国への憧れを歌い上げるという印象です。冒頭のピアノから漠とした気分をただよわせ、夢幻の理想郷が霧の中から浮かび上がってくるかのような響きです。それに誘われるように、声はほとんど即興演奏のように予期しない形で入ってきて、伸びやかな旋律に乗って歌われ、恋人に呼びかけます。最初のリフレインでは、ピアノはわずかに印象的な和音の響きだけとなり、ほとんどアカペラのように、詩人の夢見る理想が淡々と語るように歌われます。続いて、クレッシェンドしつつ、いっそう動きを高めたあと、音楽は自由さを増し、頂点を迎える展開となります。二つ目のリフレインでは、歌のパッセージがピアノで思い起こされ、歌が終わると、余韻を確かめるように、ピアノのアルペジオが次第に緩やかになり、夢幻の彼方へと消えてゆくのです。

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(52)

« Mon Nara » No 282、2017年7-8月号 掲載

フランス文学の庭から(52)

名句の花束

三野博司(会長)

豪奢、静けさ、逸楽

Luxe, calme et volupté

(ボードレール『悪の華』1861年)

ドビュッシーに詳しいというわけでは毛頭ないのですが、フランス音楽ならやはりこの作曲家を抜きにしては語れないし、また2011年9月奈良日仏協会のシネ・クラブで『ペレアスとメリザンド』(ブーレーズ指揮、ウェールズ・ナショナル・オペラ)を取り上げたとき解説めいたものを引き受けた経緯もあり、奈良日仏協会理事の藤村久美子さんのピアノ演奏に三野が少し話を添えて、ドビュッシーの演奏会をやろうという企画が3年前からありました。

それが思わぬ形で発展して、今秋の11月23日、宇陀市において、Foyer Vert開設25周年記念コンサート「詩と音楽のマリアージュ――フランス歌曲の午後」を開催することになりました。藤村さんと三野に、バリトン歌手の水谷雅男さんが加わって、ボードレールとヴェルレーヌの詩に、デュパルク、フォーレ、ドビュッシーが作曲した歌曲(Mélodie)を取り上げます。

というわけで、その企画とも「コラボ」して、今回はシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867)です。パリに生まれ、生涯をパリで過ごした生粋の都会っ子です。1827年、6歳のときに父が亡くなり、母親が再婚しますが、この継父との葛藤が生涯続くことになります。1857年、彼は長年彫琢を重ねてきた詩篇をまとめて詩集として刊行し、これに『悪の華』と表題をつけました。世のなかで悪と見なされているもののなかに潜む華、すなわち美をうたい上げたのです。これを読んだユゴーは、1859年10月6日の手紙で、「君は新しい旋律を創造したVous créez un frisson nouveau」と讃えます。ただナポレオン三世が治める第二帝政下で、出版物の検閲がきびしい時代でした。この詩集は、「風俗壊乱」の廉で起訴され、罰金刑を課され6篇の詩の削除を命じられます。

そこで、ボードレールは、1861年、6篇を削る代わりに、新たな詩篇を追加して、増補第2版、129篇の詩を刊行します。全6部から成りますが、7割近い詩が第1部「憂鬱と理想」に含まれます。「憂鬱」とは、経済的窮乏、恋の苦悩、肉体の衰え、老いと死への恐怖などですが、他方で「理想」は純潔と美へのあこがれです。そして、この「理想」をうたった数多くはない詩の一つが、「旅への誘い(いざない) L’Invitation au voyage」です。

これはまた、ボードレールの詩で、早い時期に歌曲となったものの一つでもあり、1870年、デュパルクがみごとな曲をつけたことで知られています。原詩のほうは、3つの詩節からなり、1詩節が12行、そのあとに詩人の夢見る楽園が簡潔に要約された2行のリフレインが続きます。

Là, tout n’est qu’ordre et beauté,      彼処では、すべてがただ秩序と美しさ、

Luxe, calme et volupté.        豪奢、静けさ、そして逸楽。

この5語のうち、初めのordre et beauté の訳語はだれが訳してもあまり変わりませんが、あとのLuxe, calme et volupté. のほうは、「奢侈、静寂、そして快楽」「壮麗、静謐、そして欲望」など、いろいろあります。そして、これをタイトルにした絵画を残したのが、アンリ・マティス (1869-1954)です。Luxe, calme et volupté (図版参照)。ボードレールの詩から半世紀近くを経て、1904年、マチスが南仏のサン=トロペでひと夏を過ごした後に描かれました。ここで彼は、シニャックが当時主張していた点描画法を取り入れています。もっとも、翌年にはマチスはこの技法から離れます。1905年はフォーヴィスム誕生の年であり、彼はその開拓者となっていくのです。そして、マチス特有の楽園風景を描いたこの絵では、点描画法によりコート・ダジュールのまばゆい陽光が強烈に表現されています。では、ボードレールが夢見た楽園もそうなのでしょうか、それについては次回に。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(51)

« Mon Nara » No 281, 2017年5-6月号 掲載

フランス文学の庭から(51)

名句の花束

三野博司(会長)

Ses charmes surpassaient tout ce qu’on peut décrire. (2)

彼女の魅力は描きうるすべてを越えていた。

(アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』 1731年)

前回取り上げたサン=シュルピス教会での再会場面のあと、デ・グリューはますますマノンの抗しがたい魅力に惹かれて、あとは一気に転落。たびたび裏切られながらも恋人から離れることができず、父や友人、将来の地位を捨て、賭博や殺人にまで手を汚します。最後は、娼婦としてアメリカ、ルイジアナ、ニューオーリンズの流刑地に送られたマノンにつき従って、デ・グリューも新大陸に渡ります。(ルイジアナは、1682年フランス人入植者がルイ14世にちなんで命名し、当時フランス領でした。)

『マノン・レスコー』が書かれたのはアンシャン・レジームの時代であり、これは家父長制と宗教的権力の強い時代に、個人の情熱が押しつぶされる物語です。しかし、新大陸も結局は旧制度のコピーでした。そこでも二人は逃亡を余儀なくされ、マノンだけが荒野で死んでしまいます。この旧制度に対する、愛や個人の価値、情熱擁護の物語は、出版当時は発禁処分を受けるほど非難の的でした。しかし、19世紀に入り、ロマン主義の時代になって評価され、さらには写実主義、自然主義文学もこれを味方に引き入れようとしました。

刊行から150年を経た1885年、ギイ・ド・モーパッサンは、『マノン・レスコー』の再版に序文を寄せて、次のように書きました。「かつてこれほどに鮮明に、完全に描かれた女性はいない。かつてこれほど女性的であり、かくも甘美であると同時に不実な、恐るべき女性性の精髄を体現した女性はいなかった! Aucune femme n’a jamais été évoquée comme celle-là, aussi nettement, aussi complètement ; aucune femme n’a jamais été plus femme, n’a jamais contenu une telle quintessence de ce redoutable féminin, si doux et si perfide !」

この熱烈な賛美が書かれた一年前、1884年、マスネが『マノン』というタイトルでオペラ化しています。アミアンでの出会いに始まり、パリでの生活、サン=シュルピス教会での再会と、順を追って描かれます。ただ、このオペラでは、マノンはアメリカへ送られる前に死んでしまうので、ルイジアナの場面はありません。全体としては悲劇と言うより、ヒロインのコケティッシュな性格を前面に押し出しています。DVDでは、フレミング(2001年)やネトレプコ(2007年)が若い時代に演じたマノンが、その魅力を十全に開花させています。

マスネの9年後、1893年、今度は若きプッチーニが『マノン・レスコー』を発表し、彼の出世作となりました。ここでも第1幕はアミアンでの二人の出会いです。馬車に乗ったマノンが田舎の旅籠屋にやってきます。オペラ演出において時代を現代に置き換えるのは今日ではもう常套手段ですが、10数年前にパリで見たカーセン演出では、高級乗用車と高層ビルのホテルがあらわれて、意表を突かれました。プッチーニのオペラでは、幕ごとに話が飛んでしまうので、脈絡がつかみにくいです。当時よく知られた物語だったので、それでも支障がなかったのでしょう。最終幕はルイジアナ、マノンは死を前にして「ひとり寂しく捨てられて」と歌い、悲劇の頂点で幕が下ります。

マノン・レスコーと言えば、ファム・ファタルfemme fataleの原型とも言われています。

宿命の女、魔性の女、妖婦、毒婦などと訳されますが、その魅力によって男を破滅させる女です。ただ、この定説に対して、マノンはむしろ犠牲者で、デ・グリューこそがストーカーだという異説が提出されています。たいへんユニークで、しかもそうかもしれないと思わせる筆力を備えています(青柳いずみこ『無邪気と悪女は紙一重』)。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(50)

« Mon Nara » No 280, 2017年3-4月号 掲載

フランス文学の庭から(50)

名句の花束

三野博司(会長)

Ses charmes surpassaient tout ce qu’on peut décrire. (1)

彼女の魅力は描きうるすべてを越えていた。

(アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』 1731年)

「名句の花束」も第50回となりました。2009年、当時の Mon Nara 編集担当者から、記事が集まらないので誌面を埋めるために何か書いてほしいと頼まれたのがことの始まりです。以来、一度も休載することなく続いています。今では、Mon Nara は様変わりして、毎号記事が満載。その中で1頁のスペースを頂戴するのは肩身が狭いと感じるほどに、各頁に読み応えのある文章が並んでいます。この充実した誌面の背後には、代々の編集担当者の隠れた努力があることを強調しておきたいと思います。

一貫した方針もなく書き綴ってきた連載エッセイですが、このところはオペラになったフランス文学の名作を取り上げています。今回は、マスネやプッチーニのオペラで有名な『マノン・レスコー』です。原作であるアベ・プレヴォー(Abbé Prévost 1697-1763)の小説は、二つのオペラより150年も前に書かれた小説です。アベという名の通り、彼は修道士となりますが、修道院生活中から、連作『ある貴人の回想録』を執筆します。1731年、その第7巻として、ロンドン滞在中に『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの実話』を書き、この一作で文学史に名を留めました。わずか1~2週間で執筆されたと言われています。

まず語り手は、パシーで騎士デ・グリューとマノンの二人に出会います。次に会うのは、2年後カレーですが、今度はデ・グリューひとりだけです。実はこの間に二人はアメリカへ渡り、そこでマノンは死んでいるのです。そして、デ・グリューが、マノンとの出会いから悲劇的な結末までを話し始めます。語り手は、それに一行たりとも付加することなく、ここに記すのだと言います。18世紀の小説によく用いられた入れ子構造ですが、前回紹介した19世紀の作品である『カルメン』も同じ構造であることに気づかれたでしょうか。

始めにデ・グリューは、語り手に言います。「私はあまりにも彼女を熱烈に愛しているため、あらゆる男の中でいちばん不幸な人間になったのです。 Je l’aime avec une passion si violente qu’elle me rend le plus infortuné de tous les hommes. 」これがデ・グリューの物語をみごとに要約しています。以下に語られるのは、他に類を見ない「情熱」の異常なまでの激しさ、そして倦むことなく繰り返される恋ゆえの愚行、その結果次々と降りかかってくる不幸の連続です。マスネも、プッチーニも、この情念の奔流の物語をオペラにしたのです。デ・グリューとマノンの最初の出会いはアミアンです。初心な若者であった彼が、少女のマノンに出会い、たちまち恋のとりこになってしまいます。この一目ぼれの瞬間から、彼はマノンを「とても魅力的si charmante」と語り、以後「美しい」「魅力的」という言葉をいくたびも繰り返します。とはいえ、どこが、どのように魅力的なのか、マノンの身体的特徴について彼はほとんど語りません。

名句に取り上げたのは、パリのサン=シュルピス教会での再会の場面。デ・グリューはこう語ります。« Ses charmes surpassaient tout ce qu’on peut décrire. » これをあっさりと「この世ならぬ美しさだった」(青柳瑞穂訳)と訳しているものもありますが、きっちり訳すと、「彼女の魅力は描きうるすべてを越えていた」となるでしょう。恋に盲目のデ・グリューには、マノンの魅力を客観的に描く余裕などないのです。彼は、その美を崇拝するだけです。「お前は神様の作った人間としてはあまりにもすばらしい。Tu es trop adorable pour une créature. 」

彼にとって、マノンはcréatureつまり神が作った人間以上のものなのです。読者のほうとしても、デ・グリューが具体的に語ってくれないマノンの魅力を、ただこの世ならぬ美として受け入れるしかありません。(以下次号)

 

名句の花束ーフランス文学の庭から (49)

« Mon Nara » No 279, 2017年1-2月号 掲載

フランス文学の庭から(49)

名句の花束

三野博司(会長)

Carmen sera toujours libre.(2)

カルメンはいつだって自由なのさ。

(プロスペル・メリメ『カルメン』1845年)

ビゼーの『カルメン』は、メリメの小説発表から30年後、1875年、オペラ・コミック座で上演されました。これは転換の年でもありました。このときからオペラ・コミックのレパートリーが拡大します。パリ・コミューンで焼失したパリにある別の劇場、テアートル・リリックのレパートリーを取り込んでいくのです。

オペラ化にあたって、原作の小説に台本作者がほどこした改変に注目する必要があります。悲劇的な枠組みを保持しながら、オペラ・コミックの伝統を尊重するため、ミカエラが付け加えられました。このミカエラ、どんな演出家の手になる舞台で見ても、服装はいつも青いスカートで、おさげ髪なのです。それもそのはず、メリメの原作では「青いスカートをはいて肩のうえに編んだおさげ髪をたらした娘」とだけあり、名もない娘です。このわずか一行にも足らない記述から、台本作家は、外見だけは原作に忠実に、ホセを恋い慕うミカエラという少女像を生み出し、彼女に大きな役割を与えました。それに、カルメンがメゾ・ソプラノの奔放自在な女性ですから、これと対照的な清純派のソプラノを配するのは当然でもあるでしょう。

またドン・ホセのテノールに対して、やはりバランスを取るべくバリトンが必要です。原作では最後に少し登場するだけの闘牛士ですが、これがオペラではエスカミーリョとなって、ホセの対抗馬として重要な役割を担うことになります。

ビゼーの音楽は、だれもがそのメロディやリズムが自然と頭のなかに湧き上がってくるほど有名なものになっています。作曲家は、スペイン音楽を取り入れ様式化しただけでなく、運命を表わすモティーフによってドラマに深い統一性を与えています。開幕からあらわれる死のモティーフがところどころで繰り返されて、最後のカルメンの死の場面で最高潮に達します。オペラの幕切れは悲劇です。これはオペラ・コミックとしては異例のことでした。

名句として掲げたのは、カルメンがホセに殺されることを受け入れる場面のセリフです。

Comme mon rom, tu as le droit de tuer ta romi, mais Carmen sera toujours libre. Calli elle est né, calli elle mourra.

あんた、あたしのロム(亭主)だもの、自分のロミ(女房)を殺す権利はあるよ、だけどカルメンはいつだって自由なのさ。カリ(ジプシー)に生まれついた女なんだ、カリ(ジプシー)のまんま死んでってやるよ。

最後までジプシーとしてのアイデンティティを守り、自由であろうとする彼女の生き方がここに集約されています。フランス文学にあらわれるジプシーは、すでに「名句の花束」第33~35回でとりあげたユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』のヒロイン、エスメラルダがいます。ただ、彼女の場合は、実は赤子のときにジプシーにさらわれて育てられた娘であったという落ちがついています。

カルメンというのは、マリアと並んでスペイン人に多い名前のようです。かつてクレルモン=フェラン大学の博士課程に籍をおいていたとき、同時に外国人向けの語学学校の講座にも短期間出席していました。さまざまな国から来た若者たちと出会いましたが、そのなかにカルメンがいました。オペラのヒロインのイメージが強烈だったので、名前から連想する印象とはまるで違っていて、はじめは少しとまどいました。聡明で落ち着いた性格の女子学生でした。ただし、フランス語を話すとき、スペイン語式を持ち込む癖がありました。母音にはさまれたsを「ス」と発音するのです。彼女が話すとき、Vous avezも、Vous savezも同じく「ヴサヴェ」となるので、区別がつかず面食らいました。

 

 

名句の花束ーフランス文学の庭から (48)

« Mon Nara » No 278, 2016年11-12月号 掲載

フランス文学の庭から(48)

名句の花束

三野博司(会長)

Carmen sera toujours libre. (1)

カルメンはいつだって自由なのさ。

(プロスペル・メリメ『カルメン』1845年)

 

前回はボーマルシェを取り上げ、その二つの戯曲がオペラ化されて広く知られるようになったと述べました。同様の例として、すでに『名句の花束』第38・39回で、ベルギーの作家メーテルランクの『ペレアスとメリザンド』を紹介しています。これらのように、戯曲をオペラとして上演するにあたっては、翻案に際しての改変は比較的小規模なものにとどまります。他方で、小説のオペラ化となると、作品の構成、とりわけ語りの構造の大きな変更が必要になる場合が多いようです。

オペラ化されたフランスの小説で、一番にあげるべきはやはり『カルメン』でしょう。メリメの原作は1845年に発表されました。小説を書くと同時に考古学者・言語学者・史跡監督官でもあった彼の『カルメン』には、作者の体験が裏打ちされています。4つの章に分かれ、まず第1章では、作者の分身とおぼしきフランス人の考古学者が語り手として登場し、その旅物語が始まります。彼はスペインのアンダルシア地方で調査中、怪しげな男ドン・ホセに出会います。続く第2章で、語り手はボヘミアンの女カルメンと遭遇し、彼女に同行して入った部屋でドン・ホセに再会します。その後数か月が経過して、彼はまたもや、今度は囚人となったドン・ホセに面会するのですが、実はこの2度目と3度目の出会いのあいだに、ホセはカルメンを殺しているのです。ホセは自分の悲しい生涯を語りはじめます。続く第3章全体が、ホセが語る数奇な体験の詳細です。このあと、さらに第4章が付加され、語り手がジプシーに関して学者としての蘊蓄を披露します。

ビゼーのオペラは、第3章のホセの物語に基づいていますが、これは小説全体の5割ほどでしかありません。台本作者はオペラ化にあたって大きな伐採を行い、物語の核心部分だけを取り出して、奔放で淫蕩なジプシー女のドラマチックな物語に仕立てあげたのです。そうした要素はもちろん原作にも含まれていたわけですが、メリメの学究的な態度と、抑制された筆致によって、この作品はむしろ古典的ともいえる端正な姿を呈していました。オペラは、そのなかから、強烈な個性をもった不滅のヒロインを引き出したといえるでしょう。

この第3章では、ホセが語り手であり、すべてが彼の視点から語られます。彼は命令に従う兵士であり、カルメンを逮捕しなければなりません。彼はまた家族の秩序に従う息子であり、母や婚約者がいます。さらに彼は19世紀の祉会において男性としてふるまうことを要求されます。しかし、カルメンによって魅惑され、その魔力にとらえられたホセは、こうした社会的秩序から転落していくのです。カルメンは、彼の男性としての優越性を奪い、力関係を転覆させ、相手を懇願する存在へと至らしめます。ホセは、密輸の仕事仲間に加わり、人殺しに手を汚し、ついには嫉妬の果てに山中でカルメンを殺害するに及ぶのです。

ドラマの観点から統一性を与えているのは円環構造です。投げる行為で始まり、同じ動作で終わります。カルメンがアカシアの花を投げてホセを誘惑し、これが彼の転落の始まりとなります。そして、最後はカルメンが、むかしホセからもらった指輪を投げ捨て、相手の怒りを誘います。彼女は、相手を挑発して、自分を殺すようにと導くのです。この二つの場面はメリメの原作にもあるのですが、オペラではとりわけこの投げる動作が強調されて効果をあげています。ここでは、カルメンが初めから終わりまで指導権をもち、ホセを挑発し続けます。しかし、そのカルメンにも自由な選択が許されているわけではありません。死の宿命が彼女を支配しているのです。彼女は何度かカルタ占いを行って、こう言います。「あんたがいつかあたしを殺すことはわかっている。死が待っていることは知っているよ」。こうして、逃れられない悲劇へと向かって二人は突き進んでいきます。

名句の花束-フランス文学の庭から(47)

« Mon Nara » No 277, 2016年9-10月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(47)

 三野博司(会長)

 Tout finit par des chansons. (2)

ものみな歌で終わる

(ボーマルシェ『フィガロの結婚』 1780年)

 

パリのコメディ・フランセーズの正面玄関を入ると、椅子に腰かけてほおづえをつくモリエールの全身像が目を引きます。その手前にはボーマルシェの像もありますが、こっちはずっと小ぶりの胸像です。この建物が建造されたのは1799年、ボーマルシェ死の年であり、『セビリアの理髪師』も『フィガロの結婚』も上演は別の場所でした。

『セビリアの理髪師』の筋立ては、古典的な喜劇の常套に従っています。中年の男が若い養女を育ててやがては妻にしようと虫の良い目論みを立てますが、結局は若い男があらわれて掌中の珠をさらっていくという話。モリエールも同じテーマで『女房学校』を書いています。これだけなら新味はないと言えますが、ただ従者として登場するフィガロに、身分は低いけれども機転がきき、陽気で策略好きという基本的な性格が付与され、芝居を生き生きしたものにしています。

続篇の喜劇『フィガロの結婚』は、18世紀でもっとも成功した芝居です。こんどは主役として登場したフィガロが、縦横無尽に活躍します。彼の口から、当時の特権階級を攻撃するスローガンが発せられると、観客は喝采したといわれています。時代はすでにフランス革命前夜でした。なかでも第5幕第3場、フィガロが観客席に向かって発する長い独白は人口に膾炙されていますが、伯爵を批判する内容のその一部を引用しましょう。生まれの貴賤が一生を決定するという身分制度への批判が、痛快なせりふで語られます。

「あなたは自分が大貴族だから、うまれつきの才能もたっぷりあると思ってる!……爵位、財産、地位、いくつもの肩書き、全部揃って威張りくさっているんだ! でも、これだけのおいしい結果を手に入れるのに、あんたはいったい何をしたんです? 生れるという骨を折っただけ、後は何もしてないじゃないか。Qu’avez-vous fait pour tant de biens! Vous vous êtes donné la peine de naître, et rien de plus.」(鈴木康司訳)

ル・フィガロ (Le Figaro) は、フランスの日刊紙の名前にもなっています。1826年創刊、現在もなお刊行されて、フランス国内では最も古い歴史を持ちます。政治的色分けとしては保守中道といったところです。紙面では標題の下に次のことばを標語として掲げていますが、これは先にも紹介した第5幕第3場のフィガロの長台詞の中にあります。

« Sans la liberté de blâmer, il n’est point d’éloge flatteur. »

「譴責処分なんてものがなければ、お追従、おべっかもなくなるさ」

ところで、名句に掲げたのは、『フィガロの結婚』最後の句です。フィガロの「どうぞ皆様、私めに嬉しい喝采と名誉をくださいますよう」で大団円を迎えたあとに、音楽付きのヴォードヴィルが続きます。バジールが先導をつとめ、以下、シュザンヌ、フィガロと登場人物たちが順次口上を述べたあと、最後に登場したブリドワゾンが、次の句で締めくくります。

« Tout finit par des chansons. »

往年の辰野隆訳は「唄でおわるが世のならい」、小場瀬卓三訳は「歌でめでたし しめくくり」、最新の鈴木康司訳は「すべては歌でめでたしとなる」となっています。表題に掲げた「ものみな歌で終わる」は、ボーマルシェの芝居を愛した花田清輝の戯曲の題名です。1964年、日生劇場の柿落としのために書かれ、上演されました。「かぶきの誕生に関する一考察」の副題が示すように、佐渡島を舞台に出雲のおくにを描き、フィナーレは京都四条河原。「歌で終わる」というより、これから歌舞伎をはじめようとするところで幕が下ります。

 

名句の花束ーフランス文学の庭から(46)

« Mon Nara » No 276, 2016年7-8月号 掲載

名句の花束-フランス文学の庭から(46)

 三野博司(会長)

 

Tout finit par des chansons. (1)

ものみな歌で終わる

(ボーマルシェ『フィガロの結婚』 1780年)

 

オペラ台本の素材を提供した戯曲作家といえば、なんといってもシェイクスピアが筆頭でしょう。若き日のヴェルディが若々しい力あふれるオペラに仕立てあげた『マクベス』、そして晩年の円熟を示す名作『オテロ』と、『ウィンザーの陽気な女房たち』をもとにした『ファルスタッフ』。これだけで3作ですが、さらに他の作曲家たちの手になる『ハムレット』『真夏の夜の夢』『ロメオとジュリエット』もあります。断然第一位ですが、このシェイクスピアに次ぐのは、18世紀フランスのボーマルシェではないでしょうか。彼は人気オペラ作品『セビリアの理髪師』と『フィガロの結婚』の原作者なのです。フィガロ三部作のうち、最後の『罪ある母』は凡作と見なされていますが、前2作は戯曲として成功しただけでなく、オペラ化されて不滅の名声を獲得したといえるでしょう。

この2作のオペラについては、私も映像で見る以外に、パリで何度か実際の舞台に接したことがあります。だが、そこはストライキ好きなフランス人のこと、オペラとて例外ではありません。オーケストラ楽員や合唱団メンバーのストライキではなく、道具方のストだったのがまだしも幸いだったといえるのかもしれません。歌手は衣装をつけて登場し、かんたんな小道具もあるのですが、舞台装置や大道具がありません。なんとも味気ないですが、歌や演奏さえよければそれでもいいとも言えます。むかしはLPレコードで音楽だけを聞いていたわけですから。

映画監督でもあるコリーヌ・セロー演出の『セビリアの理髪師』は、パリで2002年から2012年までたびたび上演されました。2002年にこの初演を見ました。趣向を凝らした楽しい舞台でしたが、数年後に再び見たときは、ストライキのため舞台装置がありませんでした。前回の記憶を必死で想起しながら、殺風景な舞台を想像力で補いました。他方で、『フィガロの結婚』は、1970年代からパリ・オペラ座でジョルジュ・ストレーレル演出による伝統的な舞台を再演し続けています。18世紀の雰囲気あふれる洗練された名演出ですが、これも2回目はストライキに出くわしました。このときも、前回の記憶が頼りでした。他の演目では、パリ・オペラ座のストライキに遭遇したことはありません。なぜこの2作なのか。主人公であるフィガロの反骨精神がストライキを誘発したのかと思ってしまいます。

舞台で機略縦横の活躍を見せるフィガロは、波瀾万丈の生涯を送ったボーマルシェ自身の姿だと言われています。先に書かれたのは『セビリアの理髪師』で、1775年です。大当たりを取ったので続編『フィガロの結婚』が書かれ、1780年に完成したものの上演許可がおりず、初演は1784年でした。このパリでの評判を聞きつけたダ・ポンテがイタリア語の台本を書き、モーツアルトが作曲して、早くも1786年にはウィーンで上演されました。登場人物名もイタリア語化され、原作のシュザンヌがオペラではスザンナ、シェリバンがケルビーノといった具合です。全編これ名曲といえますが、「手紙の二重唱」の美しさは比類がありません。

他方で、『セビリアの理髪師』のほうは、19世紀に入ってから、1816年、ロッシーニ作曲によってオペラになりました。多作であったロッシーニのオペラは、いまでは世界中で上演されていますが、その再評価が始まる1970年前後までは、『セビリアの理髪師』が唯一の代表作でした。お涙頂戴ものが多いイタリアオペラの中では、少数派の明朗喜劇です。メゾ・ソプラノが主役になるオペラは数少なく、『カルメン』と『サムソンとデリダ』が代表的な作品ですが、『セビリアの理髪師』は、同じロッシーニの『チェネレントラ』と並んで、ヒロインはメゾ・ソプラノです。ロジーナが歌うカヴァティーナ「ある声が今しがた」がやはり耳に残ります。(以下次号)

 

 

 

 

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